紫苑  白と紅の追複曲〜kanon〜

   後編





















「ごめん、紫苑」

 言いたかった2つ目の言葉は、それだった。
 俺がこの町を離れた、別れのあの日。俺は勝手な理屈で、何の関係もない紫苑に向かってひどい言葉をたくさん吐いた。
 今思えば、あの時の紫苑は、失意の内にいた俺の身を案じてやってきてくれたのだろう 。俺の身の上に起こった事を紫苑が知っているはずはなかったが、こいつならば何ができても不思議ではないから、どうやってかその事を知るに至ったのだろう。それだけ、紫苑が俺の事を気にかけていてくれたという事かもしれない。
 なのに俺は、そんな紫苑の気持ちを考えもせずに、ただ感情のままに暴言を吐き散らした。
 八つ当たりなんて言うのもおこがましい、最低の行為だった。
 名雪の時と同じだ。俺のこれからをかけて、精一杯償わなくちゃいけない事だ。
 けれど、そんな思いを込めた俺の言葉に対して、紫苑は小さく首を振るだけだった。

「許して、くれるのか?」

 紫苑は何も言わない。
 それは、肯定とも否定とも違っていた。
 まるであの事は、紫苑にとって大きな意味を成さない事であるかのように。

「けど紫苑、俺は・・・・・・」

 償いたい。
 そう言おうとした俺の口に、紫苑の指が当てられる。それ以上、何も言うなとでも言うように。

「あなたには、何の罪もない」

 そして紫苑自身の口から、本当にひさしぶりに聞く声で、意味のある言葉が紡がれる。
 こいつはいつだって、意味のない言葉は発しない。だから普段、話す事はほとんどない。
 紫苑が話す時、その言葉には必ず意味が込められていた。
 そしてその言葉には、決して偽りがない。
 本心から紫苑は、その言葉を発しているのだ。
 何もかも知っているかのような顔で、それでも俺には何の罪もない、と。

「そんなはずないだろう! 俺は・・・俺がした事は・・・・・・」

 俺はこの町で、たくさんの人を傷付けた。
 真琴を、舞を、あゆを、名雪を・・・・・・そして紫苑にも。
 傷付けた事を後悔して、なのに自分も傷付いた事が悲しくて、その悲しみから逃げたくて全部忘れていた。何よりも、その逃避こそが俺の最大の罪だ。
 あの時俺は、自分の事しか考えてなかった。
 忘れられるという事が、どれだけ辛い事か考えるほどに、自分の犯した罪の重さを感じる。
 悲しみから逃避するために、全てを忘れていた俺は、どうしようもなく、ひどい奴だった。

「ああ、そうだな・・・・・・。一言謝ったくらいで、俺が許されるはずなんかないよな」
「違う」

 自嘲する俺を、紫苑は言葉でもって即座に否定する。

「わたしが、卑怯だったのよ」
「え?」
「あの時のあなたに、ああして問いかければ、頷く以外の道をあなたが選べないとわかっていたから」
「どういう・・・・・・事だ?」
「あなたが悲しみに押し潰されてしまうのを見たくなかったから。あの時のあなたには、悲しみに耐えて生きていくだけの強さがなかったから」

 紫苑はスッと、俺の前の前に手をかざす。

「わたしの力は、他人の“もの”を奪う。傷の“痛み”や、過去の“記憶”。存在を認識できる“もの”なら、全て」

 俺ははじめて、紫苑の力の正体を聞かされた。
 最初に会った時やさっき、俺の額の傷から痛みを失くしたのも、別れのあの日に俺の記憶を失くさせたのも、全部紫苑のその力によるものだった。
 他人の“もの”を奪う力、か。
 だけど、それでも・・・・・・。

「けど、頷いたのは俺だ。忘れて、逃げて、楽になりたいと思ったのは、俺自身なんだよ」
「人はそう簡単に、安息の道の誘惑に抗えるものではないわ。あなたの選択は、他人が責められるものじゃない」
「他人じゃない。俺自身が、俺の事を許せないんだ」
「・・・・・・そう」

 そうだ。他の誰が許したとしても、俺はあの時の自分の選択を、自分自身で許す事ができない。
 これから先、その思いが薄らぐ事はあっても、消える事は決してないだろう。
 この思いは戒めとして、いつまでも俺の心に残しておく。
 もう2度と、後悔しないために。

「だけど紫苑」

 呼びかけると、紫苑は静かにこちらに視線を向ける。

「俺が今、こうしていられるのは、紫苑のお陰だと思ってる。紫苑がいなかったら俺は、悲しみに押し潰されて、二度とこの町に帰ってくる事はできなかったと思う。忘れるという逃避の道を自ら選んでしまった事は許せないけれど、だからこそ俺は、もう一度この町に帰ってくる事ができた。罪を償う機会を得る事ができた」

 だから、もう一つの言葉を口にする。

「ありがとう、紫苑」

 紫苑はそれに対しては、何も答える事はなかった。
 踵を返した紫苑は、境内の隅の方へ歩いていく。そっちの方からは、町の景色を望む事ができる。
 柵のあるところまで行ったところで、紫苑は振り返る。

「わたしは、わたしのしたい事をしただけよ」

 そう言って再び、町の方を向く。
 俺は少しだけ、紫苑のいる方へ近付いた。けれど、隣に並ぶ事はしなかった。

「祐一」

 背中を向けたまま、紫苑が俺の名前を呼ぶ。

「人の世は、たくさんの喜びに満ちているわ。けれど、それと同じだけの悲しみも存在している。喜びと悲しみは等価だから、それは仕方のない事」

 いつになく長い言葉が、紫苑の口から紡がれる。
 それはきっと、とても大事な事なのだろう。
 俺は静かに、紫苑の言葉に聞き入った。

「わたしが悲しみを奪った人は、それと等しいだけの喜びも、また同時に失う事になる」

 代償、という事だろうか。
 確かに、この町を離れていた頃の俺は、いつも何か物足りなさを感じていた。何を成し遂げても、達成感というものに乏しかった。心の底から嬉しいと思える事がなかったのだ。
 悲しみを忘れていたから、喜びを得る事ができなかったという事か。

「わたしの力は他人の“もの”を奪う。だけど、完全に消し去る事はできないのよ。だからあなたは帰ってきて、思い出した」
「・・・・・・そうだな。この町に帰ってきて、過去に触れる度に、少しずつ思い出していったよ。ここに来た時点で、紫苑の事以外は、全部思い出してた」
「あの頃からあなたは、強くなったのね。過去と向き合えるほどに」
「どうなのかな・・・・・・」

 正直、自分が強いかどうかなんてわからなかった。
 ただもう、逃げる事だけはしたくない。
 その思いだけは、強く抱いていた。

「あなたが過去の悲しみと向き合う事で、未来にそれと等しい喜びを得る事ができたなら、わたしはそれでいい」

 最後に振り返って、俺を真っ直ぐ見据えながらそう言って、紫苑は話を終えた。
 こんなに長く話す紫苑を見たのは、はじめてだった。
 それだけ大事な話だった。
 そして最後の言葉はきっと、7年前の別れの時の言葉に続くものだったのだろう。
 紫苑があの日、俺の前に現れて記憶を奪っていった理由。俺が悲しみを受け入れられる強さを得られるまで、俺を悲しみから遠ざけて、いつか思い出した時に、悲しみと向き合うと同時に、喜びを得られるように願ってくれた。
 俺のためにそれをしてくれた紫苑。その事が、無性に嬉しかった。

「やっぱり、もう一度だけ言わせてくれ、紫苑。ありがとう」

 やっぱり紫苑は、頷く事も、首を振る事もしなかった。
 けれど、伝えたかった言葉は伝えたから、それでいい。
 過去を振り返るのは、これで終わりだ。
 忘れる事は決してない。
 俺にとって過去の罪は、ずっと罪として存在し続ける。誰よりも、俺自身が絶対にそれを捨てたりしない。
 だけど、それに引きずられて足踏みするのはもうやめだ。
 罪を背負いながら、俺も未来を向いて生きていこう。
 みんながそうしているように。
 そう思ったら、ずっと沈みかけていた心が、フッと軽くなったような気がした。
 これも紫苑と再会して、紫苑の話を聞いたお陰か。
 ああ、そうだな。もう一つ、紫苑に言いたい言葉が思い浮かんだ。
 すごく、月並みだけどな。

「紫苑、おまえに会えて良かった」
「ん」

 紫苑は、今度はいつものように、小さく頷いてくれた。




 もっとたくさん話したい事はあったが、すっかり陽が沈む時間になってしまったので、今日は帰る事にした。
 一度再会すれば、またいつでも会う事はできる。
 そうだな。

「また来ていいか、紫苑?」

 境内を出て少し行ったところで振り返り、石段の上にいる紫苑に問いかける。
 紫苑は、小さく首肯した。
 俺はわかりきっていたその答えに満足して、手を振りながら石段を駆け下りた。
 完全に神社を後にしたところでふと思った。

「みんなにも、紫苑を紹介してやりたいな・・・・・・」

 皆もう、未来を見て生きているとは言え、それぞれに俺と同じように、過去に何かしらの傷を負っている奴らだ。
 紫苑に会わせる事で、あいつらの傷を少しでも癒す手助けができるかもしれないと思った。
 それに紫苑の方も、あいつは寂しいなんて思うような事はないんだろうけど、あの境内にいつも一人でいては友達もほとんどいないだろう。そもそも、あいつは俺と同い年くらいのはずなのに学校には行っていないのだろうか。と、そもそも俺は紫苑の事全然知らないんだな。
 とにかく、紫苑とあいつらが友達になれたら、すごくいい事のように思えた。

「よし、決めた! 次に来る時は誰か連れてこよう。誰からがいいかな・・・?」

 あまり大勢で押しかけて、あの静かな境内を騒がしくするのもあれだし、最初は1人か2人くらいずつがいいよな。
 名雪に、真琴と天野、舞と佐祐理さん。栞とあゆはもうしばらく先になるか・・・・・・あ、その場合、逆に紫苑を病院に連れて行くというのはどうだ。けど、あいつ外出着なんか持ってるのか・・・・・・7年前の別れの日に向こうから出向いて来た時も、境内にいる時と同じ巫女服だったような気がする。
 その時はあいつに似合いそうな服でも町で見繕って・・・・・・って、それじゃまるでデートするみたいじゃないか。
 紫苑と・・・・・・デート・・・・・・。

「ちょっ・・・何俺メチャクチャ顔熱くなってんだよ!?」

 違うぞ。俺が紫苑に抱いてるのは恋愛感情とかとは別のものであって、決してデートしたいとかそんな事は、って誰に向かって言い訳してんだ俺は。

「やべぇ・・・・・・これじゃ振り出しに戻ってるじゃないか・・・・・・」

 一度落ち着けば、あいつの傍ほど穏やかでいられる場所はないって言うのに。逆に一度戸惑いだすと際限なくうろたえてしまう。
 俺が思っている以上に、紫苑の存在は俺の中で大きなウェイトを占めているらしい。色んな意味で。
 ううむ、恐るべし紫苑・・・・・・。

「とにかく、家に帰り着くまでに頭を冷やさないとな」

 今日、俺はこの町で、最後の再会を果たした。
 7年前のあの日、俺の記憶と悲しみを奪って、俺を救ってくれた少女、東雲紫苑。
 この再会が、俺達の新しい日々の幕開けとなる、そんな予感がした。
 きっとその日々にも、時々辛い事はあるのだろう。
 けれどそれは、未来へと続く楽しい日々になるはずだった。
 絶対に。

「なぁ、紫苑――」



















あとがき
 平安京神社初期の出世作「紫苑」が、リメイク読み切り版で復活だ。
 あくまで読み切り版。連載という形を取るとどこまで続くか保証できないので、今後紫苑と他のヒロイン達との触れ合いを描く予定はあれど、その全てを短編的な読み切りものとしていくつもりである。だからどこまでいくかは不明。これっきりの可能性もあり。けど、大元の大事な部分はこの前中後編で書いてしまっているので、後の話は全ておまけである。
 リメイクに当たり、まずはこの話の原点に帰る事を第一に心がけた。ではそもそも「紫苑」の原点とは何か。
 1.7年前に祐一の記憶を消したオリジナルヒロイン東雲紫苑が主役である。
 2.所謂Kanonオールエンド後の話だが完全なご都合主義に走らず、各登場人物の物語を様々な形で補完していく。
 さてこのリメイク版では、まず1は当然の事として、紫苑がメインの話となっている。この際、祐一との馴れ初めに関する部分を前とは変えてあり、また紫苑自身の事も忘れているという形になった。ちなみに、紫苑の姉と妹は設定上はリメイク後も存在している、が、今回は出番なし。この先があるなら、いつか登場させる予定は、ある。2の方は一見この読み切り版とは関係ないように見えて、実はしっかり描かれている。即ち、これは祐一の物語の補完なのだ。原作よりもちょっと過去に対する罪の意識が強くなっている祐一が、紫苑との再会によって救済される、というのがこのリメイク版のメインテーマである。で、まぁ、やはり先があるなら、他のヒロイン達も紫苑との触れ合いの中でそれぞれの物語を補完していきたいのだが、前述のとおりそこまで行くかどうかは不明だ。
 元々オリジナルヒロインを交えたKanonのアフターストーリーという話なわけで、ずっとリメイクは考えていたのだけど、現在オンエア中のアニメがクライマックスに近付いているのに合わせて実行に移してみた。なので結構、 原作ゲームでは触れられずアニメでは描写されていた細かい部分でアニメKanonの流れを汲んでいる。アニメでは名雪とあゆに関してどういう結末を用意しているかまだわからないが、この「紫苑」では全ヒロインと、アニメでの舞や栞のような感じの終わり方、つまりは“ハッピーエンド目前だけど結ばれるところまでは行っていない”的な状態になっている。誰とも結ばれない状態で全部の記憶を取り戻しているものだから、この話での祐一はまだちょっと過去を引きずっているような形になっているわけだ。
 主役である紫苑については、細部の設定を前から少しいじってある。だが、根本的な部分では変わっていない。ミステリアスで無口というと舞のようだが、舞と違って口下手だったり人付き合いが苦手だったりするわけではなく、必要な時には わりと饒舌になる。傷を癒してみせたりと、舞と同じような力を持っているように見えるが、紫苑の力と舞の力では根本的な部分が違う。その違いに関しては舞編があれば詳しく書きたいところだ。ちなみに今後について構想の固まり具合の順序は、舞編>栞編>真琴編となっている。といっても現時点でのそれぞれの完成度は、20%、15%、 10%程度といったところだ。
 リメイク前と比べると、紫苑→祐一の感情の有り方にはあまり変化がないのだが、祐一→紫苑の気持ちの有り様が結構違っている。前は「紫苑とはそんな関係じゃない」と平然と言っていたものが、今度は突然紫苑の前に出ると混乱してしまうようになった。我ながら、この祐一はなかなかかわいいのではないかと思ってたり。
 重すぎず、軽すぎず、なかなかいい話が書けたかなー、とか思いつつ締めてみる。今のところ、次回がある確率は60%ほど。