紫苑 白と紅の追複曲〜kanon〜
中編
一瞬、何かのイメージが脳裏を過ぎった。
所謂デジャヴというやつだ。
けれど、それが何だったのかは、その時点ではわからなかった。
「・・・・・・・・・」
少女を構成するパーツは、その全てが白と紅の2色に分けられていた。
纏っている衣装は、白い着物に緋色の袴という、所謂巫女装束だ。街中で見かけたら珍しいだろうが、ここが神社だという事を考えれば、別におかしな格好でもない。
それ以上に何よりも目立つのが、足下まで届こうかというほどに長い、真っ白な髪。
肌も着物や髪と同じく、雪のような白さをしている。
そして最も俺の目を惹きつけるのが、夕日の色よりも、緋色の袴よりも、尚赤く深い、真紅の瞳だった。
「・・・・・・・・・」
巫女姿の少女は、俺の来訪に早くから気付いていたようで、俺が石段を登り終えた時にはもう、その紅い瞳をこちらに向けていた。
視線は険しいものではない。
かといって、穏やかというわけでもない。
あえて言うなら、静かな視線、とでも言うべきか。
むしろ本当に俺の事を見ているのかどうかもわからないくらいで、もしかしたらただこちらに顔を向けているだけで、俺の事など見ていないのかもしれないとさえ思えた。
それでも俺には、彼女の視線が真っ直ぐ俺を見詰めているような気がしたのだ。
俺の方はと言えば、見惚れていたのかもしれない。
白い髪や紅い瞳が珍しい、というのももちろんあったが、何よりも少女の、この世のものとは思えない綺麗さに。
まるで物語の中のお姫様か女神様に会った時のような表現だが、それ以外の言葉が思いつかない。
何故ならその少女は、本当に物語の中にしかいそうにないくらい、常軌を逸するほどに綺麗だったのだから。
ついさっきまで、俺は日常の景色の中にいたって言うのに、長い石段を登って辿り着いた場所は、まるでそこから切り離された幻想世界のようだった。
そこにはこの世ならざる美貌の少女がいて、その姿を見てしまった俺は、こうして見入ってしまっている。
人界の男と天界の乙女の出会い。
まるで物語の1ページそのものだった。
そうして、随分長い間お互い無言で見詰め合っていたような感覚だったが、実際にはほんの数秒の事だった。少女は軽く俺に向けて会釈をすると、手にした竹箒を動かして、俺が来るまで行っていたらしい境内の掃除を再開した。
浮世離れした美しさを持つ少女と、彼女の雰囲気が生み出す幻想的な空間において、境内を掃く竹箒の音だけがひどく現実的で、俺の意識を日常へと引き戻す。
何をしてるんだか、俺は。
美少女に見惚れてる場合でもなかろうに。
確かに世間的に見て美少女と呼べる奴らが多く知り合いにいる中、彼女達の誰とも違った綺麗さを持った少女ではあるが、それだけの事だ。
本当の物語じゃあるまいし、出会ったその瞬間から芽生える恋なんてものがそうそうあるわけじゃない。
俺は当初の目的を遂げるべく、掃除を続ける少女の横を通り抜けて拝殿の前に向かう。
賽銭箱の前に立ち、財布から10円玉を取り出して投げ入れ、鈴を鳴らして拍手を打つ。お参りにも作法とかあるらしいが、そんなものは知らないので適当だ。
何を願うか、なんて事も深くは考えない。
あえて一言でまとめるなら、無病息災、といったところか。
本当に、それが一番だ。それはもう、嫌というほど思い知らされた事だからな。五体満足でいれば、いつかいい事もあるはずだ。
10秒ほど手を合わせていた俺は、ふと気になって顔を上げた。
何気なく訪れたが、ここは一体何という神社だったか。鳥居のところにも書いてあったような気がするが、その時はさっきの巫女の少女に気を取られていて見損ねてしまった。
別に神社の名前などどうでもよかったのだが、一度考え出すと気になってしまう。
少し探してみると、すぐ頭上にそれを見付けた。
「えーと、東・・・雲・・・・・・とううん? いや、違うな、何て読むんだっけ、これ・・・・・・」
東に雲と書いて、確か・・・・・・。
――しののめ
そうだ、東雲と書いて“しののめ”だ。
けど、何だ。今頭の中で、誰かの声を聞いたような。
今聞いたわけではなく、かつてどこかで聞いた言葉をフッと思い出した感じだった。
前に誰かに、この字の読み方を教えてもらった気がする。
学校の授業とかじゃない。最近の事でもなくて、もっとずっと昔に、誰かに・・・・・・。
――東に雲と書いて、しののめ・・・・・・
それだけじゃない。
確かその時は、それに続く言葉があったはずだ。
そして、それを俺に教えたのは――。
ふいに、再び脳裏に、この神社を訪れた瞬間に感じたのと同じイメージが浮かんできた。
それは、さっきよりもずっと鮮明なヴィジョンとして、俺の記憶を揺さぶる。
夕暮れ時――
神社――
雪景色――
巫女装束――
景色と同じ色の肌と、同じ色の長い髪――
俺を見詰める、紅い――
ハッとなって、俺は振り返った。
そこには、俺の記憶の中のイメージそのままの少女が立っていた。
夕日に照らされた、白い肌、白い髪、そして夕日の色よりも尚赤く、深い、真紅の瞳。
その瞬間、さっきの言葉の続きも思い出した。
「東雲・・・・・・紫苑・・・・・・」
それは、かつて聞いた、彼女の名前だった。
彼女とはじめて出会った正確な時期は、はっきり覚えていない。
そもそも、名雪や舞、あゆに比べたら、そんなに深い付き合いがあったわけでもなかった。
あの日もたまたま、いつもとは違った気分に浸りたくなって、ちょっと普段は行かない道を通ってみたら、何となく見付けた神社の長い石段を登ってみたくなったのだ。
単なる気まぐれで、すぐに後悔した。
石段を中程まで登ったところで、既に息は切れ掛かっていた。
だがそこは意地というか、ここまで来たからには何が何でも的な心理が働き、根性で最後まで登りきったのだ。
そこにいたのが、同い年くらいの、巫女服姿の少女だった。
珍しい白い髪に紅い瞳、それに何よりとんでもなく綺麗だったので、すぐに興味をそそられた。ただ同時に、とても近寄り難い雰囲気もあって、なかなか声をかけられなかったのを覚えている。
クラスで一番かわいくて人気のある女の子、なんて比べ物にならない少女の姿は、まさしく住む世界そのものが違うようで、触れる事はおろか、見る事さえ畏れ多いような気さえした。
ゲームで言えば、自分はまだレベル10なのに、いきなりレベル100くらいの大ボスが目の前に現れたような感じだ。
ただ、ゲームのボスに遭遇したのだったら、相手の一撃を喰らってゲームオーバーになるだろうところを、少女は来訪者である俺に興味があるのかないのかもわからないような静かな視線を向けるだけだった。
大ボスというよりは、神様の使いにでも会ったような感じだ。
まるで物語の1ページみたいだ。
少女は巫女の姿をしているから、ある意味神様の使いというのは正しい表現だったかもしれない。
しかし、相手役が俺みたいなただの小僧では物語も何もあったもんじゃなかった。
自分の存在が場違いに思えた俺は、けれどそのまま引き返す気にもなれず、とりあえず神社に来たのだからお参りをするべきだと、何を咎められたわけでもないのに自分を正当化する理由をつけて境内に足を踏み入れた。
そこで、派手にすっ転んだ。
後で思い出すと、あれは死ぬほど恥ずかしい瞬間だった気がする。あゆや真琴の事をとても馬鹿にできないほどのドジっぷりだった。いくら150段近くある石段を駆け上がった後でちょっと足にきていたからといって、少女の綺麗さに魅せられて緊張していたからといって、あんなに見事にこけるとは思いもよらなかった。他の連中には絶対に知られるわけにはいかない、子供の頃のささやかな秘密だ。
しかも顔面から地面に突っ込んだので、額と鼻の先がとてつもなく痛かった。
痛みで突っ伏していた俺に、少女が近寄ってきた。
そして、倒れたままの俺に向かって手を差し伸べてきたのだ。
俺は醜態を見られた恥ずかしさよりも、少女の顔を間近に見た事に動転して、しばらく固まってしまっていた。
何とか少女の手を取って起き上がるまで、実際にはそんなに長い時間はなかったのだが、それはもう永遠かと思えるようなものだった。
立ち上がった時には、もう顔は真っ赤に染まっていた事だろう。
礼を言おうと思いつつも、上手く言葉が出てこない俺に向かって、少女はさらに手を伸ばし、地面に打ちつけて痛み額に軽く掌を当てた。
「なっ、ななななななんぁ!?」
俺の動揺はその時点でピークに達した。
ああ、本当に後で思い出すほどに締まらない姿を見せていたものだと思う。
名雪はもちろんの事、舞にせよ、あゆにせよ、はじめて会った時から基本的に俺が主導権を握る関係であったはずなのに、彼女にはじめて会った時の俺はどうしようもないほどうろたえていて、主導権を握るどころの話ではなかった。実に情けない。
だけど、それすらも吹き飛ぶような事が、その直後に起こった。
少女が俺の額から手を離した時、ずきずきとした痛みが綺麗さっぱり消えてしまっていたのだ。
手で触ってみると、軽く腫れ上がっており、強く押してみるとまだ痛みが走ったので、完全に治ったというわけではないようだが、それでも放っておくとまるで痛みを感じなくなっていた。
「す、すっげー! おまえ、今どうやったんだ!?」
思わず興奮した俺は、少し前までの緊張感などどこへやら、少女に今やった事を問い詰めていた。
「まるで魔法みたいじゃんかっ。おまえ、もしかして魔法使いなのか?」
この頃既に、舞とは会えなくなってしまっていたのだが、以前に舞に似たような力を見せてもらった事をまだ覚えていたから、少女の使った不思議な力にも疑問を覚える事はなく、ただすごいと思っていた。
魔法かと問いかける俺に対して、少女は小さく頭を振るだけで何も答える事はなかった。
代わりに少女は、俺を御手洗(みたらし、拝殿の傍にある水が溜めてあるあれだ)のところへと誘い、取り出した手ぬぐいを水で浸して俺の額に当てる。
「冷てっ。もう大丈夫なんじゃないのか?」
「痛みを無くしただけ。腫れが引くまで、少し冷やした方がいい」
それが、はじめて聞いた少女の声だった。
見た目のイメージどおりの、静かで透き通った声だった。聞いているだけで、心が落ち着く気がした。
言われるままに手ぬぐいを額に当てながら、俺は大事な事を思い出して口にした。
「ありがとな。えっと・・・・・・俺は相沢祐一ってんだ。おまえは?」
「東雲紫苑」
「しののめ、しおん・・・・・・? どんな字書くんだ?」
「東の雲と書いて、しののめ。紫に、草冠の苑で、しおん」
最後の「苑」の時には、紫苑は顔の前で文字を描いてみせた。
「東雲って、そんな風に読むんだな。あ、じゃあこの神社の名前も?」
確か鳥居のところに書いてあったのも「東雲神社」だった。
それを聞くと、紫苑は小さく首肯した。
額の腫れが引く頃には、もうすっかり普通に話せるようになっていた。
こんな風に親しくなれるきっかけになったのだから、たまにはドジを踏んでみるのも悪くなかった。
しばらく話していてわかったのだが、紫苑は必要最低限の事以外ではほとんど口を開かない子だった。喋るべき時にははっきりとした声で淀みなく話すので、話すのが苦手というわけではなく、本当にその必要性を感じていないらしい。だから話すのはもっぱら俺で、時々イェスかノーで答えられる質問を振ると、首を縦か横に動かして答えてくる。
「また来てもいいか?」
去り際にそう尋ねると、紫苑はやはり小さく首肯した。
けれど結局、その後神社へ行ったのはほんの2〜3回だったような気がする。
気さくに話せる関係にはなっても、まだ彼女の事を、自分には不釣合いだと感じていたのかもしれない。
そして、あゆと出会って以降は紫苑と会う事はなかった。
ただ、一度を除いては。
あゆの事があって、名雪を拒絶して、失意のどん底にあった俺がこの町を去る直前に、紫苑ははじめて、あいつの方から俺の前に現れた。
「し・・・おん・・・・・・?」
あゆと遊ぶようになってからは、不思議とほとんど思い出す事すらなかった紫苑の突然の登場に、俺は激しく戸惑った。名雪を拒絶した時だって、これほど心を揺さぶられる事はなかった。
悲しみに暮れる中でも、心の中の冷めた部分がその理由を的確に突く。
憧れていたのだ、この少女に、はじめて会った時から。
内も外も、どこまでも澄み切った少女に、恋とは違う、強い気持ちを抱いていた。
清く、美しく、強い彼女の姿は、俺が自らこうありたいと思う姿そのもので、好きだったのだ。
だから彼女にだけは、どん底に落ちた俺の姿を見られたくはなかった。
それに、彼女の紅い瞳は、血の色を思い起こさせて、どうしてもあゆの、あの瞬間を思い出させられたから、我知らず声を荒げて、俺は彼女の事を散々罵り散らした。それが自分をますます惨めにしていくとわかっていても、そうせずにはいられなかったのだ。
俺のどんな暴言を受けても、紫苑はいつもと同じ表情で、静かにその場に佇むだけだった。
やがて声が枯れるほどに、俺が怒鳴り疲れた時、ようやく紫苑の方から口を開いた。
「その悲しみを、忘れたい?」
「ぇ・・・・・・?」
「あなたがそれを望むのなら、忘れさせる事はできる」
いつもと同じように、紫苑の言葉には淀みがなかった。
紫苑は決して、嘘は吐かない。
そして、極端に喋らない紫苑が言葉を紡ぐ時、それは決まって大事な事だった。
忘れてしまえる。
悲しかった事、全て忘れてしまえば、こんな苦しい思いをしなくて済む。
それは逃避だった。
けれど、憔悴しきった俺の心に、それを拒む強さはなかった。
「・・・・・・忘れたい・・・・・・こんな悲しい思いのままでいるのは、いやだ・・・・・・」
涙ながらに訴える俺に、紫苑は小さく頷いて、掌を俺の眼前にかざした。
そうして俺は、その町で過ごした記憶のほとんど失った。
最後に、紫苑の言葉を聞きながら。
「いつか、あなたは全てを思い出す。そうしたら――」
ようやく俺は、あの日失った全ての記憶を取り戻した。
この町で出会い、僅かながら同じ時間を共有したもう一人の少女。そして、俺がこの町で過ごした記憶を消した、不思議な力を持った巫女、紫苑。彼女との再会によって、思い出したのだ。
「・・・紫苑・・・・・・」
思い出してしまったから、彼女に何と言葉をかけていいのかがわからなかった。
今さら「ひさしぶり」などと、月並みな挨拶をするなど馬鹿げている。
そもそも彼女との再会は、そんな軽いものじゃない。
礼を言うべきなのか、それとも謝るべきなのか、或いはもっと違う言葉をかけるべきなのか。
全然わからない。
頭が混乱してしまっている。
理由は違うが、これじゃはじめて会った時と同じだ。
俺の心は完全にうろたえてしまっていて、正常な思考が働かない。
再会した彼女に何か、何か言いたい事があるはずなのに。頭も口も上手く動かない。
紫苑の前だと、肝心な時に何もできなくなってしまう。はじめて会った時然り、別れた時然り。
またそんなんじゃダメだ。
ちゃんと言いたい事、言うべき事を言わないと。
どうにかして、言葉を搾り出そうとする。
「紫苑、おれ・・・・・・わっ!?」
俯いていた顔を上げると、眼前に竹箒が迫っていた。
避ける間もなく、スコーンと小気味良い音を立てて、竹箒の柄の先が俺の額にクリーンヒットする。
痛烈な一撃を喰らった俺は、まるで漫画のように鮮やかに吹っ飛び、仰向けに地面に転がった。
いったい何が起こったのか。
1秒ほど夕焼け空を眺めながら考えて、直前に見たものを思い出した。
顔を上げた瞬間に見た紫苑の手から、それまで持っていたはずの竹箒が消えており、代わりに目の前に飛来する竹箒があったのだ。
即ち、紫苑が手にした竹箒を俺に向かって投げた、という結論に至る。
なるほど、そういう事か。謎は解けた。
「って! いきなり何しやがるっ!?」
ガバッと起き上がった俺は抗議の声を上げるが、それは目の前にかざされた紫苑の手によって遮られる。
いつの間に近付いたのか、紫苑は俺の傍らにしゃがみ込んで、いつかのように俺の額に軽く手を当てる。
「あ・・・・・・」
すると、竹箒が直撃した額の痛みが嘘のように引いていった。
その瞬間、ひどく懐かしい気分になって、いきなり竹箒を投げつけられた事に対する怒りがあっという間に冷めてしまった。
そして同時に、先ほどまでぐるぐる渦巻いていた頭の中が、妙にすっきりしている事に気付いた。
昔を、思い出したからかもしれない。
はじめて会った時も、うろたえていた俺の心を落ち着けたのは、転んだ俺の痛みを癒した紫苑の力だった。
ひょっとして今のは、意図的にあの時と同じ状況を生み出して、俺を落ち着かせようとした、のか。
あの頃と変わらない静かな表情を浮かべた紫苑の顔からは、その考えを推し量る事はできない。
けれど結果的に、俺の心は落ち着き、あの頃と同じ感じを取り戻していた。
そうすると、言いたい言葉が3つ思い浮かんだ。
どれも大事な言葉だけど、とりあえず・・・・・・。
「ひさしぶり、紫苑」
「ん」
俺の言葉に、紫苑はあの頃と少しも変わらない仕草で小さく頷いて応えた。
後編に続く!