カノン・ファンタジア
1.変わる世界
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メルサレヴ。
この大陸の、ひいてはこの世界そのものの名称として用いられているものである。
遥かな昔、人類の文明が頂点を極めた時代から数万年――現代の新たな文明が興ってからは、まだ千数百年ほどであった。
時代は変われど、人々の営みに変化はない。
だが普遍の中に、僅かに特殊なものを含んでいるのも、世界の常である。
かつてはなく、今はこの世界において当然のものとして認知されているもの、それは魔力であった。
大地と大気、動物と植物、ありとあらゆるものには魔力が宿る。
純粋な力そのものを魔力と呼ぶ。
その力を生まれつき特殊な形で自在に振るう手段は、魔法と呼ばれていた。
そして、誰でもが学べる力を扱う術として生み出されたのが、魔術だった。
誰もが持つものであるから、魔力は人々の生活の至るところに存在している。
人々は魔力と共にある。
では、もしその魔力を持たない人間がいるとしたらどうなるのか。
ここに一人、その魔力を持たない少年がいた。
魔力の質には、いくらかの差がある。
大地と大気に満ちる清浄な純魔力は、ほとんどの人間には持ち得ない。それと同質の聖魔力と呼ばれる力も存在するが、非常に希少である。
また、同じく純魔力でありながら対極の属性を持つ暗黒魔力を持つ種族を大別して、魔族と呼ぶ。彼らは遠く海の向こうにある伝説の地、魔大陸に住み、時に人が住むこの大陸へと訪れるという。彼らは存在そのものが魔法として成り立っていると言われるが、その実体を知る者は少ない。強大な力を持つ種族だが、人々の脅威となることはあまりなかった。
人々にとって直接害を成す存在、それは不純な暗黒魔力が濁り固まって生まれる存在、モンスターである。
人が多く住む土地は活きた魔力が満ちており、濁った魔力は常に洗い流される。しかし、町から踏み出せば、そこはモンスター達の領域となる。
カノンの王都から西へ十数キロの地点にある大沼も、そんなモンスターの巣窟である。
その沼の淵に、大剣を携えた少年、相沢祐一は立っていた。
王立学院の学生達が実習で町の外へと出かけることはよくあるが、この辺りは学院でAランクの評価を受けている者でさえ近寄ることを禁じられている、王都近郊最大の危険地帯であった。間違っても、Cランクしか受けていない祐一が近付くような場所ではない。
現に既に、獲物の匂いを嗅ぎ付けたか、辺りはモンスターの殺気に満ちていた。
剣を握る敵に力がこもる。
臆する心など持ち合わせていない。祐一は、ここへ来ても、絶対に生き残れる自信があるからこそここに立っているのだ。
沼の表面が盛り上がる。明確な害意を持って、巨大な存在が牙を剥いて現れようとしていた。
ザッと一歩引いて半身になり、剣を体の後ろへ振りかぶる。
ドバァッ!
盛り上がった水面が一気に弾け、ナマズと蛙の中間のような異形が現れた。モンスターは不純な魔力の塊として生まれるが、その核として動物や植物を取り込むため、このような姿になる。その異様さは、見た目からも、放っている魔力の禍々しさからも、一目で人に害を成す存在と判別できる。
モンスターの強さはピンキリで、大人の男性なら簡単に追い払えるものから、騎士団の精鋭が数人がかりで倒すもの、人の手には負えないほど強大なものまでいる。
これはその中でも、かなり大型の部類に入る。学院が優秀な学生にすら近寄るのを禁じるのもわかろうというものだった。このナマズガエルは、SSS〜Eまであるモンスターの指定ランクの内、間違いなくSランクである。
ズドンッ!!!
さすがに一刀では御しきれないと判断し、祐一はバックステップでナマズガエルの突進をかわす。
沼淵の地面が大きく抉れ、沼の面積が広がったようだ。
さらに相手は、四肢で地面を蹴って祐一へと踊りかかる。蛙の要素も含んでいるだけに、鈍重そうな見た目に反して跳躍力が高い。そして当然、その巨体ゆえに突進力もある。
祐一が今度は横に飛んで避けると、後ろにあった木が数本、根元からへし折れた。まともに喰らえば、人間など一撃でぺしゃんこになる。
まともな思考が残っているなら、ここは逃げるべきであろう。水棲類である以上、沼から遠く離れれば追ってはきまい。
だが祐一は、後退する気など微塵もない。
最初に構えた姿勢を崩さずに、じっと相手を見据える。その眼光に押されるように、ナマズガエルは僅かに後ずさる。
モンスターには知性や理性などというものはない。しかし、核となった動物の本能が、目の前の相手に恐れを感じたのかもしれない。それでも、獲物に対する欲が勝ったか、ナマズガエルは三度祐一に襲い掛かる。
ダッと、祐一が地面を蹴る。
後ろでも横でもない、前に向かって。
「おぉおおおおおおおおっ!!!!!」
引き絞った弓から矢が離れるように、祐一は鋭く踏み込む。
裂ぱくの気合と共に、一気に剣を振り抜く。
ドシュゥゥゥッ!!!
一瞬の交錯の後、両者の位置は入れ替わっていた。
大剣を振り抜いた祐一の背後には、脳天から尻尾の先まで真っ二つに斬り裂かれたモンスターの死骸があった。
轟音を立てて、2つに割れた巨体が地面に落下する。しばらく痙攣していたそれは、やがて完全に動きを停止し、塵となって消え去った。
自然の摂理に反して生まれた存在は、死ぬと塵となって消える。それがモンスターの特徴であった。
「・・・・・・・・・ふー・・・」
敵が完全に消え去ったことを確認して、祐一は大きく息を吐いた。
決して余裕があったわけではない。全身全霊を込めた一刀を放ったため、たった一撃ながらかなりの体力と精神力を使わされた。同じ相手にもう一度襲われたら危険だったが、あれだけの大物がそうそう何匹もはいないはずだった。
後は雑魚を数匹退治して帰ろうと思った祐一の耳が、遠くに水音と爆音らしきものを聞き取った。
「何だ? 俺以外に、誰かこの沼に来てるのか・・・」
音は段々近付いてくる。
沼の中心辺りで水柱が上がっているのが視認できた。さらにそれが、祐一のいる岸の方へと向かってくる。
遠い間ははっきりとわからなかったが、水柱を立てているそれは、先ほどのモンスターと同類の、しかし倍以上のサイズを持った超大物であった。
さすがの祐一も目を見開く。
Sランクどころではない。ここまで巨大ではもはやSSランク――最高位の騎士が兵団を率いて倒すレベルの存在。つまり、人間一人が太刀打ちできる相手ではなかった。
修行のため、王都周辺に確認されているモンスターの巣を渡り歩き、先ほどのを含めて数体のSランクモンスターを倒してきた祐一も、はじめて見る。さすがは、伊達に最大の危険地域と呼ばれているわけではない。連合国において一、二を争う騎士たる水瀬秋子が率いる最強騎士団を擁するカノンにおいて危険とされるのは、それだけの理由があってのことだった。
その超大型モンスターが追っているのは、一人の女だった。
ここよりさらに東の地方の民俗における巫女の装束に身を包み、白木拵えの刀を腰に差した女は、踊るような調子でモンスターから逃げている。
いや、逃げているという表現は正しくない。だが、戦っているようにも見えない。時々先ほどから響いている爆音の原因であろう炎の魔術を放っているが、それは攻撃というより、単に相手を刺激しているだけのものに見えた。女の行動を最も正確に表すなら、遊んでいる。
そう、巫女はまるで踊るように、モンスターと戯れていた。
あまりに非現実的な光景に、祐一は思わず見とれる。
「おーい、少年。そこにいると危ないぞー」
「ッ!!」
声を投げかけられて、モンスターが眼前まで迫っていることに気付く。
後先は考えず、とにかく全力で跳んでモンスターの突進から逃げる。
ズズンッ!!!
地響きを立てて、巨大ナマズが地面に落下する。先ほどのものを遥かに上回るサイズで地面が抉れた。
全力で難を逃れた祐一は、着地する余裕もなく、転がりながら受け身を取るのがやっとだった。
そこへ頭上から、笑い声が降ってきた。
「あはははは、かっこわるいねー、君」
「やかましいっ!」
怒鳴り声を返しながら、起き上がってモンスターの方を見る。
地面に埋まっていた顔を引き抜いた巨大ナマズは、獲物の方へ向き直る。その目が木の上にいる巫女と、その下の地面にいる祐一との両方に向けられる。どうやら祐一のことも、獲物として認識したらしい。
さすがに感じる威圧感が先ほどの相手より一回り以上も大きい。正直、勝てるという気持ちが湧いてこない。
「おいっ、何なんだよ、こいつは!」
「さぁ? この沼の主じゃないかな。一番大きいのにちょっかいかけたから」
「何考えてんだっ、おまえは!!」
「えー、だってやらない? 腕試しとかでモンスター誘き出して倒すの」
確かにやるかもしれない。実際、先ほど祐一がやっていたのも同じようなことだ。
だがしかし、限度というものがある。雑魚ばかりと戦っても大した腕試しにもならないが、かといって自分が絶対に倒せない相手に挑むのはただの蛮勇であり、愚行だった。命あってのものだねというやつである。
「相手を選べ! こんな大物、一人でどうにかできるわけないだろっ」
「まぁ、ちょぉぉぉっと思ってたより大きかったかな。このサイズでこの沼に住むのは窮屈じゃないかな?」
沼は確かにかなり大きいが、これほど巨大なモンスターが住むには確かに狭い。
「って、そういう問題じゃないだろ!」
「ほらほら、余所見してると来るよ」
「ッ!」
巨体が動く。真っ直ぐ祐一に狙いをつけて。
祐一の方が捉えやすいと思ったか、或いは木をまとめて倒せば両者を同時に襲えると思ったが、いずれにせよ知性に乏しいモンスターにしては賢いやり方と言える。
ただ単に、真っ直ぐ突進するしか能がないのかもしれないが。
しかしこれだけ大きいと、何も考えないただの突進の方が怖い。
ドゴォンッ!!
何十本という木々を薙ぎ倒し、地面を抉る。
その大質量の突進を、祐一は何とか回避し、大きく距離を取る。
巫女の方は木から木へ飛び移りながら、祐一の傍までやってきた。そこではじめて祐一は、巫女の姿を間近で見た。
美人や美少女、と呼ばれる女性達を、祐一もそれなりに知っている。
叔母である水瀬秋子や、その娘の名雪。同級生の美坂香里、三年の川澄舞や、その友人で名門の令嬢倉田佐祐理。一年で妙に祐一に関わってくる坂上智代も彼女らに劣らない。そして誰よりも際立っているレイリス。身近にそれだけの存在が揃っているため、美人というものには慣れているつもりだった。
だが、そこにあるそれは、次元が違う。
一部の隙もない、上から下まで完璧であるがゆえに不自然さを感じさせる、けれどもそれすらも含めてただひたすらに美しい。
上質な絹のようにしなやかで、漆塗りのような光沢を放つ長い黒髪に見惚れさせられる。
最高級の宝石の如き輝きを持つ金の瞳に魅入られる。
その口から紡がれる声は、どれほどの名奏者がどれほどの名器を以ってしても出すことのできない究極の旋律のようで――。
「こら少年、絶世の美女に見惚れるのはわかるけど、次、くるよ」
その言葉は、妙に人を苛立たせる。
「少年とか・・・ガキみたいな呼び方するなっ!」
悪態をつきながら、モンスターの突進を避ける。
巫女の方も大きく跳びあがって、木の上へと逃れている。距離は離れても、僅か数秒しか見ていなかった姿を鮮明に思い出せる。それほどまでに先ほどのは、衝撃的な出会いだった。
だというのに、喋りかけてくる女の声は、祐一の神経を逆撫でする。
「だって、少年を少年って呼ぶことに特に問題はないでしょ」
「大有りだ! 俺には相沢祐一って名前がある!」
「そ。じゃあ、気が向いたらそれで呼んであげるよ、少年」
「チッ!」
見た目は確かに本人が言うだけあって絶世の美女に違いないが、性格は最悪。それが祐一の、彼女に対する第一印象だった。
「はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・・・・」
大沼から離れること一キロ余り。ようやく振り切れたと解るところまで来て、祐一は足を止めた。最初に思った通り、沼に生息しているモンスターだけに、沼から遠く離れれば追っては来ないようだ。
力を抜き、荒れた息を整えていると、頭上からくすくすという笑い声が聞こえた。
つい先ほどはじめて聞いたばかりだというのに、すぐにそれとわかる、神経を逆撫でする女の声だった。
キッと睨みつけるように見上げると、女は木の枝に腰掛けて祐一のことを見下ろしていた。同じ距離と、しかも地面を走っていた祐一とは違って木から木へ飛び移りながらモンスターから逃げてきたというのに、女は息一つ乱していない。
「いやー、災難だったね〜、君」
その上、人を巻き込んでおいて少しも悪びれていない態度を取る。他人から受ける悪意には慣れている祐一だったが、ここまで厚顔不遜な相手はそうそういない。
「おまえな・・・!」
「莢迦」
「何?」
「私の名前。さっき名乗ってもらったから、名乗り返すのが礼儀だからね。覚えておいてよ、少年」
「・・・嫌だね。そっちがこっちを名前で呼ぶなら考えてやってもいい」
「それは残念」
少しも残念そうじゃない表情で笑う莢迦という女。その笑い顔だけはとても可憐で、見ていて思わず見惚れる。
無垢な少女のような笑みにも見えるが、その奥に妖艶な女の匂いを感じさせる。矛盾した要素を持ちながら、それが自然なものとして見える。不思議な女だった。
かといって、最初に抱いた不愉快な印象が消えるわけではないが。
何故だかわからないが、この女を見ていると祐一は、理由もなく腹が立った。一番最初に、その姿に見惚れると共に、その感覚が引っかかっていた。そこへ来て言動が人を苛立たせるため、良い印象など抱きようもなかった。
「で、おまえ。人を巻き込んでおいて、災難だったね、の一言で済ませる気か?」
「じゃあ、大変だったね?」
「・・・ああ、大変だったよ。誰かさんのお陰でな!」
「あははっ、ごめんごめん。まさか人がいるとは思わなくてね。たまたま通り道に君がいただけだから、許してよ」
「大体、倒せもしない相手に喧嘩吹っかけてんじゃねぇよ」
――――――――――――!
言った瞬間、空気が変わった。
頭上から数百キロの重しを乗せられたような重圧感を受けて、全身から汗が噴き出す。
指一本動かせないほど体が硬直し、息苦しさに肺が空気を求めて痙攣する。
時間にすれば、一秒にも満たない感覚。
だが、確かに圧倒的なプレッシャーを浴びせかけられた。
頭上を見上げると、莢迦が変わらぬ笑みを浮かべながら見下ろしている。
「別に倒しちゃってもよかったんだけど。ここは君の鍛錬場みたいだし、将来のために残しておいてもいいかな、って思ってね」
一瞬の重圧感。
それを放ったのが、目の前にいる存在であることは間違いない。
不思議な相手。不愉快な女。そしてもう一つ、得体の知れない存在という印象を、祐一は彼女に対して抱いた。
瞬間的に感じた、強大な魔力と計り知れない圧迫感。事も無げにSSランクのモンスターを倒してもよかったなどと言う、その言葉が嘘偽りでないことを、理屈ではなく本能で理解した。
そこにいるのは、祐一が今まで感じたことのない次元の存在だった。
「おまえ・・・・・・何だ?」
「さっきも言った通り、莢迦。見ての通りの・・・そうね、魔女、かな」
最後ににこりと笑いかけて、莢迦の姿は忽然と消えうせた。煙のように、まるで最初から誰もいなかったかのように。
けれど、からからに乾いた喉が、汗に濡れた全身が、美しい声と不快な言葉を聞いていた耳が、そこに確かに何かがいたことを覚えていた。
to be continued
あとがき
ボーイ・ミーツ・ガールは物語の幕開けの定番。祐一と莢迦の出会いから、カノン・ファンタジアの物語は始まるのである。
というわけで、今までとはかなり違う形になったけれど、最初に二人が出会う展開は変わらず。何度リメイクされようと、祐一が主役で、莢迦が最重要キャラの一人という形は変わらないのがカノン・ファンタジア。そしてこの第1話では、いくつか重要な設定も明かされている。まず、今までは曖昧だった魔術と魔法を違うものとして区別した点。月姫やFateワールドのそれとはまた違うので、ファンタジアの設定として覚えておいてほしい。あとは適当に存在してたモンスターについての説明もちゃんと加えてみた。あとは、ランクなんて設定を作ってみたけど、これはカノンを中心とする連合国における共通規格みたいなもの。最低ランクはEで、人間的にもモンスター的にも一般人より少し強い程度と思ってもらいたい。そこから段々上がっていって、Aランクが最高。そこから上は特別ランクとなる。
Sランク:普通の人間に与えられる最高位。モンスター的には、Sランク2人以上か、Sランク1人とAランク10人以上か、Aランク20人以上で戦うことが義務付けられている。これは、確実に犠牲を出さずに倒すための規定であり、Sランク1人の能力はSランクのモンスターと同等とされる。
SSランク:規定上、人間にこのランクはいない。モンスター的にはSランク10人以上か、Sランク1人以上と一個大隊で戦うレベル。
SSSランク:絶対不可侵領域。人間の手に負えるレベルではない存在に付けられるランクで、決して手を出してはならず、遭遇したら全力で逃げることが規定されている。
まぁ、出てくる機会は少ないかもしれないけれど、そんな設定。そして、これはあくまで一般レベルの規定なので・・・・・・。