カノン・ファンタジア

 

 

 

 

0.ある一日

 

   −1−

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――朝。

 

 

 

まだ東の空が白み出すかどうかという時間に彼女、レイリスは起床する。

目覚めてから数秒で、その日の体調を把握する。問題無いと判断したなら、身嗜みを整えて部屋を出る。

隣室の相手を起こさぬよう、物音一つ立てずに廊下に出て、まずは異常がないことを確認する。何も変わったところが見られなければ、足音を殺して廊下を外へと向かって歩く。

石造りの廊下を、しかもブーツを履いた足で一切音を立てずに歩く。見る人が見れば、これだけの彼女の技量が窺えるだろう。

 

レイリスは、カノン王国第一王女付きの侍女であり、同時に王室警護の長を務める女性である。

 

凛とした佇まいと厳格な態度を取る彼女は、城内に仕える全ての者達の模範となる一流の侍女であった。同時に、騎士団のトップ達が舌を巻くほどの剣の使い手でもあった。

特別な境遇になければ、引く手数多の才女なのである。

そんな彼女が王室警護の職に就いているのには、才覚とは別の理由があるのだが、その話は置いておく。

 

 

 

庭へと出たレイリスは、刃渡り40cm程度の短い剣を両手に取る。

両目を閉じ、しばしの間、脳裏に動きのイメージを描き上げる。

静かに目を開くのと同時に、一歩踏み出す。そう思えた瞬間には、既に二歩目が出ていた。仮に見ている者がいたとしたら、一歩目と二歩目の境を見極められた者は稀だったであろう。それはまさしく、流れるような足運びだった。

流れるような動きは足だけの話ではない。上半身の動きにも、一切の無駄、乱れがなかった。

鋭角的な動きは無く、全てが曲線的。緩慢なように見えて、その実速い。

非の打ち所のない、完璧なる剣舞であった。

それは舞踊のように優雅でありながら、そこに斬るべき敵がいたならば確実に斬っていたであろう殺伐さも内包していた。 儀礼的なものとは違う、確実に敵を倒すことを追求した実戦剣舞である。

数分間、それを続けた後、彼女の動きが止まる。

ふわりと広がった髪とスカートが元の位置に戻る、そこまでが舞いであると思わせるほど、止まり方すらも自然な流れの内にあった。

 

「―――」

 

そっと息を吐く。

見た目の華やかさとは裏腹に、かなりの運動量であったはずなのにも関わらず、彼女は息一つ乱さず、汗一つかいていない。

事前にイメージした通りに体を動かせたことに満足しながら、毎朝の日課を終えたレイリスは剣を納める。

 

 

 

少し空が白み始めた頃、レイリスはこっそり城外へと出向く。

全てにおいて完璧な才女と言われ、何事もそつなくこなす彼女は、この瞬間にだけ、心に僅かな緊張を抱く。

一日の中で唯一、職務から離れ、自分だけの時間を過ごすこの時に、常になく彼女の心は高揚する。

目指す先には、彼女が想い焦がれる一人の少年がいる。

主に仕えることに生涯を捧ぐと決めながら、一時とは言え主の下を離れる背徳感。想いを寄せる相手との一時の逢瀬により満たされる充足感。その他様々な思いに揺れ、昂ぶる心を抱えて、彼女は彼の下へと向かう。

 

ヒュッ

 

風を切る音に足を止める。

 

「―――ッ!」

 

無声の気合が伝わってくる。それを感じる度に、心音が高まる。

 

ザッ!

 

大地を踏みしめる音に向かって歩きながら、表向きは平静を装う。

 

「・・・・・・」

 

その姿を目で確認できる位置まで来て、立ち止まる。

確認するまでもない。

剣が風を切って奏でる旋律、息遣い、足運びのリズム、それらを聞くだけでわかる。そこにいるのは、彼女が求める彼であることが。

全て承知した上で、その姿を見るべく目を向ける。

 

彼女の剣を優雅と称えるなら、彼の剣は粗野と貶されるかもしれない。

そもそも比べること自体が間違っている。レイリスの剣は、天が与えた究極の技巧とすら謳われた域のものである。彼の剣技は人並み外れて優れている、だが、彼女の剣の前では誰の剣であろうと粗いと言われよう。

天が与えた神技の前では、人が磨いた技など児戯にも等しい。

しかしそれでも、彼の剣には力強さがあった。

剣を持って己を表現する術とする者達は、剣にその存在の全てを映し出す。

直線的で、野生の猛々しさを感じさせる彼の剣には、彼の真っ直ぐな心がはっきりと見ることができた。

 

「・・・毎朝毎朝、よく飽きないな、おまえ」

 

例え表層が、どれほどひねくれていようと。

 

「ええ、飽きる理由がありませんから」

 

普段の彼女を知る者なら、ただ一人を除いて別人ではないかと思うほど弾んだ声で、ぶっきらぼうな彼の声に応える。

彼は苦い表情をしながら、1メートル余りの刀身を持った片刃の大剣を背負う。 人と比べて特別体つきが大きいというほどでもない彼が扱うには些か大きすぎる得物だが、彼はそれを片手で易々と振るう。膂力だけではなく、微妙な重心移動の加減で重さを最小限になるまで殺しているのだ。一朝一夕でできる芸当では当然なく、長年の鍛錬の成果に他ならない。

 

彼、相沢祐一はレイリスが知る他の誰よりも日々の努力を欠かさない少年だった。

 

それと言うのにも理由がある。

祐一は、この世界に生きる誰もが当然のものとして持っている魔力と呼ばれる力を持っていない。

魔力は、その実体は正確には解明されていないが、この世界の源とまで言われる力である。大地と大気、動物に植物、そして人間、全てに魔力が宿っている。それを持たないということは、この世界においてこの上なく異端なのであった。

事実、彼は周りから人並みの存在として扱われていない。

王国の宰相、水瀬秋子の甥という立場がなければ、彼の居場所はこの国のどこにもなかったかもしれない。

人々は彼の無能を嘲笑い、蔑み、人以下にものとして扱う。そのことを思う度に、レイリスは強い怒りを覚える。しかし、そのことを彼に伝えた時、彼はひどく冷めた表情で言い放った。

 

「つまらない同情はするな」

 

そんなつもりはまるでなかったが、それきりレイリスは、祐一に対してそうした言葉を伝えなくなった。

どんなに飾り立てた言葉を重ねても、彼の心にその思いが届くことはない。それほどまでに、彼の表層は歪んでしまっていた。その原因は、周りの彼に対する接し方と、彼の生い立ちにある。

祐一には両親がいない。

叔母である秋子はいるが、母親である彼女の姉という人物は、祐一を生んですぐに姿をくらましたという。親のいない祐一は、生まれて最初に与えられるべき純粋な愛情を知らずに育った。そこへ、世間の歪んだ情念を受けて育ったため、彼は他人を信じられない。

正確には、父親はいる。レイリスはそれを、知っている。

だがそれを伝えたところで、今の祐一には逆効果にしかならないだろう。だからレイリスは何も言わず、ただずっと、彼を見ていようと決めた。

いつか、想いが伝わることを願いながら。

 

「・・・右斜め前に対する隙が、まだ少しだけ残っていますね」

 

想いを口にしても伝わらない。だから代わりに、共通する事柄、剣に関する話をする。これもいつものことであった。

幼い頃からほとんど完成形に近いほどの剣技を持っていたレイリスは、祐一が剣の修練を始めるようになってから、ほんの少し助言をするようになった。教えている、というほどのものではない。ほんの少し、悪い癖、型に見える弱点などを指摘するだけである。

最初は反発していた祐一だったが、少しずつ彼女の言を受け入れるようになっていった。その結果、彼の剣は我流でありながら、致命的な欠陥や癖のようなものがない。もっとも彼の剣が真っ直ぐなのは、彼生来の本質によるものだとレイリスは思っているが。

 

「剣の厚みが、どうしても僅かに死角を作ってしまうんですね」

「・・・みたいだな。直そうとはしてるんだが」

「ええ、進歩はしています。普通の人なら、その程度の隙は見逃してしまうでしょう」

「おまえなら、見逃さないわけだ」

「はい」

 

正直に答える。

つまらない世辞は必要ない。ただ、はっきりとした事実のみを伝える。それが、対等の存在として見る上での礼儀だった。

確かに祐一は、魔力を持たない。だが剣の腕に関しては、誰を前にしても誇れるだけの技量を持っていた。だからレイリスは、剣の話をする時には、一人の剣士として祐一に対する。

しかし、世辞ではなく、事実としてレイリスは、祐一の今の実力がかなりのレベルに達しつつあると思っていた。

一人の剣士として、剣を交えてみたいという思いが心に芽生えるほどに。

 

「なぁ、今度の大武会、おまえも出るのか?」

 

その思いはおそらく、祐一も同じなのであろう。

むしろ彼の場合は、身近の超えるべき目標の一人として、レイリスを見ているのだろうが。

 

「・・・いいえ、私には、役目がありますから」

 

大武会は、年に一度内外から人を集って、武術の腕を競い合う、カノン王国の一大イベントである。

騎士団の実力者、各国の強者、さらには若手の騎士候補生からも出場者を募って行われる。

だが残念ながら、それだけ大きなイベントであるがゆえに、レイリスは王室警護という本業を疎かにはできない。

 

「祐一さんは、出るのですか?」

 

現在祐一は、騎士候補生の二年目である。

実力主義のカノン王立騎士養成学院は、一年の時から大武会への出場権が与えられる。テストに合格すれば、入学したての者でも大武会に出られるのだ。だから本来なら、祐一は去年から出場する機会はあった。

けれどレイリスが知る限り、祐一は出場権を得るためのテストも受けていない。それが何故、一年置いた今になって出る気になったのか。

 

「・・・機会は、一度きりだ」

「え?」

「一年待ったのは、候補生の他の連中と、騎士団の実力を計るためだ。勝算は見出した。出るからには、勝つ」

「・・・・・・」

 

背水の陣に挑む将兵の顔だった。

それを、よく似ていると、思った。

彼女が知る、彼の父親と。かつて、大戦に挑む時に見せた、必勝の志した顔である。

悲壮感すら漂う、強い決意を秘めた顔だった。

 

「・・・もう行くぞ。そろそろ時間だ」

 

気が付けば空はもうかなり明るくなっている。学院へ向かうには、ちょうど良い時間だろう。

 

「――いってらっしゃい、祐一さん」

「ああ」

 

はじめは余計なものだと言われたこの挨拶も、今では自然に馴染んでいる。それは、少しでも二人の距離が縮まっている証のようで、嬉しく思えた。

けれど、レイリスの心は晴れない。

祐一は、機会は一度きりだと言った。大武会に出るからには、勝つ、と。

確かに、彼が己の力量を周りに認めさせるチャンスは、一度しかないだろう。

落ちこぼれと蔑まれる彼が、意気込んで出た大舞台で負けたならば、今度こそ人々は、彼を本当の落ちこぼれとして、価値のない存在として見るだろう。

例え負けても、そんな目で見ることなく、ありのままの彼を受け入れられる人間はいる。しかしそれでは、彼自身が納得しない。

他の誰でもない、彼は彼自身のために勝たなくてはならない。

そう、祐一は思っていた。

 

だが、祐一は勝てない。そう、レイリスは思っていた。

彼の技量は、間違いなくカノン王国のみならず、近隣諸国の内でも指折り数えられるものに違いない。

けれど今の彼では、足りないのだ。

どれほどの実力があろうと、今の彼では、本当の強者を前にしたら負ける。

それを伝えようと思いながらレイリスは、結局伝えられなかった。

 

「浅ましい私・・・」

 

何が剣士として対等に見る、か。

本当に大切なことを伝えていない。それを伝えることで、二人の関係が壊れてしまうことが、彼に嫌われてしまうことが怖かった。

彼に彼女の想いが伝わるまで、剣士として接しようと決めながら、最後の最後でレイリスは、女として祐一のことを見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

to be continued