純白の遁走曲〜Fuga〜



   Chapter 1−5





















 祐一は、目の前で起こった出来事に戦慄し、魅了された。
 強靭な筋肉の鎧に覆われた2メートル超の巨漢を一撃の下に叩き伏せた紗絵の技は驚嘆に値するものだった。
 紗絵が地面を蹴ってゴメスの頭上へ跳躍し、落下の速度と体重を乗せた一刀を振り下ろす一連の動作を、祐一の眼は全て捉えていた。速度に関しては、祐一自身よりも僅かに上というくらいで、まるで動きを追えないほどではない。驚くべきは、その一撃に込められた威力、そしてをそれを放った紗絵の技量だった。
 あの華奢な体つきでは、腕力などたかが知れている。もちろん、自在に剣を振るっているのだから、同年代の女子のものとは比べ物になるまいが、それでも同じように鍛錬を積んだ男子に比すれば劣るのは明らかだった。加えていくら体重を乗せたと言っても、やはりあの身軽さでは大した足しにもならない。 普通に考えれば、紗絵の体であの一撃の威力は有り得ないものだった。
 だが紗絵の一刀には、あのゴメスを一撃で沈めるだけの威力があった。それを可能にしたのが、紗絵の技である。
 腕力、体重、落下の速度、その一つ一つが内包する力は小さくとも、重ね合わせればそれなりのものになる。それらをさらに絶妙なバランスで、全ての力が最も強く作用する瞬間に交叉させる事で、本来なら3倍の威力に留まるところを、3乗の威力を生み出したのだ。
 言うだけならば簡単だが、全ての要素が最大になるを一点に集中して攻撃を繰り出すには、神業的な技量が必要だった。
 加えて紗絵は、ゴメスが振り上げた斧の最も脆い一点を狙い打ちしていた。それによって技の威力は相手の武器に少しも阻まれる事なく、相手の巨躯を一撃で沈める力を宿したまま炸裂したのだ。
 いったいあんな少女が、どんな修練を積めばあんな技を身につけられるというのか。
 最初に会った時から只者ではないと思っていた。食い逃げ代を押し付けた後、本当はもう会う事もないだろうと思っていたのだが、どうしても気になって探し出し、ギルドの存在を教えて繋がりを持った。それだけ興味が沸いたのだ。しかし、ここまで尋常でない使い手だったとは思わなかった。
 驚きと同時に祐一は、奇妙な昂揚感を覚えていた。
 これほどの心の昂ぶりは、7年前のあの時以来、はじめてに等しかった。







 自分達の頭領がたった一撃で倒された事で、残った者達は皆蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
 紗絵は、いたずらに彼らまで追って捕まえる気はなかった。ただこれを機に、悪事からは足を洗ってくれたら、と思っていた。そんな風に楽観視する辺り、まだまだ紗絵の考え方は甘いものなのだが、当然本人にその自覚はない。
 そしてその場に残ったのは気絶しているゴメスの他には、紗絵と祐一だけになった。

「容赦なくやったなぁ。そんなに嫌だったのか、そいつに自分のもの扱いされるの?」
「当たり前じゃない。でも、元はと言えば全部あなたのせいなんだよね」

 相変わらずやたらと気安く、しかもまったく反省の色の見えない調子で話しかけてくる祐一に対して、紗絵はもうすっかり冷え切った視線を投げかける。
 最初から悪人とわかっている相手、またはまったく知らない人間が悪事を働いても、それが良くない事とは思っても自分の側に実害はないのでそんなに気にはならない。だが知り合いで、しかも善人だと思っていた相手に裏切られるというのは非常にショックが大きい。
 一度は信頼した祐一が、たとえ実質的には裏切っていなかったとしても、そう思わせるような行為に走った事は、紗絵にとって許し難い事だった。

「何だよ。万事解決したんだから、それでいいじゃないか」
「良くないよ。あたし、すごく怒ってるんだからね!」
「むぅ・・・・・・おまえ、おっとりしてるように見えて怒ると結構怖いな」
「そうやって茶化してれば何でも済むと思ってるの?」
「いいや。けど、特に反省する気もないのに神妙にしても仕方ないだろ。悪いがこういう性分なんでな」

 掴めない性格の少年だった。
 まったく悪びれる様子のないところを見ていると、本気で怒っているつもりでもどうしても毒気を抜かれてしまう。祐一の行いは、絶対にどこか間違っている。なのに、それが悪い事を思わせない雰囲気があった。
 そう、祐一には、そこで気絶しているゴメスや逃げていった男達のような悪意がないのだ。
 人を裏切って、その結果誰かが死んでいたかもしれない事をしておきながら、それが悪い事と思っていない。それが悪い事であると、頭では理解していながら、心にそういう感情がないような――。
 紗絵ははじめて、祐一の事を少し怖いと思った。
 先ほどまで捕まっていて、命が危険に晒されていた時でも、それほど強くは感じなかった恐怖を、祐一からは感じる。まるで、人として大切な心の一部を、どこかに置いてきてしまったような空虚さ。その虚は、どんな悪意よりも、紗絵には恐ろしく思えた。 それはまるで、7年前のあの時の感覚に通じるものがあった。
 ただ、表面的にはやはり、ただのおちゃらけた少年にしか見えない。

「どうしても怒りが収まらないって言うなら、こういうのはどうだ?」
「・・・・・・何?」
「俺と勝負しよう」
「はい?」

 今度は一体何を言い出すのか。紗絵は首を傾げた。
 本当にこの少年は、次に何を言い出すか読めない。

「腕比べだよ。せっかくお互い剣を抜いてるのに、大した事してないからな。俺が勝ったらさっきの事はチャラにしてくれ。おまえが勝ったら俺の事を煮るなり焼くなり奴隷にするなり好きにしてくれていい」
「・・・・・・奴隷にはしないけど、何でいきなりそんな話になるのか全然わからないんだけど・・・・・・」
「細かい事は気にすんなよ。行くぜっ!」
「ちょ・・・・・・っ!」

 止める間もなく、祐一は剣を振りかぶって斬り込んできた。
 先ほどゴメスに向かって斬りかかった時と同じように、初動から攻撃までの動きが流れるようで無駄がなく、気付いた時にはもう目前に迫られていた。
 咄嗟に身を引いてかわそうとするが、リーチの長い祐一の剣は後ろへ下がっただけではかわしきれず、切っ先を自身の刀で受ける。重量のある武器の一撃は紗絵の力では止め切れなかったが、逆にその威力を利用して、反動で紗絵はさらに後ろへ跳び下がった。
 さらに向かってくる祐一に対し、紗絵も刀を構えて応戦する。
 全長150cm余り、刃の幅も一般的な剣の2倍近くある祐一の大剣の重量は計り知れない。それを容易く振るっている祐一の膂力は凄まじいが、それでもあの大きさ、重さでは、攻撃の軌道は極めて単調かつ大振りなものとなるのは必定だった。槍にも劣らぬリーチの長さは厄介だが、それすらも裏を返せば懐に弱点を抱えているという事だ。
 刀を正眼に構え、紗絵は冷静に相手の動きを見極める。
 2度、3度と繰り出される攻撃を、身をかわしながら防いでいく。いたずらに剣を打ち合わせる事はしない。腕力と重量の差は明らか。正面から剣を交えれば、たとえ受け流すにしても体勢を崩さずに行うのは容易ではない。確実な隙をついて飛び込まねば、むざむざ返り討ちに合うだけだった。
 不本意な戦いではあるが、祐一の方に引く様子はない。ならば、組み伏せて終わらせるしかない。
 大きく距離を開けて逃げ回る紗絵の動きに焦れたか、祐一がリーチの長さを活かした突きを繰り出してきた。瞬間、紗絵は後ろへ傾けていた重心を前に移し、刀で突きの軌道を逸らしながら踏み込む。
 自分の間合いに入ったと思った。
 しかし祐一はすかさず剣を引いて紗絵の刀を受け止めた。どうやってそれを可能にしたのか、目の前で見ていた紗絵にさえはっきりとはわからなかった。だが祐一は、自分の身長の8割ほどもある長大な剣を軽々と手の内で扱っていた。
 再び距離を取る。
 ここに至って、紗絵は改めて認識した。
 祐一の剣技には、隙がない。
 あれほど長大な剣を操りながら、攻撃の一つ一つが大振りと見せかけて、1という動作から2という動作に移るまでの間が限りなく0に近いのだ。
 はじめに剣を抜いてゴメスに斬りかかった時から感じていた事だった。祐一の剣からは、極限まで無駄が省かれている。
 武器の形状から一見するとパワーファイターのようだが、その剣技が実にトリッキーな動きを生み出していた。
 剣の師でもある養父以外で、これほどの使い手と対峙するのははじめてだった。

「やっぱりやるな、おまえ。けど、まだまだそんなものじゃないだろ」

 祐一は挑発するように剣を肩に乗せている。
 一見隙だらけな格好だが、おそらく祐一はあの体勢から何の予備動作もなく剣を繰り出す事ができる。
 迂闊に飛び込んでも、決定打を浴びせる事はできないだろう。
 ならば、その僅かな間すらも与えなければどうか――。
 紗絵はその場からさらに後ろへ数歩跳び下がった。
 それを見た祐一が怪訝な顔をするが、紗絵の意図が逃げようとするものではないと悟り、その場からは動かずに僅かに腰を落として構える。
 十分な距離を取った紗絵は、強く地面を蹴って一気に加速する。
 疾風となった紗絵が眼前に迫ると、祐一は辛うじて剣を体の前に突き出して防御した。

 ギィンッ―――!!

 受け止めた一撃の衝撃に、祐一の全身が圧される。まるで、猛牛か猪の突進でも受けたかのような威力だった。
 先の一撃と同じだった。
 紗絵の軽量さと腕力では、普通に攻撃してもその威力はたかが知れている。ましてや、“斬撃”ならばまだしも、紗絵の得物は逆刃刀、その攻撃は“打撃”によるものとなる。それで相手に確実なダメージを与えるには、技の威力が必要不可欠なものだった。
 ゆえに紗絵は、その威力を加速によって生み出す。上空からの落下、または疾走による加速で得た力を余す事なく打撃の瞬間に乗せる事で、ただその場で剣を振るうより何倍も強力な一撃を放つ事ができる。それこそが、紗絵の剣技だった。

「ぐぅぅぅぅっ!!」
「―――ッ!!」

 威力を殺しきれず、祐一の体が紗絵の一撃に圧されて後退する。
 だがその反動は、紗絵の体にも負担を与える。強力な技ゆえに、使う側の体にも少なからず衝撃が返ってくるのだ。
 加速の力を打撃の瞬間に込めて炸裂させる、その神業的な呼吸を可能にするのは紗絵の天性に才能によるものだと養父は言っていた。しかしまた、その強力な技を使いこなす身体は、鍛錬によってのみ培われるものだとも教えられた。華奢な少女の身でこの衝撃に耐えられるのは、7年間鍛え続けた紗絵の努力の賜物だった。
 とはいえ、それほどの一撃を受け止め、少しずつでも威力を殺しながら耐えている祐一も只者ではなかった。

「うぉらぁっっっ!!」

 そしてついに、祐一は紗絵の一撃を弾き返した。その動きはそれまでの無駄のないものではなく、力任せに、無造作に剣を振っただけのものだった。それだけ祐一も、限界ぎりぎりのところで踏み止まっていたという 事なのだろう。
 それでも、紗絵の渾身の一撃が防がれた事に変わりはない。
 再び数メートルの距離を置いて祐一と対峙した紗絵は、内心驚きを隠せずにいた。

 ――まさか、止められるなんて・・・・・・

 自分の技に自惚れていたわけではない。元より養父相手には、結局一度も五分の条件で一本を取る事はできなかった。その養父が、自分より強い者など世の中にはいくらでもいると言っていた事から、紗絵は自分が広い世の中の内ではまだまだ未熟な事も十分に承知していた。
 けれど、少しは自分の技に自信を持っていたのも事実だった。それが通用しなかった。改めて相沢祐一という少年の実力に舌を巻く。

「ったく、そのちっこい体のどこからそんな力が出てくるんだか。とんでもない奴」
「あなたこそ。世の中に強い人はいくらでもいるって、ほんとだね」
「けど、実際にこうやって向き合った事のある奴らの中では、おまえが文句無しに一番強いぜ。こんなに気分が昂揚するのははじめてだ」
「・・・・・・・・・」

 力ある者は力ある者に惹かれ、それを求める。だから力に引きずられないように気をつけなくてはいけない。
 養父から教えられた事の一つだった。
 これがそうなのだろうか。
 祐一の言葉を受けて、紗絵は自分の中にも、同じように昂揚している部分がある事に気付いていた。
 望まぬ戦いであったはずなのに、いつの間にか自分も祐一との戦いを望んでいるような感覚があった。

「さーて、もっと続けようぜ!」

 大剣を振りかざし、祐一が向かってくる。
 それに呼応するように、紗絵の体も自然と前に出る。
 両者の剣が再び交わろうとした瞬間――。


「そこまで!」


 幼くも凛とした声が響いて、2人の動きが止まる。
 声のした方へ振り向いた紗絵の表情が驚きに染まる。

「さくらちゃん?」
「・・・・・・誰だ?」

 2人の視線を受けて、黒衣を纏った金髪の少女、芳乃さくらは引き締めていた表情を崩して笑みを浮かべた。

「それ以上続けると、お互い怪我じゃ済まなくなりそうだからね。その勝負、ボクが預かったって事で一つ手を打たない?」

 明るい口調で投げかけられたさくらの提案は、その調子とは裏腹に有無を言わせぬ迫力を裏に秘めているように感じられた。 紗絵よりも小さな体に似合わぬ威圧感があった。
 もし引かないのならば、自分にも考えがある、と無言で告げている。
 無論、紗絵にその要求を断る理由はない。さっきまで感じていた昂揚感も、さくらの声と同時に霧散していた。
 元々仕掛けてきた祐一の方はどうかというと――。

「ま、しゃーないか。今日はここまでだな」

 少しの躊躇もなく剣を納めていた。本当に掴みどころがない。
 落ちていた鞘を拾って、紗絵も刀を納める。
 こうして、何故はじまって何のために行っていたのかもよくわからなかった勝負は幕を引いた。









「じゃあ、あの風を起こして助けてくれたのはさくらちゃんだったんだ」
「ま、そういう事。本当はもうちょっと早く助けた方が良かったのかもしれないけど、そっちの人にも何か考えがあるのかと思って」
「そうだよねぇ〜。あれだけやっておいてその先の事を何にも考えてなかったなんて信じられない」
「はっはっは、そう言うなよ。照れるぜ」
「いや、今の褒めてないでしょ」
「相沢君って、わけわかんないよね」

 紗絵、祐一、さくらの3人が山を下り、ゴメスの身柄をギルドに引き渡した頃には、時刻は既に夕方になっていた。紗絵の手元には、ゴメスにかけられていた賞金の300万があった。昨日換金して得た金額も相当なものだったが、それに数倍する大金である。
 手にした3つの札束の内から1つを、紗絵はさくらに手渡した。

「これ、助けてくれた分・・・・・・て言うのも何か変だけど、いいかな?」
「いいの? お手柄はさっちゃんだと思うんだけど」
「いきなりこんなにたくさんお金持っても困っちゃうし、さくらちゃんだって、あの人捕まえようと思ってあそこにいたんでしょ?」
「まぁね。じゃあ、遠慮なく」
「なぁなぁ、俺の分は?」

 横から顔を出してくる祐一に、紗絵は例によって冷ややかな視線を向ける。

「相沢君が何したの?」
「何だよ、あの場所を最初に見付けたのは俺だぞ」
「・・・・・・まったくもう」

 渋々といった体で残る2つの札束の内1つを祐一に渡す。渋って見せてはいるが、最初から紗絵は賞金は3人で山分けするつもりだった。さもなければ、そもそもさくらに三分の一ではなく、半分を渡していた。
 一応、その後の事はともかく、すんなりゴメスの潜伏場所を見付け出せたのは祐一のお陰だった。
 結局紗絵は、色々ありながらも祐一の事を本気で憎めずにいるのだ。

「言っとくけど、あたし、まだ怒ってるんだからね」
「ほんとに根に持つ奴だな、おまえは」
「だって2度目だったし」

 1度目ははじめて会った時、いきなりわけもわからず食い逃げ代を押し付けられた。そして2度目が、狂言だったとはいえ騙し討ちで紗絵を捕まえて利用した。これで根に持たなかったらどれだけ心が広いというのか。
 悪い人間ではない。だが、信用はできない。それが祐一に対する今の紗絵の印象だった。