純白の遁走曲〜Fuga〜



   Chapter 1−3





















 ぬくぬくとした柔らかな感触に包まれている。
 まどろみの中で感じるそれがとても心地良い。
 体はふかふかしたマットの上に寝そべっており、程好く弾力のあるそれは、全身を優しく抱きとめている。
 身を包む毛布は暖かい温もりを持っていて、さらなるまどろみの内へと誘ってくる。

「んむぅ・・・・・・うにゃぁ・・・・・・」

 天にも昇る心地で、紗絵は朝を過ごしていた。

「はふぅ・・・・・・」

 山で生活していた頃は、当然の如くベッドなどというものは存在すら忘れていた。一応、子供の頃には知っていたはずだが、あまり馴染みがなかったのか、まるで気にかけず、人里に下りてはじめてそんな 物があるというのを思い出したくらいだった。
 その後は渡り歩いてきた町や村の宿でベッドを利用していたものの、どこも田舎で、簡素なベッドしかなかった。
 そんな生活を送ってきた紗絵にとって、都会の宿のベッドは革命的な衝撃をもたらすものだった。
 宿に入った夜、触れた瞬間に感じた、硬過ぎず、柔らか過ぎないマットの弾力に驚き、30分近く手で押してみたり、腰掛けて跳ねてみたりしていた。
 毛布に包まってから、その柔らかさ、暖かさが気持ちよくて、意味もなく包まったままマットの上を転がり、夢中になり過ぎてベッドから転がり落ちた。
 小一時間ほど革命的なベッドに興奮していた紗絵だったが、落ち着くと旅の疲れから急激な眠気に包まれ、それからものの数分で熟睡状態になった。
 そして朝、まだ半分眠りの中にいる半覚醒状態になると、程好いベッドの温もりにずっと包まれていたい気持ちになってそのまま再びまどろみ続ける。
 何度かそれを繰り返したが、一向に起きようという気にはならなかった。

「むにゃ・・・・・・・・・はれ?」

 ようやく眠気が覚めてきた紗絵がのろのろとベッドから抜け出してカーテンを開けると、太陽は既に真上に来ていた。
 眩しさに目を細めながら、まだちゃんと働いていない頭で現在の状態を認識しようとする。
 眠い、眩しい、ちょっと肌寒い、ベッド恋しい、太陽高い、何か引っかかる、眠い、ベッドぬくぬく、ちょっとお腹空いたかも、外明るい、暖かいベッド、起きる時間、やる 事があったような、眠い、ベッド・・・・・・。

「・・・・・・・・・・・・ん〜・・・」

 這い出てきた時と同じく、のろのろとした動きで紗絵は再びベッドに潜り込む。
 毛布を被る。暖かい。

「きもちぃ・・・・・・」

 しかし、さすがに半日以上寝ていただけに、眠気まではぶり返してこない。
 その結果、ようやく紗絵に正常な思考が戻ってきた。
 ハッと気がついて、ガバッと毛布を跳ね除けて、今度は機敏な動きでもう一度窓に駆け寄る。
 太陽は真上、最も高い位置で光り輝いていた。

「えぇえええええええっ!?」

 己の盛大な寝坊に、思わず声を張り上げた。



 宿を出た紗絵は、空腹を訴えるお腹を擦りながら街を歩く。当然の如く、昼まで寝ていた紗絵のための朝食は残っていなかった。

「うぅ・・・・・・お腹空いたぁ・・・・・・」

 どこかで食事を摂りたいところだが、昨日に引き続き今日もまるで成果無しとなれば、どんどんこの街での滞在日数が延びてしまう。今のところ昨日得た分でお金には困らないが、それもこの街に滞在する分程度のもので、その後の路銀の 事まで考えると足りない。
 つまり、少しでも早くお金を稼げる環境を整えつつ、目的の人探しもしなければならないのだ。寝坊までしてのんびりと昼食を摂っている場合ではない。
 ただでさえ知り合った人から尽く「とろい」だの「のんびりしてる」だのと言われ、本人も少しはそれを自覚している紗絵の事である。少しでも早く、要領良く動き努力だけはしなくてはいけない。幸い真面目な紗絵は、一度覚えた作業に関しては上手くやれるので、はじめの一歩をがんばれば何とかなる。
 そして、そのためにどうすれば良いのかを、昨日知る事ができた。
 ギルド。
 そこを利用すれば、仕事と人探し、両方において貴重な情報を得る事ができるはずだった。

「そうよ、確かあそこで簡単な飲食もできるって言ってたから、ついでにお食事もできるよね。ギルドって便利ね〜♪」

 その代わり、危険や厄介事も多いから注意しろ、とギルドの事を教えてもらった時に言われていたのだが、空腹で思考力が低下しており、さらに寝坊の遅れを取り戻そう張り切っていた紗絵はそれをすっかり失念していた。
 とはいえ、本来ならギルドでもそうそう危険な出来事が起こるわけではないのだが、紗絵はその点、トラブルを呼び込みやすい体質かもしれなかった。
 ギルドに到着した紗絵を待っていたのは――。

「遅いわーーーーーーーーっ!!!」

 バコーンッ!

「ぃ・・・・・・・・・ったーーーーー!!」

 痛烈な一撃だった。
 ギルドの前で仁王立ちしていた少女が紗絵の姿を見付けると、どかどかと大股に歩み寄ってきて、手にしていた本を思い切り紗絵の頭の振り下ろしたのだ。
 頭を押さえて蹲る紗絵を、少女は尊大な態度で見下ろしている。
 抗議しようと顔を上げると、不機嫌さを剥き出しにした鋭い視線に睨まれて、逆に竦まされてしまう。
 ちなみに、少女はまったく見覚えのない相手だった。

「あ、あのぅ〜・・・・・・」
「まったく、今何時だと思っている。朝っぱらからここに突っ立って待っていた私が馬鹿みたいではないか」
「ま、待っていたって、誰を・・・・・・?」
「君以外に誰がいる」
「えっと・・・・・・でもその、初対面・・・・・・だよね?」
「・・・・・・・・・」

 少女はしばし考え込む。
 視線が逸らされた隙に、紗絵は立ち上がった。
 見た感じ、紗絵とそう歳は離れていないように見える。栗色のショートヘアに黒いリボンをつけており、手には先ほど紗絵を殴ったものと思しき分厚い本を持っていた。
 歳のわりに、不思議と落ち着いた雰囲気のする少女である。そういう意味では少しだけ、昨日会ったさくらという少女に通じるものがある。
 やがて少女は得心がいったように頷く。

「ふむ、そういえばそうだな」
「うん、そうだよね」

 紗絵の思ったとおり、はじめて会った相手で間違いないようだった。
 つまり人違いのようだ。となると、さっきのは殴られ損という事になる。だがそれを追求するとまた叩かれそうな気がしたので、ここは穏便に別れる事にした。
 唐突に理不尽な目に合うのは昨日でもう慣れた。悲しい事だが。

「じゃあ、あたしはこれで」
「うむ」

 と、少女の横を通り抜けてギルドの中へ入ろうとした紗絵だったが――。

「って、待てーーーーぃ!!!」

 バコーンッ!

「いったーぃ・・・・・・!」

 再びきつい一撃を、今度は後頭部に受けた。
 一瞬、目の中に星が浮かんだ。

「用も済んでいないのに立ち去ろうとするな」
「いたた・・・・・・だ、だって、人違いだったんじゃ・・・・・・?」
「誰がそんな事を言った? 私は初対面だという事を認めただけで、君を待っていたという事実に変わりはないぞ」
「? ? ?」

 紗絵は意味がわからずに困惑する。
 初対面であると認めながら人違いではなく、紗絵を待っていたという少女の言い分は何かおかしい。しかし自信に満ち溢れた少女の眼を見ていると、自分の方が間違っているという感覚に陥らされる。
 そこで紗絵は、ふと思い付いた。

「あ、もしかして、相沢君の知り合いの人?」
「誰だそれは」
「・・・・・・」

 違ったらしい。もしかすると昨日の少年、相沢祐一から紗絵の事を聞いていたのかと思ったのだが。
 この街での知り合いとなるともう一人、さくらがいるが、そちらとはギルドで関わり合いになるような事はなかったので、それもおそらく違うだろう。
 そうなるとますます、この少女の言い分がわからない。

「えっと・・・・・・あなたは誰?」
「そうだな、まずは自己紹介か。私は橘芽衣子という」
「橘・・・・・・芽衣子ちゃん」

 やはり、聞き覚えはなかった。
 ただ、名乗られた以上は名乗り返すのが礼儀だと思ったので、紗絵も自己紹介をする事にした。

「あたしは・・・・・・」
「知っている。名雲紗絵」
「ど、どうしてあたしの名前を・・・・・・はっ! もしかしてあなた・・・!」
「いや、残念ながら紗絵の知りたい事を私は知らない。もちろん、紗絵の過去の事もな」

 紗絵はウッと言葉を詰らせる。
 聞こうとしていた事をズバリ言い当てられ、その上で否定された事でますます困惑した。
 知らないと言いながら、芽衣子と名乗った少女は不思議なほど紗絵の事を知っていた。名前や、今聞こうとした事。それに最初に言っていた事が本当ならば、芽衣子は紗絵がこの場所に来る事も知っていて待っていたという 事になる。

「あなたは、一体・・・・・・」
「私は、ちょっとばかり未来が見える特異体質でな」
「未来が・・・・・・予知?」
「似たようなものだ。ま、予知と言っても曖昧なもので、朝には来るものと思って来てみたら昼まで待たされたりしたわけだが」

 じとーっとした目で見据えられて、紗絵は別に自分が悪いわけではないような気がしながらも、悪い事をしたような気になって縮こまる。

「じゃあ、あたしの事を知ってたのも、その予知で?」
「それだけではないんだがな」
「?」

 軽く目を逸らした芽衣子の顔に、ほんの一瞬翳りが差したような気がして紗絵は首を傾げる。

「いや、そんな事はどうでもいい。やっと訪れた機会を無駄話で潰しても仕方がない」
「何の事?」
「いいから聞け、紗絵。私は君の知りたい事を教える事はできない。だが、そこへ至るために必要なヒントを与えるくらいはできる。こう見えて占い師みたいなものだからな」
「それって・・・・・・むっちゃんを探す手がかりがあるってこと?」

 紗絵は逸る気持ちを抑え、努めて冷静に芽衣子の話を聞こうとする。
 奇妙な直感が働いており、彼女の話はしっかり聞いておかなければいけない気がしていた。

「それはわからん。ヒントをどう解釈し、どう活用するかは紗絵次第だ。その先に待つ結果が良いものか悪いものかさえ、私には見えん」

 それでも、ようやく何か手がかりになるものが手に入るかもしれないのならば――。

「教えて、芽衣子ちゃん」

 じっと芽衣子の眼を見つめながら、紗絵が問いかける。

「・・・・・・・・・」

 芽衣子は神妙な面持ちで紗絵の眼を見つめ返しながら――スッと本を振り上げた。

 バコンッ!

 振り下ろされた本は三度紗絵の頭を叩いた。

「痛っ!」
「貴重な情報をくれてやろうと言っているんだぞ? 相応の頼み方というものがあるだろう。“教えてください、芽衣子様”だ」
「お、教えてくだいさい、芽衣子様・・・・・・」

 涙目になって頭を押さえながら紗絵が復唱すると、芽衣子は満足げに頷く。

「ではまずこれを見ろ」
「これ、は?」

 芽衣子が差し出した紙を受け取って覗き込むと、それは昨日ギルドで見た手配書というもののようだった。
 中央には強面な中年の男の似顔絵が描かれてあり、下の方には依頼主の名前や依頼された年月日、そして賞金額が記されている。
 金額は300万。紗絵にとってはそれでも途方もない金額だが、昨日ギルドで見た手配書の中ではむしろ安い方だった。
 手配書を上から下までじっくり見てその内容は理解したが、それを渡された意図がわからずに紗絵は顔を上げる。

「あの、これが、何?」
「実はな。この街のすぐ近くの山中にその男が潜伏しているらしいという情報があるんだ」
「ふむふむ」
「これがその詳しい場所だ」

 次に手渡された紙には、この街周辺の簡単な地図が描かれており、北に少し行った先にある山のところに×印が記されていた。
 尚もわけがわからず首を傾げる紗絵に、芽衣子は一言こう言った。

「その男を捕まえに行け」
「へ?」
「今すぐに、とっととな。一分一秒を争うからさっさと行け」
「あ、あの・・・!?」

 せめて事情を説明してほしい、と言おうと思ったのだが――。

「つべこべ言わずに行かんかーっ!」
「は、はいーっ!!」

 芽衣子の剣幕に押されて、紗絵は困惑したままその場から駆け出していった。
 100メートルほど走ったところで一度振り返ってみたのだが、その時既に芽衣子の姿はギルドの前から消えていた。
 ただどこかで、何かの低い鳴き声が聞こえた気がした。









 判然としない思いを抱えながらも、紗絵は言われるままに手配書の男が潜伏しているという山までやってきた。芽衣子の有無を言わせぬ迫力に押されたのもあるが、不思議と彼女の言葉には従った方が良い気がした のだ。単純に、これまでまったく得られなかった“むっちゃん”に繋がる手がかりを得られるかもしれないという期待もある。
 思えば、顔も名前も知らないような相手を探そうというのだから、尋常な手段で行えるわけがない。占い師の類に頼るというのは、決して間違った選択肢でもないだろう。
 と、そんな理屈は後付けのもので、結局紗絵が信じたのは己の直感だった。
 橘芽衣子の言葉は、停滞した紗絵の時間を前に進める鍵になる。
 それは、さくらや祐一との出会いで得た共感とはまた別の次元にある確信だった。何の前触れもない突然の邂逅だったが、紗絵は芽衣子との出会いに、“むっちゃん”へと至る過程にある必然を見た。
 まったく、何の根拠もない事ではあったが。
 それよりも、目下の問題はこのわりと広い山中の、一体どこに目当ての男が潜んでいるのかという事だった。仮にも相手は手配書が出回っている賞金首である以上、目立つような場所にはいないだろう。となると、山道から外れた場所に隠れているのは間違いない。

「う〜ん・・・・・・やっぱり歩き回って探すしかないかなぁ?」

 幸い、紗絵は山には慣れている。歩き回れば、人が生活している痕跡を見つけるくらいは難しくないはずだった。
 まずは山道のどこかに、さらに奥へ入れそうな場所がないかを探しながら、紗絵は手配書の内容を改めてチェックする。
 名はゴメス。年齢は40歳前後。手配書の似顔絵では全身像はわからないが、2メートルを超す巨漢で、大の大人が2人がかりでやっと持ち上げられるような岩を片手で持ち上げる怪力の持ち主らしい。2年ほど前からいくつかの町や村で破壊・略奪行為を行っており、その地方の豪族が賞金を出してギルドに指名手配を依頼したと書かれてある。また略奪の際にゴロツキを集めていた 事から、現在もそうした輩と徒党を組んで潜伏している可能性があるとの事だった。

「悪い人ってたくさんいるのねぇ〜」

 これでも手配書が出ている賞金首の中では小物だと言う。世の中にはもっともっととんでもなく悪く、恐ろしい人間がいるという事だ。
 昨日のスリや詐欺まがいなど取るに足らないものでしかないように思えてしまう。
 どちらにせよ、悪い事には違いないのだが。
 そんな事を考えながら歩いていた紗絵の足がふいに止まった。

 ――前方の岩陰に、誰かがいる。

 獣の類ではない。間違いなく、人間の気配だった。
 相手の方も紗絵に気付いたのかもしれない。一瞬遅れて足音が止まっている。紗絵は音を立てずに肩に担いだ包みを左手に持ち、僅かな動作で中身を取り出す。
 片刃の刀である。
 山を下りる時、養父から餞別としてもらったもので、身を守るため、また時には敵対した相手を倒すための武器であり、紗絵の旅の大事な相棒であった。拵えには華美な装飾はないが、見る目を持つ者ならば一目で立派なものとわかるだろう。納められた刀身も、特殊ではあるが業物であった。普段は行動の一つ一つがのんびりとした紗絵が、この刀を手にした時には別人のように機敏になる。
 納めたままの刀を、いつでも抜けるよう腰の高さに構えつつ、紗絵は足音を殺してゆっくりと前進する。
 ただの通りすがり、と判ずるには、相手の気配の断ち方が上手すぎた。敵かどうかはともかく、一般人でない事だけは確かだった。
 岩陰に近付く。
 すぐ向こう側に、相手もいる。
 紗絵は右手を柄に添え、岩陰から素早く一歩踏み出す。

 バッ!

 まったく同時に相手も姿を現す。背中に背負った剣の柄に手をかけており、紗絵とまったく同じ考えを持って飛び出してきたものとわかる。
 その相手の姿を見て、紗絵は刀を抜きかけた手を、止めた。

「あ、相沢君!?」
「おまえ・・・・・・名雲か」

 互いに驚きの表情を浮かべながら、一日ぶりに紗絵と相沢祐一は再会した。



















あとがき
 というわけで、さっそく登場したのは芽衣子であった。毎回新しい人物が登場しているが、これでチャプター1のメインキャラは打ち止めである。意味深な発言からも 推し量れるとおり、芽衣子はこの物語の核心に迫る情報を握っているキャラなのだ。全体的に出番は少ないが、今後も要所要所で顔を出しては謎の言動を残していくことであろう。