Prelude
気がつくと、真っ白の大地に一人ぼっちでいた。
空を見上げると、今もしんしんと雪は降り続けている。
不思議と冷たさを感じない。
手触りは雪と変わらないのだが、冷たくはなかった。
けれど、とても悲しい白をしていて、言い知れぬ寂しさが込み上げてくる。
周りを見回しても、自分以外には誰もいない。
ここがどこなのか、どうしてこんなところにいるのかもわからない。
「むっちゃん、どこ・・・・・・?」
不安が募って、自然と声が洩れた。
それからはたと気がつく。
――今自分は、誰を呼んだのか?
「えっ?」
それこそ何を言っているのかだった。
“むっちゃん”とは、とても大切な――。
「大切な・・・・・・誰・・・?」
思い切り首を振って余計な疑問を振り払う。
そう、“むっちゃん”はとても大切な人だ。
決して忘れてはいけない、忘れるはずがない。
なのに、その人に関する記憶が、どんどん頭の中から抜け落ちていく。
どんな顔をしていたのか、どんな声をしていたのか、どんな仕草をしていたのか。
必死に思い出そうとするのに、端から端から、手で掬った水が指の隙間から零れ落ちるように、記憶は留まってくれない。
怖くなった。
忘れてしまう。
とても大切なことなのに、覚えていられない。
「やだっ・・・・・・むっちゃん、どこ!? 怖いよ・・・・・・むっちゃん!!」
この場所がどこかわからない事よりも。
どうしてこんな場所にいるのかという事よりも。
何よりも、“むっちゃん”の事を忘れていってしまっている事が怖かった。
「あっ」
伸ばした手があるものに触れた。
それは、いつでも持ち歩いていた自分のノートだ。
自分のことは、ある程度思い出せる。
名前や習慣、基本的な知識、それらは忘れていない。
ノートを開く。
日記、のようなものだった。
どんどんページをめくっていくと、ある日からずっと、ただ一つの事柄が記されていた。
出会った時の事、丘のある公園で遊んだ事、おいしいデザートの置いてあるお店に連れて行ってくれた事、二人でアイスを食べた事、水族館に行った事。
それは全て、“むっちゃん”との思い出だった。
決して失くしてはならない大切なものが、そこには綴られていた。
「っ!」
白紙のページに辿り着くと、急いでポケットを探って、ペンを取り出す。
それからひたすら、まだ覚えていることを書き連ねた。
どんな人だったのか、どんな言葉をかけてくれたか、どんなことを一緒にして過ごしたか。
思い出せる限りのことを。
――たとえあたしが忘れてしまっても、このノートが覚えていてくれる。
このノートは道標になる。
きっといずれ、何もかも忘れてしまうであろう自分が、もう一度あの人と会うための。
やがて思い出せることもなくなると、自分の“むっちゃん”への想いを書き綴った。
一心不乱に、零れ落ちていく記憶と想いを掻き集めて。
――むっちゃん、会いたい!
最後にはもう、その呼び名しか残っていなかった。
“むっちゃん”。
その呼び名だけを、力の続く限り書き続けた。
そして、少女は力尽きて、気を失った。
次に目を覚ました時には、もう何も覚えていないだろう。
それでも、思い出を書き綴ったノートがある。
これがただ一つの、少女の道標だった。
「・・・・・・むっちゃん・・・・・・・・・・・・」
意識を失う直前、どこかから子供の泣き声が聞こえたような気がした――。
少年は、心の空虚を埋めるものを求めて――
魔女は、帰るべき場所を求めて――
少女は、失くしてしまった大切な人の温もりを求めて――
過去に記憶の空白を持つ三人、
満たされない心を抱えながら、
ただ一つの道標を手に、
彷徨い歩く。
寄る辺もなく、
行き先も定まらぬ三つの道が交わる時、
彼らの旅は始まる。
とても大切な探しものを、見つけるために――。
純白の遁走曲~Fuga~
それは楽しくも、どこか寂しげな、けれど幸せになるための物語。
――7年後――
蝉の声が喧しい。
照り付ける日差しが眩しい。
蒸した空気が肌にまとわりつく。
道の先で陽炎が揺らいでいる。
暑い。
これでもかというくらい、夏真っ盛りだった。
小さな小さな田舎町の片隅の駄菓子屋の前に、一人の少女がいる。
歳は15、6ほど。艶やかな黒髪は長く、癖のないストレート。袖のない白のワンピースを着ており、頭には日除けの広いつばのついた帽子を被っている。
金色の瞳は、冷凍庫の中身をじっと見つめていた。
「あ♪」
やがて目当てのものを見付けた少女が目を輝かせる。
「おじさーん、このアイスちょうだい!」
「あいよ」
店の奥から出てきた店主にお金を払って、冷凍庫の中からアイスを一本取り出す。
袋から取り出したアイスを口に運ぶと、冷たさで頭がキーンとなった。
「~~~っ!」
けれどおいしい。
やはり暑い日はアイスに限ると少女、名雲紗絵は思った。
アイスを手に歩きながら、紗絵は一度、今まで滞在していた町を振り返った。
どこか懐かしい感じのする、古い町並み。こんな景色を、過去にも見たことがあるような気がする。
ここに住んでいた事があるわけではない。ただ、誰でも一度は何かで見た事がある、或いは両親や祖父母から聞いた事があるような、昔ながらの雰囲気を残している町。
とても良い町で、紗絵も好きになれた。
けれどここに、彼女の探している人はいなかった。
だからまた、どこか別のところへ行く。
「あ! アタリだ♪」
食べ終わったアイスの棒に書かれている文字を見て、うきうきした気分になる。
「次は、むっちゃんと一緒に食べたいな」
そうしてまたアタリが出たら、自慢してみよう。
もしも向こうにアタリが出たら、もう一本ねだってみるのもいいかもしれない。
想像すると、楽しさと寂しさが共に込み上げてくる。
「・・・・・・・・・」
太陽に向かってアタリの棒をかざしながら目を細める。
7年前、紗絵は全ての記憶を失っていたところを、通りかかったある人物に拾われた。
紗絵に残されていたのは、自分の名前と、“むっちゃん”という呼び名と、二人の思い出を綴ったノートだけだった。
拾ってくれた人から一人で生きる術、旅をする術を教わった紗絵は、ノートに綴られた思い出だけを道標に、“むっちゃん”を探す旅に出た。
覚えているのは呼び名だけで、顔も、声も、仕草も、本当の名前さえも覚えていない。
そんな相手を、この広い世界で探し出すことがどれほど困難かはわかっていた。
「次の町では、むっちゃんに会えるかな・・・・・・?」
あと何回、“次は”と思えば辿り着けるのか検討もつかない。
それでも紗絵は歩き出した。
果てしない道の先に、必ずその人がいると信じて――。
「さぁ、行こう。どんなに時間がかかっても、どんなに遠くにいても、絶対、会いに行くからね、むっちゃん」