志田窯 染付 龍虎文尺皿組
19C前半:頂径29.7cm*高4.7cm
志田焼のお皿、古伊万里にハマッたころは見向きもしなかった。
しかし、こうして日本磁器生産の推移を眺めてくると、志田窯の存在は日本の陶磁史にとって、江戸後期の重要な作品群であるということがわかった。そこで当コレクションとしても外すわけにもいかないなと、近年なって手に入れようとしました。以前はゴロゴロしてたような気がしたのですが、最近は人気もあるようで意外に苦労したのである。

以前の稿でも記しているが、江戸後期に庶民文化が盛んになった頃、江戸では各所に遊興をともなう茶屋が繁盛した。そこでの料理の典型的なものが「宴会料理」があったようで、旅籠、料理屋などでも盛んに宴会が行われていた。また、煮売屋、仕出屋などもあったようで、今で言うところの外食産業が盛んな時期だったらしい。
外食にかぎらず、町家の結婚式などの「ハレ」の宴会も盛んになり、やがて地方にまで浸透して行った。こうした席でメイン料理を引き立てたのが大皿であり、宴会が一般化するにつれて大皿は社会の必需品となっていった。

こうした大衆消費時代にマッチした商品を供給したのが志田焼である。肥前有田の近隣、肥前塩田の志田で焼かれたのであるが、当時の消費地サイドの認識は伊万里焼と明確に区別はされなかったようである。

志田焼では、安価な陶石で生素地を作り表面に白化粧とよばれる化粧土を掛けて素地を作った。これによって伊万里とほぼ同様の白生地を得たのである。文様は、大衆受けする縁起文、吉祥文の素朴なものを主とし大量生産に対応して、伊万里焼よりも安価に販売された。

前述の江戸遊興地跡の発掘調査や一般町家に残った江戸後期の磁器大皿類では志田焼が圧倒的に多いようである。

現在、hibariさんのBBSで福良雀さんが講義なさっている伊万里焼の流通史のここまでの舞台であった江戸後期の流通商品の中にも、志田焼が多数含まれていたのであろうと想像されます。 お話のなかで明確にされた出荷量の膨大さに驚かされましたが、志田窯の生産のピークも文化文政から天保にかけてということでありますから時期的に合致する。磁器が庶民生活に浸透して需要の裾野が急速に広がり、流通量が格段に増加した時期なのでありましょう。

2006/5/1


【付記】
志田焼は一時 広島の 「江波焼」と言われていた時期がある。大げさに言えば古九谷と同じである。
肥前塩田の志田窯跡の発掘調査で志田で焼かれた製品群であることが解明された。


参考文献:関和男編 「後期伊万里 志田焼 -大皿編-」

雲龍文 裏

竹虎文 裏