18世紀後半の新様式について
私は天明期の製品に特徴的な優品が多いことに注目して、天明期を古伊万里の歴史におけるもう一つの頂点という認識をもっていたのであるが、倉石梓氏の「古伊万里染付図譜 18世紀の器皿を中心に」を読んで得心できたことが多々あったので感じたままを記してみたい。

中国景徳鎮が復活し欧州向け市場に再び参入するようになって、「伊万里」肥前窯業は盛期以降徐々に輸出量が減少していった。肥前窯業はそれを補うために国内需要の拡大を図り、それまでの上層階級向けの高級製品生産から、価格を抑えた汎用製品に生産を移行し需要階層を引き下げていった。価格の低減すなわちコストダウンを行うためには、当然ながら大量生産と歩留まりの向上を主眼とした生産革新が行われた。



大量生産の基本は分業による人海戦術であるから多くの職人が必要となる。

職人の養成は簡単ではないので慢性的な熟練者不足となり、それに対応した簡略化が行われていった。

意匠は古伊万里様式の継承であるが、簡略化と技量低下でその製品は年ごとに品質が低下していった。成形、絵付けともにである。

そんな中で18世紀後半になると、

それまでの古伊万里様式(参考1)とは違った新しい意匠の製品が生み出された。

参考 1
18世紀中葉から後半の古伊万里様式



















倉石氏の分類によれば、18世紀中葉から作られた陽刻型打の製品。(参考2) 

18世紀後半からの清朝磁器の意匠に倣った清朝風意匠の製品。(参考3)

氏はこれらを「新様式」とした。

さらにもうひとつ18世紀後半から、この時期に特徴的な「白抜様式」。(参考4)
藍塗埋めによる白抜き。周囲を塗りつぶすことによってモチーフを白抜きで表現した製品が創出されたと分析している。


参考2  新様式 陽刻型打意匠 参考3  新様式 清朝風意匠 参考4  白抜様式 藍塗埋意匠


こうした新しい様式の発生は、《 発生→成長→完成→衰退 》のライフサイクルたどる事象の常として、この時期に一気に開花したものと思われる。古伊万里の歴史的に、この時期にもう一つの頂点があったと感じられるだけの根拠がここにあったのである。

これはまったくの私見であるが、「物事の発生には必ず時代的必然がある」との持論から推測するに、この時期に新しい様式が次々と発生した背景には、呉須に関する事情があるように思われる。

当時、呉須は中国から入手していたのであるが、18世紀中ごろにはそれまでの良質の呉須は非常に高価なものになっていったようである。これが、枯渇による生産減少によるものか、中国磁器産業の戦略によるものかは確認していないが、生き残りをかけてコストダウンに取り組んでいた肥前磁器産業としては忌々しき問題であったろう。こうしたなかで作られたのが、陽刻型打ちの製品、陽刻の意匠を多用して呉須の使用を最小限にする工夫だったのではないだろうか。

古伊万里の呉須は、盛期の美しい発色のものから徐々に質が低下して行ったことは周知のことであるが、この時期にそれまでの発色とは大きく異なった発色になっております。肥前磁器産業の強い要望によって、輸入商人が別ルートで安価な呉須を確保することが出来たということでしょう。

安価な呉須を手に入れた磁器産業は、当時贅沢なものとなっていたであろう呉須をふんだんに使った白抜き意匠の製品を開発、新商品として市場にアピールしていったという経緯があるように思うのである。

盛期以降の製品について、一からげで「幕末もの」とか「見るべきものなし」とか言われることもあるようだが、時代の状況に応じた生産者の情熱と工夫が、この時代での新しい様式の発生となり、それぞれの完成期の作品には盛期に引けを取らない優品が生み出されているのである。

当コレクションの資料だけではいささか説得力に欠けるのであるが、近年はこの時期の作品を取り上げた書籍も多くなっているようなので、注目していただきたいと申し上げるしかありません。

参 考 図 録 (早花苑コレクション所蔵)

18世紀後半 古伊万里様式 新様式 陽刻型打意匠
新様式 清朝風意匠 白抜様式 藍塗埋意匠