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先日、由緒あるお寺の古材を使用した茶道具のパンフレットを目にした。

「フ〜ン、古材か・・・・・どこかにあったなー」
ということで、探してみた。

裏庭の隅に積まれたガラクタの中にあった。
これは数十年前に解体した、私のところの母方の実家の物置に使われていた部材である。
欅だと思うが堅木の部材なので、親父がもらってきたのであろう。

当家は、そのまた大本家から天保時代に分家した家なので、江戸末期ごろの部材と思われる。
150年ぐらいはありそうである。

ひっぱり出してきて眺めてみると、なかなか渋い。
建築部材なので長さは一間ほどで、両端が木組みのための加工が施されている。
朽ちた加工部分がなんとも味があって良い感じである。

両端を切り取ってきて眺めている。
眺めていて、この雰囲気と言うか妙味は何なんだろうと考えさせられた。

そして解った、これは人の手が加えられているからだと。
加工されていなければ、単なる腐れ木である。

素人だから詳しいことは分からないが、加工の形状からすると、
そこそこ複雑な木組み部分のようである。

加工部分の一つ一つが機能的に役割を持っていて、
頑強な組付けにするためには精度の高い緻密な加工が必要であったろう。
それこそ棟梁の腕の見せどころであったに違いない。匠の技である。

時代を経て原形を覗わせるだけにまで朽ちてもなお
私を惹きつけるだけの雰囲気と味わいを保っている。

「・・・・・・・・これって、まさに骨董ということだなー」 あらためて気付いた。


そもそも「骨董」という言葉は、「董」 の意味である 「しんになるたいせつなもの」 ということが
が本質であり、「骨」 は骨のように・・・・ということであろうか。

すなわち、物事の本質的なもの、根源的なもので且つ 「大切」 なもの。

また、「董」 には 「ただす」(正す) という意味もある。
したがって、いくら本質的、根源的なものであっても 「邪悪」 なものは 「骨董」 とは呼ばない。

「真 善 美」 と言われることがあるがあるが、これが骨董における 「たいせつなもの」 の
意味なのであろうと考える。

時を経て、風化したり、色褪せたり、用に供して摩滅したり汚れたり、
そして今、存在するのは「しん(芯)」の部分のみとなっても、
そこに本質的な「真」なるもの、「善」なるものを感じ、「美」が見えれば、立派な骨董品なのである。


かと言って、朽ちてなければ骨董品じゃないかと言うと、そんなことはない。
美術品や工芸品で大切に大切に保管されてきたものもある。
ただし「骨董品」である以上、「時」という要素は絶対要件であろうが。

..


ハヤカ流の「詭弁」を弄するとこうなる・・・・・・・・・・・・・・。

「真」に「善き」もの、即ち「美」なり。

「真」に「美しき」もの、即ち「善」なり。

「善」なりて「美しき」もの、即ち「真」なり。


「善」とは、「人が生きる」ということに役に立つこと。

「道具」、生活のための器具。
「工芸品」、道具であると同時に使う喜び、持つ喜びを付加したもの。
「美術品」、観る人に感銘を与え、心を癒し、生きる喜びと活力を付与する。

難しいのは「刀剣」、人を護るための道具とすれば「善」、人を殺める道具とすれば「悪」と言うことになるのだが、
本質は、不動明王様が手にする「邪悪」を断つ剣にあり。

こうした「善きもの」が時を経て、「照りを沈ませ」その本質を醸し出した時、
これを「骨董品」と呼ぶのであろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2004/5/10


[ おまけ ]


上の画像は、斜め後から見たものであるが、なんと仏像の後姿のようである。


この部材や建物にかかわったであろう、祖先や職人さんの「心」

「物の本質」

「時」を経て、その仏性のみ出現す。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・って云うのは少しオーバーかな?



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