近代ユートピア思想の展開


 私に与えられたテーマは近代ユートピア思想の展開でありますが、ここで私が特に強調したいのは、ユートピアの研究が今や現在の倫理学の一部を担っているということであります。もちろんこのためにはユートピアが原義的なものから離れ、一般用語となり、とりわけ現代においては、学術語としてさえ使用されるようになった社会的学問的背景を忘れてはなりませんが、いずれにしてもユートピアが単なる物語の世界から、学問の世界へと仲間入りしたことは注目すべきことではあります。
 尤も、学問的世界への仲間入りが許されたとしても、未だに継子扱いされているのは事実であります。例えば『ユートピア思想の歴史』の著者であるJ・O・ハーツラーは次のように言っています。「ユートピアについて、文学史はそれを物好きとして、あるいは政治学や国政術の分野として投げ出していたし、政治学はそれが幻想的で非科学的であると言われるが故に、ほとんど留意しなかった。宗教と神学は若干取り上げたが、厳密に言うと、ユートピアは宗教的分野と関係のないものとなっていた。ユートピアを吟味し、後の社会的理想主義の見解の中にそれを容認するのは、それへの無限の人間的関心を持っていた社会学に残っていた。」
 それ故、倫理学の分野でユートピアの研究がどういう位置を占めるかは、もう少し待たねばなりません。それではユートピアとはいったい何であるのでしょうか。又近代においてユートピアがいかなる観点のもとにおいて考察されているのでしょうか。
 この問題に入る前に、私は一人の歴史学者の言葉を取り上げて考えてみようと思います。オランダのホイジンガの『中世の秋』によりますと、より美しい世界を求める人間の願いはいつの時代にもあり、その実現のためには三つの道が採られたと言っています。第一の道は「世界の外に通じる俗世放棄の道」、第二の道は「世界そのものの改良と完成をめざす道」、そして第三の道は「夢をみること」であります。
 これらについては、さらに次のような説明が加えられています。第一の道とは、美しい世界は彼岸にあると考え、現世への関心はそこにいたる時を無駄にするのだという観点から、現世への関心を排し、そのために生活の形態や社会のしくみに対しては目をつぶり、ただ単に現世に超越的な徳がそそぎ込まれる努力のみを払おうとする道です。もっとも、俗世放棄といっても、現世の社会を積極的に否定しようという気持はなく、慈善等の行為によって、現世を背後から照らそうとするにすぎませんが、この道の志向は、ホイジンガによれば、キリスト教世界では文化創造の原理ともなっています。 
 第二の道とは、現存の社会や国家の諸制度を改良、改革することが幸福に結びつくという考えのもとに、勇気と希望にうらうちされて、人間と社会の完成を意図しようとする道です。いわば現実の枠内で美しい世界を実現しようと努力する道です。彼は、この意識がはっきりしてきたのは十八世紀に入ってからだと言っています。
 第三の道とは、悲惨な現実とその現実の世界の放棄の道のけわしさを知るが故に、きびしい現実から美しいみかけの世界への逃避によって、現実を中和しようとする、最も安易な道です。ここでは生活そのものを、美をもって高め、社会そのものを、遊びとかたちで満たそうとする姿勢がつらぬかれているのであります。
 ホイジンガのこれらの定義は、これからわれわれが考えようとするユートピアを考慮した新しい人間像づくりに大いに貢献してくれるでありましょう。と言いますのは、ホイジンガのこの三つの道は現実世界に対する三つのアンチ・テーゼを、即ち、第一に宗教的アプローチ、第二に社会的、政治的アプローチ、そして第三に芸術的アプローチによるユートピア的世界を示そうとしているからであります。
 さて、われわれがユートピアについて考える際、ユートピアが、トーマス・モアの虚構的世界の中にみられていた概念規定以上の拡がりをもち、いまやその言葉の乱用によって、その言葉の使用者がその都度その意味をあきらかにせねばならないほどの肥満体になってきているのに便乗させてもらえば、わたしは、ホイジンガのいう美しい世界がわれわれのまだ見ぬユートピアの世界であり、彼のこの考え方も一つのユートピア論を展開していると思いたいのであります。しかも、ここでわたしは彼のあげるこれらの三つの道がユートピアへの三つの基本的な志向を最もよくまとめあげていると考えたいのであります。
 勿論ここで、なぜわれわれがユートピア論を展開しなければならないかをあらためて述べる必要はないと思います。それは、ユートピア思想家のすべてが認めているように、ユートピアが現存の社会を、不満の意識のもとに、超克すべき対象として認識するところから生まれてきているからであり、当然われわれの住む現代社会をみてみた場合でも、その社会の存在様態がどうであれ、(端的にいって資本主義社会であれ、社会主義社会であれ)そこに不満の意識をもつ者が少なからずいるからであります。(もっとも、人間は心理学的には現状に対しては常に不満のあるものだとする即自的人間的立場からは、われわれのユートピア思想の考察の理由づけにはなっていないだろう。だが、わたしはここで社会的に抑圧された者の意識のことをいっているのであります。)
 だがユートピアという言葉そのものが、十六世紀はじめのトーマス・モアの「ない・場所」の造語にはじまり、最初は、常識ではとても考えられない理想郷、従って単なる願望の話のテーマとして使用されるだけの言葉であったにもかかわらず、その解釈にあたって、次第に現実的な重みをもつように変調をきたし、その意味内容は、依然として「空想的」、「幻想的」であったとしても、いつのまにか、そして特に、マルクスやエンゲルスによって、少なくとも現存しうる社会の在り様にかかわる指示的用語になり、さらには、マンハイム等の社会学者によって、現存のあるいは歴史的存在の在り様そのものを指示している学術語にまでなったという事実は、単なる言葉の乱用をいましめる以上に、人間の希求の念をあらわすこの思想の普遍的意味とその重みを感じさせているといえましょう。
 従って、ユートピアが十六世紀に造られた言葉ではあるにしても、その指示しているものが、紀元前八世紀頃のヘブライの予言者アモスの社会悪と不正義に対する義憤にみちた預言から、二十世紀の今日の、コンピューターとユートピアとの合成語によって示されるコンピュートピアのビジョンに至るまでの広範な期間の様々な考えを包摂しうる概念となっても、われわれは少しも驚くにあたらないでありましょう。
 ただユートピア像が今までの歴史を通じて不変であったというわけではありません。不変であったのはユートピア像を形成する人間精神の構造であって、ユートピア像の具体的内容は変容するばかりか、時には、相反する像を志向している場合さえ、見られていたのであります。M・ベアもいっていますが、たとえば十七世紀初頭に出たF・ベーコンの『ニュー・アトランティス』においては、科学が人間の幸福に貢献するであろうとの仮定から、科学技術の発達した状態がユートピア社会の内実を占めていたのに対し、十九世紀の終わりに書かれたW・モリスの『ユートピアだより』においては、科学技術の典型的あらわれである機械文明はうとんじられ、生産物が手工芸品で占められる社会が理想郷として語られています。
 ここでわれわれは、これらのユートピア像のどれが正しいのかと詮索しえないのは当然でありましょう。あきらかなのはユートピア像が歴史的制約をうけているという事実であります。たしかに、一面では、ユートピアは、たとえば浦島伝説のように、超時間的、超空間的願望を含みうる多様性をもっているとはいえ(それ故にいつの時代の人々にも望まれているのでしょうが)、そのような形態のユートピア志向は、せいぜい個人的世界にとどまる限りで許されているのであって、いやしくも人間存在が社会における人間として規定されるような場合は、われわれの誰もはそのような個人の志向を社会的問題としてとりあげようとはしないのであります。人間が社会的存在であるとされる以上は、われわれの語るユートピアが、現存の社会の制約をうけるのは(従って歴史の制約をうけるのは)当然であるし、又そうでなければならないのであります。
 ここでわれわれが注意せねばならないのは、ユートピアについて考える際、ユートピア像が何であるかよりも、むしろ、ユートピアを想念するところの人間の精神をより重視しなければならないということでありましょう。ハーツラーは「ユートピアの背後にはユートピア精神がある」と言っています。このユートピア精神こそ、人間の本性に相応する重要な社会形成の原理として機能するものとして想定されねばならないのであります。
 それでは具体的に、それは何であるのでしょうか。彼によれば、ユートピア精神とは「社会が改良されえ、合理的理想を実現するよう作り直されうるという感情」であります。そして、彼はユートピア精神を、「ユートピアニズム」と呼び「諸概念や諸理想それ自身によるか、あるいは社会変化の明確な作用に具体化された諸概念による社会改良の概念」を意味していると規定しています。
 ここからユートピアとは、たとえばM・ブーバーのいうように「現実には存在しないでただ表象されるにすぎない何かについての像」、いいかえれば願望像、しかも「個々人のうちにではなく、人間的共同自体のうちにおいてのみ実現されうるところの、かの正しきものへの渇望」の形成像として理解されたり、又、K・マンハイムのいうように「意識がそのまわりの『存在』と一致しない」場合に、「現存秩序を同時に破壊しようとするような、現実を超越する方向づけ」で「実際の行為の中に具体化して、実現しようと努める」「願望イメージ」として描かれたりするのでありますが、こうなってくると、ユートピアは単なる絵そらごとではなく、現実的且つ明確な時間的、空間的性質をおりこんだビジョンとして想定されてきているのであります。というのは、その背景にあるユートピア精神は、もはやそれ自身が楽しみや逃避のために作用しているのではなく、社会変革を余儀なるさせる現在の歴史的状況の要請として生まれてきているからであります。
 さて、先程も言いましたように、ユートピア精神が、L・マンフォードのいうように、単なる逃避やゆとりある観照ではなく、再建のユートピアとしての社会を形成する現実の人間の行動原理とエネルギーとなるものとしてみなされなければならないとするように、われわれの考え方が変わってきたことは注目に値します。いうまでもなくユートピア精神がそのような観点でみられるということは、単にそれが社会学的対象になったからであるという以上に、もともとすべての理念が近代人に共通な物の考え方の影響のもとに想定されていたからであり、それ故、そのような観点での考察が近代人の心情にぴったりとあっていたからであります。
 これは人間の本性が近代的概念の中で規定されるようになった歴史の流れの必然的結果を示しているからであると思われます。その意味から、ユートピア像として、現時点において、最も可能的に形成されうるのは、社会主義社会や共産主義社会の考え方の中においてであるという認識を生んだのであります。
 皮肉にもそれは、エンゲルスによって「ユートピアから科学へ」と主張されることによって、ユートピアが一見、否定されたようにみえながら、われわれの理性的努力によって手のとどく社会主義社会の一つのあり方を示すものとして復権してきたのであります。
 ここから冒頭のホイジンガのより美しい世界は、常識的な近代的思考のもとにおいては、世界そのものの完成をめざすという第二の道を志向することによって、より一層現実的なものになるということになってくるでしょう。人間の歴史において比較的新しくおこったこの道の志向は、最も合理的且つ科学的な手段の採用によって、またたく間に社会形成のパターンを確保してしまったのです。ここにユートピアの問題は、K・ケレーニィが規定した「無条件に到達不可能な願望」というユートピアの原義からはなれ、「条件的に到達可能な願望」の問題として展開されたのであります。
 勿論この推移あっては、人間の自己の存在に対する過信が大いに関与していることはいうまでもありません。それ故、第一の道、第三の道は、まさにエンゲルスがいうところの空想的、ユートピア的なものとして、きりすてられねばならなかったのです。なぜならば、第一の道、第三の道は、たしかに広い意味での、そして本源的な意味でのユートピアへの道であり、しかもこれまでのユートピアへの道として考えられてきたものではありますが、マルクス主義者好みの言葉を使わせてもらえば、せいぜい世界を主観的に描き、解釈しているにすぎないのであって、世界を変革する物質的力を供していなかったからであります。
 われわれのユートピアがホイジンガのいう第二の道を歩むように強制しているのは、それだけが社会的人間の共同体という新しいビジョンを提供していたばかりではなく、人類の幸福を第一義的に志向していたからであります。ただしこの点において、幸福の概念がきわめて近代的であることを忘れてはならないでしょう。われわれの幸福というものは、社会的政治的制度と不可分にむすびつけられているのであって、かかる制度の改善によってのみ幸福は獲得されるのだと考えられているのです。いいかえれば、われわれの幸福は社会的政治的に考えられてみてはじめて存在しうる、人間の存在様態をしめすようになっているのであります。(過去において、たとえばアリストテレスの考えにも、このような見方は存在していたのでありますが、その場合、近代においてみられるように、すべての人間が物質的欲望をもつ存在であり、従って、ホモ・ファーベルとして人間が存在するのだという観念が支配的ではなかったために、ホモ・サピエンスとしての人間の幸福だけが考えられていたにすぎなかったのです。)
 それ故宗教的ないしは芸術的に幸福を志向することは、一人よがりにおちいるか、それともむしろ全体にとっての不幸の胚種を生むものとして、歓迎されませんでした。このような幸福のとらえ方は、オールラウンドではないにしても、われわれの幸福感の主流を占めるほど、われわれが唯物的、功利的になってきた証左を示しているでありましょう。しかもこの考え方は道徳的是認をも、とりつけているところに、われわれの行動に大義名分を与え、その上に、人類の幸福のための社会形成を行なう諸行為に対しては、他の個人的諸行為に対するのとは違った寛容さを認めさえしているのであります。(もっとも中途半端な抑圧的社会においては両者の諸行為の区別はなかなかにつきえない場合が多いのですが。)
 さてエンゲルスのこの言葉によって、「ユートピア」という言葉は復権したのでありますが、しかしエンゲルスの意図に反して、現時点においてユートピアを空想的社会主義としてのみ受け取るのではなく、いわゆる科学的社会主義、言い換えれば社会科学的方法による社会主義社会への思考の観念をも包摂していると見て取ることができるでありましょう。つまり、ケレーニーが言いますように、ユートピアとは空想的社会主義より以上に広範な概念となっているのであります。
 しかしながら近代ユートピアはここで大きな壁にぶち当たることになりました。この壁は近代人による人間存在の規定そのものに起因する、言わば起こるべくして起こった矛盾であります。この際近代人は自らを以下の2点において規定したと考えられます。一つは、あらゆる人間、個人は各自の欲望の追求において等しく自由であり、他人からの掣肘をうけてはならないと言うことであり、二つは、あらゆる人間、個人は社会的公正さのもとでなされた各自の欲望の追求において、自らに相当する価値を自ら是認し、それにふさわしい行為をし、あるいはその行為の代償を求めることは何らやましいことではないと言うことであります。その中で各個人はおのおののプリンシプルに従ってよりよき生活を求めていったのでありますが、やがてかかる個人の立場の固執が色々な困難時を発生させているのに気づくや、個人の力ではどうしようもない困難時の解決こそが必要なのであり、そのために社会やその制度そのものの変革がなされねばならないと言う認識が近代人の心の中に生まれてきたのであり、それが近代におけるユートピアの内実を示すようになったのでありますが、その結果、志向されたユートピアの内実は、どうしても権威主義的にならざるを得なかったという事態が生じたのであります。
 若くして世を去ったM・L・ベルネリはその点をするどくかぎわけていました。彼女は、次のように言います。「権威主義的ユートピアは……経済的な不平等を廃止しようと欲する限りにおいては進歩的であったが、古い経済的奴隷制を新しい形の奴隷制におきかえるものにすぎなかった。すなわち、人びとは自分の主人や雇主の奴隷ではなくなり、民族や国家の奴隷となったのである。国家の力は、時として、プラトンの『国家』にみられるように道徳と軍事力を基盤としたり、アンドレアエの『クリスティアノポリス』のように宗教を支柱にしたりしている。いずれにせよ結果はいつも同じである。個人は、かれのために人為的につくりあげられた法規や道徳的規範に従うように強いられるのである。多くのユートピアに根本的に存在する矛盾は、この権威主義的な方針に由来するものである。」
 このベルネリの指摘は(プルードンもそう考えていたのでありますが)古いユートピア像にあてはまるばかりではなく、現在において尚且つわれわれによって描かれようとしている、社会主義社会というユートピア像にも無関係ではないのであります。
 このことはユートピアの社会主義的性格もそれ自体では正しくはないという指摘になっています。それ故に、新しいユートピア社会は現存の社会主義社会を乗り越えたものを彷彿させているのであります。何がそうさせているのかと言えば、言うまでもなく、先に述べたベルネリの言の通り、ユートピア社会に見られる権威主義的傾向であります。この傾向は実際社会制度そのものだけを変革すればよいのだ、そしてその制度の盲目的信頼にユートピア社会の建設と維持がなされるのだとの観点から生じているのであります。この指摘は個人主義がもたらす悪の是正が全体主義的制度の導入によってなされざるを得なかったという歴史的事実をわれわれに思い起こさせるでありましょう。それ故、社会主義社会が権威主義的、全体主義的傾向を有してはならないと言う結論が当然生まれてくるのであります。
 さらにもう一つ忘れてならないのは、秩序形式主義に堕ちた官僚主義的傾向であります。元々官僚主義は人間の理性の功利性によって生まれたものの典型であり、官僚制は、レーニンの言葉を借りれば、ブルジョワ社会という身体に巣くう寄生虫であります。言わばそれらは資本主義社会に内在する思考形態であり制度なのであります。ところで実際は、資本主義社会から社会主義社会へとその制度が変えられた場合にも、マルクスやエンゲルスやレーニンの期待に反して、官僚主義的傾向は絶滅しなかったことも明らかな事実となっています。
 周知の如く、われわれがスターリニズムという名で呼ばれたソビエト組織の実態はこの事実をよく伝えております。このように現存の社会主義社会に認められる悪しき傾向が除去されて生まれる新しい社会主義社会、それがわれわれが想定する新しいユートピア社会でありますが、ではかかる悪しき傾向は何故に生じてくるのでしょうか。
 それは社会主義社会といわれるものも又、近代の思考の枠内で考えられているからであり、この枠内では、権威主義は社会の秩序維持のために、全体主義は社会の方向付けのために、官僚主義は社会の機能のために必要とされ、人間はかかる社会において個人の欲望の充足の場を見つけようとしたのであります。
 奇妙なことに、これらには近代的思考の諸概念が、いわば腫瘍のようにまとわりつき、信仰の形となって展開されていると思われます。即ち、権威主義のもたらす秩序維持にはリバイアサン的理性信仰が、全体主義のもたらす方向づけにはファシズム的進歩信仰が、官僚主義のもたらす機能にはサイバネーション的科学信仰が、われわれにとりついているのであり、それが近代ユートピア像の大いなる修正を要求していると言えるのではないでしょうか。
 以上の論点をふまえた上で、最後に今後、近代のユートピア思想がいかに展開されていくかについて簡単に触れてみたいと思います。今までに明らかにしてきましたように、近代ユートピア思想は近代的人間像の延長線上に、あるいは近代的思考の枠内で展開されてきています。つまりそこでは、ホモ・サピエンスとしての人間の、あるいはホモ・ファーベルとしての人間の抱く理想像が描かれているのであります。しかしながらその場合、ユートピアが理念としては福楽の地「エウトピア」としての内容を有していたとしても、帰結において「過去トピア」として人々に跳ね返っていくかの如き観を生じさせているように思えます。
 それ故にユートピアは再び原義的なものに立ち戻って考察されるべきものだと考えられます。とは言え、その場合でも、抽象的人間の独善的願望として展開されるのではなく、人間の本性についての積極的な新たな規定を社会の要請の中から展開されていくのではないかと思われます。言い換えれば、ホモ・サピエンスやホモ・ファーベルとしての人間がより高度な人間社会の形成に人間的存在の普遍的意義を見いだすよりも、ホモ・レリギオススやホモ・ルーデンスとしての人間が、どちらかといえば、逆ユートピアといわれる「ディストピア」の中に、個人の幸せを見いだそうとする方向へと展開されていくように思われるのであります。しかしながら、そうなってきますと、われわれはユートピアの問題を倫理学の問題から、再び物語の世界へと引き戻すことになりかねないし、うかつに予言するなどという態度に対し、十分に注意しなければならないと思います。
 以上でもって、「近代的ユートピア思想の展開」と題する発表を終えさせていただきます。



(お断り)
 本ページは、昭和50年の関西倫理学会にて口頭発表したものをそのまま文章化したものである。これをもとに論文化したものは法律文化社発行の拙著『ホモ・サピエンスのたそがれ』の第9章『ユートピアニズムの変遷の中で』に収録されている。ちなみにこの書は60〜70年代に発信者が思っていたものを書き記したものであるが、21世紀の今も通用しているかどうかはサーファーの判断にゆだねられよう。目次は下記の如くになっている。興味を持たれた方は、ご一読下されば幸いである。但し、この頃の発信者はイデオロギー的思考にも惹かれていた点は留意していただきたいと思う。

◇目 次◇

   序文 ─著者自身の告白─
第一部 リアリストの立場による論評
 第一章 理性における二つの機能について
 第二章 社会における二つの抑圧について
 第三章 被抑圧者の問題について
 第四章 人間存在と倫理の問題について
第二部 ユートピアンの立場からの提言
 第五章 新しい胎動にそなえて
 第六章 人類滅亡の寓話から
 第七章 遊びとしての生活へ
 第八章 楽しみとしての宗教を
 第九章 ユートピアニズムの変遷の中で
   あとがき


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