ジェイムズの行為観について


 はじめに

 今回のシンポジウムにおいて、私に与えられた課題は次のこと、即ち「プラグマティズムもそれなりに行為を重視しているので、その立場から、『行為』についてなにか話をすること」と言うことであります。しかしながら、プラグマティズムの立場から「行為」について話をするといっても、私は、過去にウイリアム・ジェイムズの思想を少し聞きかじっただけで、パースやデューイや他のプラグマティストについては、ほとんど知らないので、限られた範囲内での発表であることを、あらかじめ、断っておきたいと思います。従って、この会場にパースやデューイの専門家がおられましたら、あとで御教示下さることを心からお願いしたいと思います。
 そこで今回のシンポジウムのメーンテーマとなっております「行為の問題」についてでありますが、早速ながら、私達はこの「行為」について、それが具体的にどのようなものとして語ろうとしているかを、文字通りプラグマティックに確認しておかなければならないと思います。
 さて、日本語の「行為」なる言葉ですが、私はこれを英語圏で話されているAction又はAct に相当しているものと考えます。英語圏では類義語としてConduct とか、Deedとかがあり、特にConduct はAction,Actと同義語のようにプラグマティストによってよく使われています。ところがこのAction,Actの日本語訳についてですが、「行為」という訳の他に「行動」と言うように日本のプラグマティストによって訳されたりしているものですから、議論上の混乱がよく生じますが、これは行動と言う言葉が英語のBehaviorなる言葉(つまり単に反射的な行動をも含めていると思わせる心理学や生理学上の言葉)を思い起こさせるからだと思います。
 そこで私自身の「行為」の定義についてでですが、それは、M・ウェーバーが言うように、「行為者がそれに主観的な意味を含ませている限りのもの」と言われる類いのものであるとする大ざっぱな了解に留め、それ以上の、例えば「行為そのもの」の中に立ち入った分析や省察は行っていない点を、あらかじめお断りしたいと思います。
 ただ、行為について考える際には、私達はそれの地平的部分として歴史的に認められてきた三つの考え方を抜きにして考えないわけにはいかないと思います。
 即ち、一つ目は、行為が、実践、即ち(theory)と対比される(practice)を意味する形態のものだと言うこと、二つ目は、能動、即ち(passion) と対比される(文字通りのaction)を意味する形態のものだと言うこと、そして三つ目は、現実態、即ちアリストテレスの言う(dynamis) と対比される(energeia)を意味する形態のものだと言うことであります。


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 さて、私達は、何らかの形での実践的なもの、能動的なもの、あるいは活動的なものを、行為の特徴を示す本質的なものとして語っているように思われます。(そして、そのように了解することによって、人間の行為が他の動物と異なる固有性を持っていることを謳っているように、私には思われます。)何のことはない。プラグマティズムの行為論と言っても、独自の新しい考え方を示しているわけではなく、私達が謂わば当然の如くに了解しているこれら三つの考え方を、現代の考え方に合うようにして、改めて言い直しているにすぎません。
 我田引水的に言えば、行為論はプラグマティズムの立場からでないと、真の意味では語れないと言うことになろうかと思います。尤も、それでは角が立ちますので、柔らかく言い直してみますと、先程私は、理論と実践、受動と能動、可能態と現実態と言う三つの考え方を紹介いたしましたが、プラグマティズムはそれぞれの後者、即ち実践、能動、現実態に力点を置く考え方であり、前者、即ち理論、受動、可能態は、後者よりも劣るものとして、沈潜するものとして、あるいは後者の一つの有り様としてあるにすぎないとする考え方をしているのだと言った方が適切ではないかと思います。
 それでは、このプラグマティズムとは、一体、どのような考え方をするものでしょうか。本題に入る前に、私達は、それを少し吟味して見る必要があります。
 その前に、このプラグマティズムと言う言葉の誕生の経緯については理解しておく必要もあるので述べて見ます。私のこれからの話はW.ジェイムズの『プラグマティズム』という名の本に従っているのですが、語源的には「実践」とか「行動」を意味するギリシャ語のπραγμαから来ています。だから、直訳すれば、文字通りにそれは「行為主義」であり、でなければ 「行為を第一とする考え方」と言えます。どういうわけか、日本では、「実利主義」とか「実用主義」とか訳されているのは周知の事実です。
 又この言葉はパースの造語であることもよく知られています。この点は重要なので付言しますと、もともとこの言葉はカントが「プラグマティッシュ」と「プラクティッシュ」とを区別したことに起因しており、人間が生を営む上で基づく実践的法則は、常に仮言的命令の形をとるのだと見るパースは、自らの考え方を「プラクティカリズム」とせず、「プラグマティズム」と命名したと言うのです。
 そして、その後の経緯だけを申し上げますと、一般には、そのパースのプラグマティズムはジェイムズによって受け継がれ、広く普及して、最後にデューイによって完成されたとされていますが、他にはG・H・ミードやイギリスのF・C・S・シラーの考え方もそうだと言われています。そこには各人各様のプラグマティズム観があって、等しく同じであると言うわけではなく、それぞれに、別の呼び名が殊更に使われたりして、各人固有の思想的特徴が示されています。


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 まずパースですが、あとで申し上げますように、ジェイムズのプラグマティズムが彼自身によって「不用意に使われ、本来示す筈もない意味に使われていること」に反発して、後になってPragmaticismと言い直したことは、よく知られていますし、デューイは概念がわれわれの生活上に道具のような役割を果していることを強調してInstrumentalism 、ミードは社会心理学の立場からSocial Behaviorism、シラーは万物の尺度としての人間を強調してHumanismと言っています。そしてジェイムズの場合は、従来からあった考え方を紹介すると言った姿勢でありましたから、特に言い直しはしなかったのですが、それでも彼自身の考え方であるRadical EmpiricismやPluralism を抜きにしては考えられないプラグマティズムになっていることは明らかな事実です。
 以上、述べました如く、それぞれ強調する点は微妙には異なっているのですが、いずれもプラグマティズムの考え方と言われているわけですから、そこには何らかの共通点が見られるのは言うまでもないことでしょう。それでは、それは何であるのでしょうか。
 それについては、ジョン・E・スミスが『アメリカ哲学の精神』の中で明解に述べているので紹介してみたいと思います。彼はそこで「三つの有力な、焦点をなす信念」として次のように言っています。
 その第一は、「思考とは、もともと具体的状況に応じる活動であると言うこと、そしてこの活動は諸問題の解決を目的にしているという信念」です。
 その第二は、「観念とか理論とかは、一つの『鋭利な刃』をもたねばならないか、それともそれらを持つ人々の行為又は人々の生きる状況において、一つの差異をつくらねばならないという信念」です。
 そして最後の三つ目は、「この世は文明化されうるし、進歩にとっての障害は知識の応用によって除去されうるという信念」です。
 総じて、彼は次のように言っています。「これらの信念は基本的に人間主義的見地を明確にしており、究極的にはアメリカにおける哲学的思考の精神は…善【真善美の中の善】が支配的カテゴリーであると言う古い伝統の露呈であり、この展望に立ってあらゆる事物はよき生活の基礎付けと確立への貢献からその価値を導き出しているのである」と。これらの信念について社会思想史的見地から言えば、それは1860年から1930年頃までの、楽観主義が通用するアメリカ人の考え方を最も代弁して入るとよく言われています。それは、後になってアメリカの哲学的流れが厳密さと正確さを要求する分析哲学等にと向けられていったことからも窺えるのでありますが、その言及は私の今の仕事ではないので省かせて頂きます。


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 さて、話を戻すに、これらプラグマティズムに共通の考え方から、先程述べたように、パースが何故に「プラクティッシュ」、即ち「実験家タイプの心ではとうてい確認できないようなあやふやな思想領域を意味する」自由とか魂の不死とか神の存在とかに関係するとされる言葉を避け、「プラグマティッシュ」、即ち「人間の立てた一定の明白な目的と密接な関係を持つと言うことを指示する」言葉の方を選んだかが、はっきり示されていると思います。言うまでもなく、ここで問題になっている人間とは、生の具体的状況において試行錯誤の営みを重ねながら、幸福を求め善を獲得していこうとする具体的存在としての人間のありのままの姿であって、それ以外の、「なすべきが故に、なしあたう」のもとに生きるカントの思い描く人間については考えようとはされてはいません。それ故に、私もここでも、このカント的人間像からの行為への言及は、避けたいと思います。
 さて、このパース的人間像は、特殊なものではなく、イギリス経験論の中に脈々と流れている考え方を彼なりに再現したものです。思い切って言わせてもらえるならば、原義的に「行為主義」と言ってもよいこのプラグマティズムとは、アリストテレス以来、人間的生の営みの二つの独立した局面とされていたもの、即ちテオリアとプラクシスを同一のものとして(但しアリストテレスとは違って、テオリアをプラクシスの中に包摂させるものではありますが)正面切って、しかも一貫して主張した初めてのケースではなかったかと思います。それだけに、プラグマティスト特に理論家としてのプラグマティスト達は、観念とか概念、あるいは思考とか思惟、あるいは思想とか理論とか言ったテオリアの領域に関るものを、どう取り扱うかに苦慮し、最終的にはデューイが言ったような、人間が生きていく上での単なる手段、即ち道具説に収斂させていったと思います。
 その中にあって、プラグマティズムの提唱者であるパースは、彼のプラグマティズムを「概念を明晰にする方法」として捉えました。彼は日常生活において「概念の豊富な泥の中でもがくよりも」たとえ「概念の蓄えが貧しく、狭くとも」「自分の用いている概念の意味を自由に使いこなせる」ことの方がはるかに幸せだと考えたものですから、「概念を明晰にすること」がその日常生活のための論理学の確立の第一歩であるとし、その「概念を明晰にする方法」をプラグマティズムと呼んだのでした。
 因みにそのプラグマティズムの格率は、難解ですが、次のようになっています。「われわれの概念Conceptionの対象がconceivable に実際的な態度を持つかも知れないどのような効果をもつと、われわれがconceiveするかということをよく考えて見よ。そうすれば、これらの効果についてのわれわれのconceptionがその対象についてのわれわれのconceptionのすべてなのである。」


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 要するに、ここでパースは概念の意味を明らかにするには、それが行為へと至らしめる影響について考えよ、ということが言いたかったわけでありますが、注意すべきなのは、それでもって概念の意味そのものについて語ったのではなく、概念の意味を明らかにする方法を語っているにすぎないということであります。
 さて、前置きが長くなりましたが、ここから私は私自身が掲げたテーマ、即ちウイリアム・ジェイムズの考え方に入りたいと思います。ジェイムズは先程のパースのプラグマティズムの格率を、次のように言い直す形で理解しました。「一つの思想の意味を明らかにするには、その思想がどのような行為を産みだすに適しているかを決定するだけが必要である。その行為が我々にとって、その思想の唯一の意義である。」
 このジェイムズの表現形態は、一見、パースのそれと同じように見えるのですが、注意深く見ますと、パースの場合は意味へと導かれるための方法論であるのに対して、ジェイムズの場合は行為へと導かれるための方法論であることが窺えます。つまり、パースの方が思弁的であるのに対して、ジェイムズの方が行動的であると言い切れます。(但しそれはあえて二人を区別しようとした時の便宜的な言葉遣いとしてですが。)それで、ジェイムズも、パースに倣って、出発点としてのプラグマティズムを「それなくしては、いつ果てるとも知らない形而上学的論争を解決するための一つの方法である」としたのですが、この言い方の中に、すでにパースと違って、単に概念を明晰にすることだけが狙いであったと言うよりも、その概念を使う人間のパーソナルな行為を重視するジェイムズの思いが感じとれます。
 そのために、ジェイムズは、どんなものであれ、本来道具である概念をより働かせるための、あるいはそれを人間が使う場合には、それから構成される理論を互いに円滑に働かせようとする調停的な思考方法としてプラグマティズムを提唱しているようです。ここに「概念を明晰にするための論理的プラグマティズム」から「概念を働かせるための便宜的プラグマティズム」へのジェイムズ的転換がなされています。つまり、より一層に、行為する人間の思惑が浮き彫りにされてきています。そうなると、道具として働かせるものは、概念と言う限定されたものだけではなく、それに類するもの、即ちテオリアに関るものは、すべてプラグマティズムの方法論の洗礼を受けるものとして、ジェイムズには取り扱われます。その意味でジェイムズにとってプラグマティズムとは、もともとは「人間によって考えられたもの、即ちthought の取り扱い方」でありますが、更に拡げて「事物、即ちthing の取り扱い方」でもあるとされます。


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 つまり事物は、具体的事実として示される行為の違いとなって現れるのだと言う考え方のもとに、実際的結果はどうなのかと言う風にテストされて、それぞれ、人間の用に付されるとされるということ、ブラグマティズムはそのような考え方であると言えます。
 ご存じのように、ジェイムズは、この「事物の取り扱い方」であるプラグマティズムを「真理論」にまで発展させます。真理論と言いましても、真理が事物に先立ってあるかに想定される真理論としてではなく、プラグマティックな事物の取り扱いをすること、言い換えれば事物であれ、考えであれ、それらが単に「在る」だけではなく、「働いている」状態のものとして見いだすこと、それが、真理と言われているものを発生させているのだとする考え方です。言い換えればその「働かせる」力こそ私達の生活に効用性をもたらしているものなのだから、それに応じて、それは真理と言われるものになると言う考え方です。その時には、「導かれて行く価値のある方向へわれわれを導いて行くという」プロセスが生じていると彼は言います。「真理」とはまさにそのプロセスの中から作られるのであり、そういうプロセスにあって、その真理を手掛かりにして、ある目的に達せんとしてわれわれが努力すること、それが「行為」を意味しているのだと言ってよいかと思います。
 ここで、私は初めて「行為」そのものについてのジェイムズの考えを紹介したいと思います。彼も又行為を指し示す言葉としてActionとかConduct とかを使いますが、行為そのものを意味する言葉として彼にとっての重要な言葉は、activityと言う言葉だと私は思います。日本のプラグマティストは「活動」とか「活動性」とかに訳しているケースが比較的多いのですが、このactivityという言葉は、ある意味では、つまり機能主義者でもあるプラグマティストにとっては、的を射た行為概念かもしれません。何故ならばこの言葉は、初めに申しましたように「思索する」ことも行為の一機能であるとする考え方を鮮明にしている言葉だからです。
 そして先程私は、プラグマティズムは「在る」ということは「働いている」こととして見る態度だと言いましたが、厳密にいえば、それは存在に対する一つの見方を述べたのではなく、存在の事実をそのまま伝えれば、そうなっているということなのです。特にそれは考えあるいはもっと一般に人間存在を考えて見ればよく分かります。経験的世界においては、人が存在するということは「活動する」つまり行為するということと同じだということがよく認識されます。私達はすべて経験する人としてある訳ですから、私達は活動的、つまり行為的であるから「在る」ということの説明ができるのだと思います。まさに「われ行為する、故にわれ在り」なのです。このことはプラグマティズムの立場だからこそ言えるのだと思います。


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 ジェイムズは次のように言っています。「私達は何事かが進行しているのが見られるところならどこにでも、活動があると認めたくなるのは明らかである。最も広い意味で、何かが行なわれていると言うことの了解は、すべて活動の経験なのである。」それ故に、私達自身の活動の感じは、単に在ると言う感じではなく、まさに生きて在る又は行為しつつあると言う感じで受けとられるのです。
 そしてこの生きて在る又は行為しつつ在るとは、人間の場合は当然いろんな価値を具現することでありますので、人間における活動とは、それを具現するいろんな身体上の変化となって起こってきます。例えば「頑張ったり、我慢したり、奮闘したり、努力を実際に払って見たり、固執したり、最後には自分達の意図を達成したり」する形で現れますが、こうした営み以外に私達は人間における活動、即ち行為の真の姿を見ることができないと素朴に考えること、これがプラグマティズム、少なくともジェイムズのプラグマティズムの語り得る「行為論」なのであります。
 その際、注意して頂きたいのは、行為がただ単に「動き」としてしか見られていないと言うことは人間の行為の場合は決してありえないということです。人間の行為の中に様々な人間の思い、それはまさにテオリアに関っているものでありますが、行為と同じ実在的性格をもつものとして含まれており、それが行為となって具現されていると考えられるべきなのです。
 一般的にプラグマティズムは、思考も行為の一つだと言っていると言われていますが、ジェイムズ的な解釈をすれば、思考=行為なのではなく、思考も行為も人間の経験的な営みに抱摂された中でのある働きを示す一部分でしかありません。そこでは行為は善を獲得しようとする明白な生の営みとして、思考はその実現のための表には現れないが行為へと繋ぐ媒介的役割を果す生の営みとして位置するものなのです。従って思考は、それが独自に注目されない時は、行為全体の辺縁部分に位置している活動として捉えられていると考えてもよいかと思います。
 ここから、私はジェイムズのプラグマティズムの考え方の中には、そう言った考え方を導出する「実在性」に対するある見方が隠されていると思います。ジェイムズの言葉の中に、「われ考える」と言うことは「われ呼吸する」と言うことと同じだと言う言葉があります。これは誤解されやすい響きの言葉ですが、私自身の勝手な解釈としては、ジェイムズのプラグマティズムの最終的な狙いは、その「われ呼吸する」と言う生理的身体的反応のその営みの中に、「われ考える」という営みのその中身を読みとるように示唆しているように思われます。


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 これを敷衍して考えてみますと、「われ考える」と言う営みと「われ呼吸する」営みは、カテゴリーの全く異なるそれなのだと一方的に言っていなく、少なくともお互い他のことを無視しては起こりえない出来事だと言っているように見えるところが、ジェイムズらしいのです。他の例では「われわれは悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」と言う有名な彼の情緒説がありますが、これも同系列にある考え方だと私は思います。
 もっと膨らませ且つ一般的に言えば、行為の中にも思考の働きがありありと窺えると言うことであり、たとえそれが、身体的反応や、感覚的作用や情緒的動きであったとしても、思惟固有の働きのようなものが、それらの中に含まれていると言えるのではないかということです。つまり、例えば感覚も単に受動的に作用していると見られるべきではなく、能動的に思惟している、例えば、関係づけを行なったりなどのThinkingをしていると見られるべきではないかということです。
 私がウェーバーの言葉を借りて冒頭に申しましたように、主観的な意味を含ませているのが行為というならば、感覚的な作用も、従って身体的反応や情緒的動きも、それ自体において、主観的な意味をもちうる行為の一つ、あるいはそうでなければ、何らかの意味を、それら自身が訴えていると考えるべき活動の一つであると言えないかどうかと言うことです。それを認めるかどうか、あるいはそれが正しいと判断するかどうかは、まさにジェイムズの言うように、人間の「気質」の問題に帰着することでもあり、また「行為の問題」という本シンポジウムのテーマからも外れていそうなので、この問題はジェイムズから導かれた私だけの仮説とさせて頂くと言うことで、今回の発表を終わらせて頂きます。


注:この作品は、以前、関西倫理学会のシンポジウムで発表したものをメモをもとに文章化したものです。


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