フッサールの
「自由の主体としての人間」について



 本発表は、時間が限られておりますので、フッサール現象学のきわめて限定された部分、即ち、一般に『危機』書といわれる『ヨーロッパの学問の危機と超越論的現象学』の前半部分において展開された主張をもとに、その彼の問題意識といったものが何であり、その狙いがどこにあるのかに焦点を定めて、一つの仮説を展開してみたいと思います。本発表者である私は、フッサール現象学については全くと言っていいほど初学者であり、従って、この書の地平部分を形成する諸主張、とりわけ彼の認識論を十分に理解していないのですが、それ故にこそ、素人的特権でもって、本発表では、社会思想史的に見る本発表者の習性に従って、あえてフッサールを「社会イデオローグ」として見、その彼の考え方をスケッチ的に語ることになるかと思います。
 即ち、ここで私があえて注目したいフッサールの概念とは、『危機』書において彼が定義した「自由の主体としての人間」であります。私はこの概念に対して焦点をあて、それに私なりの特別の意味をもたせ、それに基づく人間観は、彼がいかなる現象学的諸主張を展開するに際しても、たえずその地平部分としてあったし、それどころか、この人間観そのものがフッサール現象学を生みだす地盤そのものであったと、私は考えてみたいわけであります。
 そこからフッサールのすべての思想が、ルネッサンスよりはじまる近代的人間が中世的先入観を排して自らの存在基盤を求めて訴えたところの「自由人」のイメージを彼の言う「自由の主体としての人間」として再確認せんものと目論まれていたと受けとられますし、又われわれ近代人にとっていつのまにか自明とされてしまったこの「自由人」としての人間観を自己省察を通じて真に意味あらしめようとしていると考えてみたいのであります。そしてこの彼の再確認が、図らずも、いわゆる近代哲学及びその根底にあるデカルト以来の二元論的思考方法に疑念を抱く人達の意向と基を一にすることになり、フッサール現象学はその二元論的思考方法の超克のかなたに真に「自由人」の再生を意図する哲学的潮流の一つとなったと見るのは間違いのないことだと思います。
 ところで、この「自由の主体としての人間」なる概念は、フッサールにあってはどのようなイメージでもって具体的に展開されていたのでありましょうか。『危機』書の冒頭部分にあたる第二節で、彼は次のように定義しています。即ち「人間的な環境や人間外の環境への関係において、自由に決定をする人間、自分や自分の環境を理性的に形成する諸可能性においては自由な人間」であると言っています。この定義は少なくとも言葉づらからとらえますと、斬新なものではなく、むしろ常套的な考え方に属すると言えますが、フッサールにしてみれば違った意味で重要な意味を与えられていたと考えられます。というのは、ここで言われている自由とは他の近代人にとっては欲望を充足するための自由あるいは自然を支配するための自由であったのに対し、フッサールにとってはそう言ったことをなす己れ自身の固有性をあきらかにするための自由であったからであります。
 もともとフッサールはそれまで「人間とは何か」の問い、いいかえれば人間学を哲学の主要なテーマにしてこなかったので、この「自由の主体としての人間」なる言いまわし方も、私の知る限りでは、『危機』書においてなされているのであり、そして少なくとも『危機』書において意味深い言いまわし方として使われているにすぎません。それはあきらかに徹底した思索の人であったフッサールもまた、せまりくる自分の現実的生の不安を感じるようになった晩年において、ようやく、人間的現存在が即ち単に物理的客体的存在ではない人間が、だからといって唯我独尊的な自我に基づいて生を営むのではなく、まさに「一つの共同体の地平の中で共同に生きる」存在であり、そしてその歴史的継続性の中で文化的活動を行っているのだと認識するようになった一つのあらわれであると思います。
 とはいえフッサールが彼にとっては偶然的にも周辺世界から触発されたとはいえ、ついには「人間的現存の全体が意味あるのか、それとも意味ないのか」なる問いを打ちたてるようになり、それによって「自由の主体としての人間」のイメージを再構築しようとしたことは、彼の哲学が彼なりの(それこそ超越論的といってもよいのかもしれませんが)人間学へと発展しうる可能性を示唆しているとも言えましょう。もっとも、彼の人間学は合理主義者特有の楽観主義に支配されています。即ち当時、彼に見えた人間の生活的危機とは人間的生そのものの危機であったというよりも、人間的生にともなう世界観の危機、彼のコンテキストに従えば、学問の、とりわけ哲学の危機であるとして受けとられています。フッサールにとって人間的存在ははじめから理性的動物としてあり、従って本来的には常に「自由の主体としての人間」存在としてあったということについては元から疑っていなかったと思います。従ってまた、人間は与えられたものであれ、自ら形成するものであれ、いかなる環境への関係においても自由に関わりうる存在、即ち「なすことのできる存在」として信じられていたのであります。先程も述べた如く、そう言った「自由の主体としての人間」のとらえ方自身、近代のオーソドックスな考え方を受け継いでいるわけですが、それはともかく、そこから人間的生の有意味性はそう言った本来的に「自由の主体としての人間」をたえず目ざめた状態にしておく、あるいは自己啓発を続けていく状態にしておくことにあるのだとする一種の啓蒙主義が、彼の心にあったと言えましょう。
 それ故に、当面の人間的生活の危機に出会う状況の中で、フッサールに直接的な形で芽ばえたのは、人間的生への意志あるいは努力が一時的に失われ、「自由の主体としての人間」の存在性が忘却の状態あるいは隠された状態になってしまったとする人間存在に対する現状認識であったと思われます。
 整理すれば、この現状認識は『危機』書及びその前の『ウィーン講演』において具体的に次のような二つの認識となってあらわれているのは周知の事実となっております。
 一つは、今日の人間的生活の危機、いいかえれば文化の危機は、人間と世界とを考察すべき諸学問に問題があったから生じたという認識であります。この認識は次の認識に繋がっています。即ちそれら学問が物理学的客観主義に災いされ、「事実学」としての科学になってしまった、そして諸学の学たる哲学こそ。その物理学的客観主義に対抗すべきなのに、それに加担してしまったという認識にであります。
 二つは、しかしフッサールは哲学者としてはそれを哲学の破産とは考えたくなかったのであり、学問としての哲学に徹底さ、厳密さが欠けていたことにその危機の源泉を見ようとし、逆に事象をとらえるにあたっては厳密な哲学、自己を反省するにおいては徹底した哲学を浮きぼりにすることで、哲学の危機のみならず学問の危機、即ち人間と世界の危機から救う手がかりを得、現象学がその最後の仕上げをするという認識であります。(さしずめ、これは今日の現象学者達には常識となっている認識だと思われます。)
 ところでこれらの認識もまた、合理主義的楽観主義的な精神から生まれてきているのであります。というのは彼にとっての「危機意識」は合理主義的思考の破綻形態として哲学的にあきらかにされうるものとしてすでに位置づけられていたのであり、その危機の状態が発生論的に解明されるというその過程を踏み、その始源を解明することでその危機の現実的な消滅を信じていたと受けとられるからであります。 それ故に何よりもフッサールにとって倫理的に重要な人間的態度とは、われわれ理性的存在者が本来的にもっている理性の精神を、従って哲学の精神ということになりますが、それを怠惰なもしくは倦怠したものにすることではなく、自己形成に向けて自由に態度変更をなしうる目ざめた状態にしておくという、言わば「理性のヒロイズム」を堅持することであったし、そのことを通じて危機の理解、従って危機の消滅が可能であると認識したのであります。
 フッサールがこのような高踏的な発言をする根拠はどこにあったのでしょうか。逸脱する合理主義に対して、「真の合理主義」を真の学問として打ちたてることを絶えず希求してやまなかったフッサールではありましたが、この時の彼は理性を自我の側からみて一つの能力として、即ちあのギリシャにおける理性的人間の課題であった「己れ自身を知る」能力として、あらたな思いで復権させる意向をことのほか強くもっていたからではないでしょうか。いいかえれば理性とは「精神の真に普遍的で真に根源的な自己理解」をする、あるいは了解するラチオとしての能力として彼は再確認したかったと思います。これは「己れ自身を知る」をいうことがルネッサンス期よりの「自由人」が考えているような、己れの欲望を充足するために「自己を客観的なものとして知る」ということでは断じてないとする彼の確信に基づいていたことはあきらかであります。
 そうなると、フッサールが「根源的な自己」を理解する理性に一体いかなる働きを求めていたかがあきらかにされねばならなくなります。最初、フッサールはあらゆる存在(それは事物、価値、目的といった存在のすべてを指しますが)に意味を与えるという作用、いわゆる「意味賦与作用」を理性の働きの中心的なものにすえることで「己れ自身を知る」その知り方を求めようとしたと思われます。
 勿論、この考え方は例の有名なエポケーとそれに基づく現象学的還元の方法によって導出されてきているので、存在そのものは中和化されて、「現象」というものに変様されているわけでありますが、同時にその存在は「存在すると思念されている限りでの存在」にされてしまい、そうなると「意味賦与作用」は唯我独尊的な理性の独善的構成作用となりかねなくなります。だがそれでは理性の作用の能動性について語ることになったとしても、直接に人間的生の有意味性を語ったことにはならない。そう認識したフッサールが、自己省察し自己了解する理性観を特に意識しだしたとき、すでにそこには、その理性をもつ人間的生が、従って認識的生が一種の受動性にさらされているという情態性を洞察していたと思われます。そういう事実にもかかわらず、フッサールにあっては、究極的には、人間的生は自らが自らに対して意味を与えているが故にその存在の意味があるということをあきらかにしたかったのであり、そのような人間的生を理解することが理性の課題であり、理性の責務であると言いたかったと思います。それ故に現象学的還元によって、理性が唯我の働きとして意味を賦与するのではなく、従って同時にノエマとしての対象が構成されてくるのではなく、人間的生の受動性を能動性としてとらえなおすことによってその生の有意味性を見ようとしたのであります。言葉のもてあそびと言われかねませんが、そうなると意味賦与もまた、受動性そのものを能動性として解釈しなおす、あるいはダブらせることであるとしてフッサールによってとらえなおされていたと思います。
 さて話を戻すに、これらの理性観からも、少なくともフッサールの「自由観」が垣間見られると思います。彼自身が人間的生に関する「自由」について下した唯一の定義は次の如くであります。即ち「個としての存在であれ普遍的な存在であれ、そう言った人間としての存在に理性的意味を与えうる人間の可能性のこと」、それが自由の意味するところのものであったと思われます。このとき理性的意味とは、先程述べた如く、根源的な自己理解あるいは自己了解の能力として、理性が人間的生の受動的能動性あるいは受容的自発性に有意味性を見いだすこととして受けとりますと、この自由観はより具体的なものになると思われます。従って「自由の主体としての人間」とは、そう言った可能性にあることを常に現実のものとしてたぐりよせていける人間の意であり、いつでも「己れ自身を知りうる」ために自らの意識の変更(Variation)ないしは変様(Modification)を通じてやむことなく自己省察をつづける存在であったのであります。
 フッサールが「超越論的(transzendental)」なる言葉の意味を拡大させ、『危機』書の中でそれを次のように、即ち「すべての認識構成の究極の源泉に向かって問い戻そうとするための動機、己れ自身と己れの認識する生について認識するものが己れ自身を考えてみようとする動機」として用いていると述べているあの有名なくだりを思いおこすとき、彼の現象学の「キイワード」でもある「超越論的主観性」とは、まさに「自由の主体」としてある様を認識論的見地から述べたものであると考えられます。
 従って人間的生を考えてみた場合、「超越論的である」ということと「自由である」ということとを一種の同義語と見ることができます。即ち超越論的な状態でいる存在者が共同体の地平の中にいる人間存在である場合に、その人間存在が自己啓発に向かう状態にあることを指して「自由である」と言いえるわけです。
 ところで、ここで注意されねばならないのは、現存在としての「自由の主体としての人間」が、いいかえれば現実的生を営む近代的人間が自由を人間的生の能力性(Vermoglichkeit)と見ているよりも、人間的生の目的として位置づけようとしているという点かもしれません。それ故にそのように考えられること自体が、フッサールにあっては現実的な人間存在が無責任にもすでに自由の主体ではありえなくなってしまっているとする危機意識が存していたことの証左となっているように思われます。自由の主体ではないということ、いいかえれば己れ自身を知りそれを了解する能力性を喪失してしまったと見るフッサールの根拠は、再三再四述べますように、近代の人間が、物理学的客観主義の様々な形態での歴史的優位性によって、それらがもたらす世界を客観的にして現実的に真なる世界と思いこむようになり、それと同時に己れ自身をも客体的なものとしてしか知りえなくなってしまったとするそう言った事態を本来的な人間的生における逸脱として判断する彼の倫理観にあったのはあきらかであります。そしてそれ故に、フッサールの「自由」観について語るとき、自由と自己責任と自律なる三つの概念をセットにして考えねばならないという事態がここからも呑みこめるのであります。
 他方、前にも述べました如く、人間存在におけるこの不幸な事態はあくまでも人間的生における単なる逸脱でしかなく、彼の別の言葉で言えば、超越論的主観性が理性の怠惰によって隠されている、ないしは自己忘却の状態にさらされているにすぎないとする認識はフッサールにあってはくずれてはいません。それ故に超越論的主観性をあらわにすること、超越論的主観性の側から言えば、自ら「目ざめること」が、「自由の主体としての人間」が本来の姿にたち戻る前段階の人間的行為として認識されたと思います。(ついでながら、この「目ざめること」もまた、フッサールにあっては受動性を能動性とする一形態であると見られていたと思います。)
 それはともかく、そのためにも彼の言う、「現象学的還元」ないしは「エポケー」が、いわば一種の偶像となっていた物理学的客観主義を破壊するための、別の言葉でいえば、客観的諸学からの自由性を確保するための手段として登場してきたと思います。しかしながら、現象学的還元が単に「自由の主体としての人間」に還帰するための、それこそ一回きりの手段としてとられる態度変更としてあるのではなく、人間的生においては、流動する地平性としての「世界」の中で止むことなき意志の行為として遂行され続けているとして意識されたとき、まさに、その現象学的還元を遂行しえるということ自体が、人間存在を超越論的生としてその根源へと向かって理解しようとする過程の一つ、いいかえれば自我の側の自由なる変更において無限の地平性を見いだし、それに触れていく「自由の主体としての人間」の自己実現への過程であるとフッサールによって認識されたのは確かであると思います。このことが、フッサールの言葉で言えば、「超越論的主観性」が自らをあらわしたということになるのであります。
 そのことでもって、われわれは現象的還元とは何であったのかと吟味せねばならなくなります。その意味から、現象的還元によって浮き彫りにされる超越的主観性をはじめ、事象そのもの、とりわけ『危機』書における中心概念である生活世界といったフッサール現象学の重要な概念までも明らかにせねばなりませんが、冒頭にも述べました如く、本発表は彼の哲学の狙いがどうなのかについて焦点を合わせていますので、僭越ながら、そして私の力量不足と言うこともあり、今後の私の研究課題とさせていただくと言うことで、省かせていただきます。
 ただ、フッサールについてのこれまでのわずかな研究から、印象的に感じましたのは、フッサールといえども彼なりに「実在とは何か」と言うことを考えていたと言うことであります。彼の現象的還元という方法、あるいは現象的還元という人間の自由の行為といってもよいかもしれませんが、それは存在すると言うことをわれわれの前に現れると言うこととして位置づけるようにわれわれを方向づけています。それは、存在するものとはわれわれとの関わりがどうであろうと、単に一方的に存在しているのだとして認められているのではなく、それの持つ地平性を媒介にして、自由の主体としての人間のわれわれによって意思され要求されてあるのだするよう導いています。その意味では実在とは、まさにわれわれに欲求されてある意志の対象であったわけであります。尤も、その観点からしますと、フッサールにおいても、存在するものが存在すると思われているものだとされる傾向性は避けられませんが、私はこの際、それを存在の側から言って、存在するものはわれわれにとって偶然的なものでしかないという風な意味で受け取りたいし、独善ですが、それがフッサールの現代的意義を見る一つの見方だと思います。
 即ちあらゆる存在するものを可能性の世界に引き戻し、従ってわれわれの経験の領域に取り込み、自らも乗り越え、自己実現を図る自由の主体としての人間のみが、それらを可能性の一つとして、実在化しうると言う、そう言った人間的生をフッサールは考えていたのではないでしょうか。その意味では、われわれにとって存在する一切のものは日常性の中では慣れ親しんでいるように見えるが故に、かえってよそよそしい存在として受け止められますが、それを根底的なところでは、内的な(intimate)存在性としてあるという事実性をフッサールは洞察していたのではないでしょうか。フッサールはこの事実性を認めたが故に、それを理解することが自由の主体としての人間の根源的生の常態性であり、そのことを基礎づけるのが哲学者の「人類の公僕」としての任務であると考えていたのではないでしょうか。



お断り
 本ページは、1983年度関西倫理学会にて口頭発表したものを文章化したものである。尚、これをもとに論文化したものは、拙著『ジェイムズ経験論の周辺』(法律文化社、1986年刊、2300円)、第1部、第2章、第2節で「自由の主体としての人間」のタイトルのもとに収められている。同書には、下記に示す如く、フッサールに関する他の論評や、ジェイムズに関わる人物についての論評が収められているので、興味のある方はご一読下さい。(発信者)

序言
第一部 ジェイムズとフッサール
第一章 ジェイムズ経験論の一考察
   T ジェイムズ経験論と現象学
   U ジェイムズの実在観
   V ジェイムズの認識論の要石としての辺縁理論
   W 辺縁理論のもたらすもの
   X 「it thinks」の世界と「it is there」の世界
第二章 フッサール現象学の一考察
   T フッサールの危機意識
   U 自由の主体としての人間
   V 事象そのものに準拠することのもつ意味
   W 生活世界から導きだされるもの
   X 結語
第三章 ジェイムズとフッサール
   T 二人の哲学的スローガン
   U 真の「合理主義」と真の「経験主義」
   V 「始源的なもの」を求めるフッサールとジェイムズ
   W 「現象学的還元」と「プラグマティックな方法」
   X 結語

第二部 ジェイムズ経験論の周辺
第四章 ジェイムズによるヒュームの「印象」説批判
   T 序説
   U ヒュームの「印象」現出の条件
   V 抽象論としてのヒュームの「印象」説
   W ヒュームの概念主義者的思考態度
   X ヒュームのジレンマ
   Y ジェイムズの立場
第五章 ジェイムズのヘーゲル観
   T 主知主義のチャンピオン「ヘーゲル」
   U ヘーゲル批判のための11のテーゼ
   V 天才ヘーゲルの「まがった好み」
   W 二重否定の考え方に基づくヘーゲルの弁証法
   X 「あるべきである」気質に支配されたヘーゲル
第六章 ベルクソンへの共鳴
   T 序説
   U 一経験論者と一形而上学者の性格
   V 二人の考え方における若干の違い
第七章 ジェイムズと西田幾多郎
   T 序説
   U 「生の研究者」としてのジェイムズと西田
   V 二人の「純経験論」説をめぐって(1)
   V 二人の「純経験論」説をめぐって(2)
第八章 心霊研究家としてのジェイムズ
   T 心霊現象を巡る諸情勢
   U 科学の重要な部分としての心霊研究
   V 死後の世界を信じたジェイムズ
   W 人間の不滅性に関するジェイムズの証明方法
   X 心霊現象の実在性
   Y 結語
あとがき
索引

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