ウィリアム・ジェイムズ著
『プラグマティズム』について
プラグマティズムを理解するための恰好の入門書
ジェイムズの著作活動期は三つある。初めの心理学時代には『心理学原理』、次の宗教・倫理学時代には『宗教的経験の諸相』が著名であるが、『プラグマティズム』は、その後の哲学時代に発表したいくつかの著作のうちで最もポピュラーな作品であり、したがって彼の代表的著作であるとされている。
この著は、ジェイムズ自身の認識によれば、いわゆるプラグマティックな運動が「多くの国において、また多くの相異なる見地から起こったがために、歩調の合わない言説が多くあらわれた」ので、「自分自身の眼に映ずるままにその映像を統一しようと試みた」結果、一九○六〜○七年にかけて講演され、刊行された。
哲学のアマチュアにも分かるような日常的用語を使い、時には商業用語を織りまぜたり、文学者の作品や思想家のエッセイやエピソードをふんだんに取り入れたりするジェイムズ独特の表現方法によって、この著は一般大衆にもプラグマティズムを普及させるに大いに貢献し、またその内容が当時のアメリカ人の考え方を代弁していたというので、プラグマティズムをアメリカ固有の哲学であるとまで認めさせるにいたった。
タイトルが示すごとく、この著はプラグマティズムを理解する上に恰好の入門書ではあるが、そこではあくまでもジェイムズの「プラグマティズム」観が展開されていると見なければならない。その点、同じプラグマティズムといっても、パースの場合は「プラグマティシズム」、デューイの場合は「道具主義」、シラーの場合は「ヒューマニズム」といった別名を持っているごとく、ジェームズの場合は、例えば「認識論的実在論」あるいは「実際主義的真理論」といってもよいだろう。
それぞれの学説を互いに円滑に働かせようとする調停的な思考法
この著は以下の八つのテーマによって構成されている。
第一講「哲学におけるこんにちのディレンマ」
第二講「プラグマティズムの意味」
第三講「若干の形而上学的問題のプラグマティズム的考察」
第四講「一と多」
第五講「プラグマティズムと常識」
第六講「プラグマティズムの真理観」
第七講「プラグマティズムと人本主義」
第八講「プラグマティズムと宗教」
これらのテーマを概観していうと、ジェイムズのプラグマティズムは二つの特徴を持っている。一つは、思考の一方法としてのプラグマティズムである。
これは「すべてわれわれの思想の差異なるものは、どれほど微妙なものであっても、根底においては、実際上の違いとなってあらわれないほど微妙なものは一つもない」という考え方を基調としている。そこでは常に「実際的結果」はどうなのかという観点から事物を取り扱っていこうとする態度が堅持されている。
プラグマティズムがギリシア語の「行動」を意味するプラグマから来ているゆえんもここにある。この言葉を初めて使ったのはパースであったが、彼の場合はただ単に「いかにしてわれわれの観念を明晰にすべきか」に観点がおかれていたが、ジェイムズの場合は、さらに拡大解釈され、例えば世界は一か多かといった「形而上学的論争を解決する一つの方法」としてもとらえられた。
したがって、プラグマティズムとは「あらゆる学説の角ばったところを取り除き、それをしなやかなものに矯め直して、それぞれの学説を互いに円滑に働かせようとする」「調停的な思考法」でもあった。
パーソナルな存在としての人間の意志、要求、信念の働きを
ジェイムズは重視した
そこからジェイムズ自身のプラグマティズムは、二つめの特徴として「プラグマティズムによる認識論」に基づくところの、一種の「真理論」を展開するのである。
ただしこの「真理論」は、「人間的要素」とは無関係に存在する真理についての考え方ではなく、われわれによって「真理と言われるものの発生的理論」である。この場合でも、彼の方法としてのプラグマティズム観にあるのと同様の視点、すなわち学説や思想それ自身をではなく、それらを持つパーソナルな存在としての人間の意志、欲求、信念の働きを重視しようとする彼の主意主義的態度がよくあらわれている。
一般に「プラグマティズム的真理観」は「有用であるから真理である」とか「真理であるから有用である」とかの謂で受けとられやすいが、彼にとっては「有用とは、その観念が経験のうちで真理化の作用を完成したことを表す名」を示すにすぎない。
「真理は観念に起こってくるのである。それは真となるのである。出来事によって真となされるのである。真理の真理性は、事実において、ひとつの出来事、ひとつの過程たるにある、すなわち真理が自己みずからを真理となして行く過程、真理の真理化の過程たるにある。」
この彼の定義から、真理とは、経験するわれわれの心の状態のそれとして「導かれて行く価値のある方向へわれわれを導いて行くというこの機能」を言っていることにもなる。それゆえ、それはわれわれの経験的生によって「以前の真理に接木され、これを修正してゆく」ものであり「つねに心の変遷過程の媒介者、調停者」なのである。
ジェイムズは、主知主義の枷から解放された哲学の到来を信じた
俗にプラグマティズムは「実用主義」とも訳され、「目先の実際的前景にのみ眼をつける」理論嫌いの人間にふさわしい考え方とされているが、ジェイムズにあっては、この「実際的」とは「具体的」「個別的」「特殊的」を意味するのであり、理論そのものを否定するためではなく、本来道具であるにすぎない理論を現実的に働かせようとするための哲学的意味をもつ言葉なのである。
以上の諸点から、プラグマティズムは技術主義的、主観主義的であるといえるが、それはあくまでも主知主義的な見方からである。彼のプラグマティズムは「具体的事実のこの世界において」はそのような「固定した原理」「教説」として機能してはいないのである。強いていえば、それは「二つの教説の扉が面して開いているホテルの廊下」のようなものである。そこでは「多元論的一元論」や「自由意志的決定論」は可能であり、その意味では常識と形而上学、科学と宗教もまた結びつきうるのである。これらはすべて、哲学とは本来「人間の内的性格の表現」であるとし、「哲学者の傾向を定める」のは彼の「気質」であると見るジェイムズの哲学観に基づいている。
ジェイムズは主知主義の枷から解放された哲学の到来を信じた。彼の『プラグマティズム』はそれを彼なりに示唆しようとした一作品であった。
(初出は『世界の名著早わかり事典』(主婦と生活社)、引用文は岩波文庫版での桝田啓三郎訳)
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