ヒュームの理性観『動物の理性について』を巡って


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 この小論は、デビッド・ヒュームの主著とされる『人性論』の第一巻『悟性論』の第3部『知識と蓋然性』の最終章である『動物の理性について』について、正攻法から論じたものではなく、いわば、それをめぐっての私の感想といった形で述べたものである。
 この中で、特に私が注目したのは、「野獣も人間同様の思考と理性が授けられている」といっているくだりである。ヒュームがそのように明言し得るのは、彼にとって理性が実在に内在する客観的原理であると考えられているからではなく、精神の単なる主観的機能であると考えられているからであると私は思っている。以下それについて敷衍しよう。
 ヒュームのこのテーゼはすべての合理論者の理性観は勿論のこと、理性の所有によって人間のみの尊厳性を強調しようとする権威主義者の理性観に対しても懐疑をはさんでいる証左となるのではないだろうか。というのは、ヒュームにとれば、理性とは実に「われわれの精神の中の驚くべき、理解しがたい本能にすぎな」かったからである。このヒュームの理性と本能との同一視を述べるくだりは、図らずも、われわれに「理性とは何か」の論議に向かわせる機会を提供してくれているように思われる。
 ヒュームのこの主張の根拠は、理性と本能とが共に自然的存在であり、同一の自然的機能を果たしているとする考え方にあるようだ。この考え方に立てば、われわれは動物の本能による行為がわれわれ人間のそれとは全く異質の驚くべきそれとして受けとるのではなく、ごく当たり前の自然的現象であると受けとるように促される。また理性を自然の制約を離れた独自の能力をもつ存在とする合理主義者の判断にも懐疑の目を向けるようにもしむけられるのである。
 もとよりヒュームはこういった考え方を経験的事実の観察的態度、すなわち事実を事実としてみる立場から導きだしている。私の考えによれば、そこからヒュームは二つの判断を行っているように思われる。一つは「一連の諸観念にそってわれわれを動かし、その諸観念の特殊な状況と関係に応じて諸観念に特殊な性質を授ける」ことを人間的本能の一つの役割なのだとしていること、他の一つは動物にも判断が存在し、従ってその判断の素材ともいうべき印象(観念)も存在していることを認めていることである。
 この二つの前提的判断から、合理論的哲学者の如く「単なる動物の能力を凌駕する……ような思考の精緻と洗練さを仮定する」偏見さえ持たない限りは、人間と動物両者の心的活動における作用の類似性(というよりは同一性)が認められてくる、すなわち動物にも理性(つまりは本能)があると、ヒュームは考えていたことがわかる。
 ところでわれわれは人間と動物との心的活動における同一視が経験論的立場と自然主義的立場にたって初めて可能である、と見てよいだろう。それ故に、ヒュームが自らの論拠を最終的に自然の事実の中から見いだすことで満足しているのは、自然の事実以上に崇高な普遍的原理を求める合理論的立場に対する懐疑的態度のあらわれであると同時に、一般に人間的活動の指導原理を単に理性に求める態度への警告であるとして受けとるべきであろう。
 奇妙なことに、この警告が生き生きとした重みをもってくるのは、一貫した彼の学問的姿勢の故にである。ヒュームにあっては、経験論的観察的立場からみて、一切の心的機能が自然の諸原理に従っているとみられる以上、人間の心的機能だけが他の動物のそれとは異なっているとする考え方は論理的一貫性を欠いていると思われたのであろう。従って理性といわれるものも単なる人性(human nature)の1つとして位置づけられるべきであり、しかも理性の働きが可感的対象に依存する以上、程度の差があったとしても、理性の機能とその働きの過程は当然動物にも存在すると考えられたのである。
 その意味でヒュームの「野獣も人間同様の思考と理性が授けられている」なるテーゼは、経験論的、自然主義的立場の人間が自らの論理的態度を忠実に維持するのなら、ためらうこともなる導出しなければならない一つの帰結であるともいわれるだろう。むしろ人間も動物も同じ自然的存在であるという事実に目をつぶっている態度の方がおかしいことになるのである。
 ところでこの論理的帰結をわれわれは消極的にしか受けいれられない面が存在している。具体的にいえば、それはヒュームの理性解釈の誤りが動物における理性の存在を強制的に認めさせたのであるという意識となってあらわれている。おそらくこの意識もまた、人間は動物とは違うのだとする先入観がわれわれの精神の中に根をはっている事実からきているのであろう。この事実に対して、自然の事実に対しては忠実になり、経験に徹するという立場から挑戦するヒュームの冒頭の主張は、理性に対する人間の一方的な考え方にに一つの楔をうちつけていると言ってもよいだろう。
 そこで、われわれはもう少しヒュームの考え方にたち入ってみようと思う。ヒュームは自然の事実をありのままにみる態度をとっている。この態度が観察的態度、つまりは科学的態度といわれるのは周知の事実である。そこから彼は人間と動物との行為の形態には、具体的な場では、大した違いはないとみてとった。
 実は、そのことが単なる自然的機能としての理性の観念づくりの一助になったとも言えるのである。従って、ヒュームにとれば、理性という名の超自然的機能の想定は、人間の独断であり、それ故に、現実には理性は人間的活動の普遍的指導原理などにはなり得ないと考えられたのである。
 この考え方もまた、逆に独断的のようにみえるが、自然をありのままに見るとはいかなるものなのかを吟味すれば、その論拠が明らかになるであろう。自然をありのままに見るとは、一言でいえば、自然的現象を心に感じとられるままに知覚するということである。従って、可感的対象がわれわれの唯一の思考対象となり、それを基にした経験を積み重ねることによって人を実践へと結びつける確信が得られるのであり、そこには理性は何の関与もしていないのである。それ故に、たとえば数学のエキスパートでも、自分の発見した真理を確信するのは、理性そのものによってではなく、経験の積み重ねによってであると思っている、とヒュームは言うのである。
 ヒュームはこの考え方を起点として、さらに人間における精神的実体の存在を否定し、せいぜい精神を「知覚の束」とし、流動的なものとして位置づけることが自然をありのままに見る態度を示すものである、と考えていたようでもある。もしわれわれが自然をありのままに見るという行為においてわれわれの精神の中に内在する実体的なものを認めていたり、またわれわれの精神がなんらかの想定を認識のための不可欠の条件として前提していたりすれば、それは自然をありのままに見るということから離れていると考えられたのである。
 ヒュームが動物にも理性の存在を認める唐突な言明を行ったことは、客観的原理としての理性の存在を否定する別の主張となっているばかりか、それにより、我々は図らずも自然をありのままに見るという観察的態度及びそれに立脚する経験論的立場のつきつめられた形を示されたといえよう。
 ヒュームにとって経験的事実の観察的態度とは決して可感的対象から内在的原理とか、ある種の抽象的概念(たとえば因果的必然性)の存在を認めたり、導出したりすることではなかったのである。このことは自然的対象をみる場合に言い得るばかりではなく、人間的対象をみる場合にも言い得る彼の確信であるといってよいだろう。ヒュームの立場から人間の精神の働きをよくみれば、一般に理性といわれるものは、ただ時間的空間的関係において可感的対象を比較し判断しているにすぎないのである。
 では、この比較、判断とはいかなる様相をおびているのか。ヒュームにとれば、もともと可感的対象が心に刻まれて現れた諸印象は、原子のように各々明確な独立した対象として存在している。従ってこれらの諸印象(諸観念)の比較、判断も内的関連性とか原理的基準に基づいてなされているのではないのである。
 比較、判断されていると考えられている諸対象、諸印象、諸観念は、それらの類似的、接近的状態の継続が精神に働いて、思考習慣として、あるいは慣習として関係づけられているにすぎないのであって、それ以外のいかなる考え方も成立しないのである。にも拘わらず、そういった作用がなされるのは、人間においてはすばらしい超自然的能力が実体的に内在しているからだという風に考えられてしまっているのである。だがその作用は決して人間に固有のものではないのである。動物の行為をみれば、すでにその作用がなされていると思われる諸現象が観察されていることから、ヒュームは冒頭のテーゼを掲げ得たのである。
 以上でわれわれはヒュームがなぜにこうもはっきりと言い得たのかを理解できるであろう。結局、ヒュームは人間の精神を存在論的にとらえないで機能的にとらえていたからなのである。そしてこの機能的立場こそ自然をありのままにとらえるという観察的態度の証左なのであり、またその立場に固執する限り、ヒュームの冒頭のテーゼも、誤りであるとは言い得ないのである。
 人間の精神において問題なのは、それが何であるかを解明することではなく、それがいかに働いているかを重視することであるという考え方が、ヒュームにあったようである。ヒュームが理性と本能とを同一視し得たのは、それらの働きの同一性(厳密に言うならば、類似的現象をもっていること)の故にであろう。またこの言い方が正しいのは、概念主義者の場合のように、理性と本能の規定が厳密であるからではなく(あるいは規定そのものが問題であるからではなく)、両本性をあくまでも自然的現象として機能するものとしてとらえようとしたからであろう。
 この観点にたってみた場合、ヒュームの「野獣も人間同様の思考と理性が授けられている」なるテーゼは、論理的には理性のもつ意味を拡大させることによって理性を動物にも適用させているかのようにみえるかもしれないが、現象的機能的には、理性とは動物の感官内で作用しているところの心的機能を意味する以外の何ものでもないのだという、むしろ自然における人間本性の現実のあり方を正直に伝えたものといえるだろう。
 その結果、確かに人間においては可感的対象の区別、比較、判断といった心的活動が理性(広くは知性)に基づいていると言えなくもないが、しかしそれは現象的には動物が行為に導いているプロセスとなんら変わらないものとして受けとられていると考えられるべきなのである。われわれは冒頭のヒュームの言葉からだけでも、ヒュームの考え方が独断主義者の考え方に鉄槌を打ちおろしているばかりではなく、自然に対する合理論者の傲れる姿勢にも反省を求めているのだということを察知できるのである。


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 さて、ヒュームの理性観はわれわれに何を教えているのであろうか。理性とは理論的にも崇高な普遍的原理となり得ないばかりか、実践的見地からでも、何ら人間の指導原理を提供し得ないということである。「道徳的区別は理性から導出されない」と彼は言う。彼の場合、人間に指導原理を提供するのは情念(Passion)なのである。そして彼の言う情念もまた人性の一つとしてあったのである。ヒュームにとれば、情念は理性や本能と同様に自然的機能なのであり、自然的現象の一つとしての実践形態をとっているのである。
 ただしかし、ヒュームが情念なる人間本性をもちだして、人間の能動的実践的性格を強調しようとしても、所詮は自然の事実に振りまわされるという受動的な人間存在のイメージを払拭しきれないかもしれない。それは、丁度精神の主観的機能としての理性が自然の事実をありのままに見るという態度のもとに、自らの内に能動的な何物も見いだせなくなってしまった場合と同様に、経験論者固有の躓きの石となっている。
 それ故に、ヒュームのテーゼもまた、これまで述べられてきたように、いろいろもってまわった弁明をしているが、結局は人間が動物同様の受身的な自然的存在であるということの告白ではないかと言われかねないだろう。この非難の背景には、前にも述べたように、理性解釈をめぐる論争において、理性を単なる精神の主観的機能にとどまらせたくないとする合理論者と、人間のみを至上の存在とみなすアンチ自然主義者の強力な援護があることは言うまでもないであろう。彼らにとってヒュームのテーゼを認めることは理性に対する冒涜であり、人間の堕落を認めること以外の何物でもなかったのである。
 もとより、この非難は立場の違いによって生まれてきているのであるから、われわれはそのすべてを認めるわけにはいかない。同様のことは、ヒュームのテーゼについても言えるであろう。
 ところでヒュームはなぜに『人性論』の中で『動物の理性について』なるセクションを設けたのだろうか。私はその意図を推測できるのではないかと思う。つまり「対象間のいかなる真の結合も知覚しない」動物においてすら、経験によって推論らしきものをしているということが観察によって察せられるのである。いわんや複雑な心的構造をもっている人間においてをや、というわけで、ヒュームは自分のうちだす人性論の正しさを強調したかったのである。そしてこのことは人性が自然の事実として説明せられることによって初めて許されることであったのである。
 勿論、われわれはこのセクションやそこにおける彼のテーゼのみから彼の思想の全体を云々することは危険であるから、慎重であらねばならない。それ故に、この小論における私の結論も、ヒューム批判という形ではなくて、彼のテーゼが、彼の意図とは別に、現代社会においても意外な役割を果たしていることを指摘するに留めたい。
 彼のテーゼ、すなわち「野獣も人間同様の思考と理性が授けられている」なる主張は、なるほど、合理論者や権威主義者にとれば、侮辱の響を与える以外の何物でもない。なぜならば、このテーゼを発展させれば、動物を人間の地位にひきあげるというよりは、人間も動物も自然の中では同じ存在形態をもち、自然的存在としては区別され得ないことを伝えることにより、人間を動物の地位にまでひき下げることを認めざるを得なくなるからである。
 しかしこのテーゼを立場や偏見をなくして理解しようとするならば、自然界において人間が絶対的地位に君臨する根拠はなにもないことを伝えているように思われる。のみならず、それは人間であることを自然的作用の基準に則って確証しようとしているとうかがえるだけに、謙虚な人間像をもわれわれに提供してくれているようにもみうけられる。(それと同時に果てしなき人間同士の葛藤劇を展開しなくてはならなくなるが。)それにより、このテーゼは人間が非人間的な(理性主義者が考えるのとは違った意味で)存在となる危険性に警告を発しているとみれないであろうか。
 いうまでもなく、その危険性とは現代社会にひそむ危険性のことであり、具体的には、われわれをして人性とは無関係な理性への盲目的追従へと導き、ただただデウス・エクス・マキナとしての理性の働きに驚嘆するだけの行為が、人間的存在形態の正当性の証しであると錯覚させ、最後には社会現象をもまた機械的現象と同一視する狭隘な認識論的立場をうちだして、社会現象から感じとる矛盾に対して人間が無感動になってしまう危険性を意味しているのである。
 なるほどわれわれにとって社会現象についての考慮は無視できない。とはいえ社会と人間との関係づけを考えるとき、人間の社会性に拘泥するよりも、社会現象に主体的に働きかける人間の自然性の方が重要なのである。もしわれわれがこの観点を忘れるならば、われわれは絶えず押しよせる、人性とは無関係の理性の暴虐にうちひしがれることになるであろう。
 そうなると、われわれはヒュームのこのテーゼのように人間の地位を自然的状態の中で相対化させるよりも、「人間も野獣になるべし」と念じ、ヒュームとは違った意味で「われわれの精神の中の驚くべき、理解しがたい本能」に頼らねばならなくなるであろう。実にヒュームの「野獣も人間同様の思考と理性が授けられている」というテーゼは、単なる表現上のおもしろさがあるといわれる以上に、「理性的存在者」たるわれわれに、いろいろな問題を投げかけていると言えないであろうか。

(この小論は『私学研修第87号』に掲載の私の報告『「デビッド・ヒューム」考』をもとに書き改められたものです。)

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