歴史独り言

◆ 邪馬台国九州説

私は九州説なので箸墓が卑弥呼の墓とは思っていないということで、ちょっと説明。

九州説というと「では畿内の古墳群をどう説明するのか」と問われるのですが、九州説だからと言って、古代の奈良大和地方に勢力を持つ集団がいなかったとは言いません。むしろ九州に匹敵する勢力集団があったと思っています。ただそれは魏志倭人伝に書かれている邪馬台国ではないと思います。

邪馬台国というのは単なる中国の史書に書かれている権力集団であって、当時の日本の情勢を正確に表しているとは思えません。考えてみてください。南北朝時代、後醍醐天皇の皇子・懐良親王は40年に渡って九州を治め、中国の皇帝(明の洪武帝)から「日本国王」の称号を貰っていました。また戦国時代の大内氏も「日本国王之印」を持って中国貿易を行っていました。それだからといって、当時の日本の権力中枢が懐良親王や大内氏だと考える人はいないでしょう。

14〜15世紀でも、それほど九州は遠いのです。3世紀に畿内の勢力が九州まで治めていたということは、とても考えられることではないでしょう。

倭人伝については、伊都国から先は伝聞によるもので信憑性は薄いと思います。邪馬台国までの行程で、対馬国→対馬、一支国→壱岐、末盧国→松浦半島、伊都国→糸島群は現在の地名に対応しているのに、そこから先はまったく一致しなくなるのは、謎というより伝聞による記述に変わったと考えた方が正当でしょう。(それでもなんとなく九州っぽい地名なんだよね)

邪馬台国の風俗習慣も南国っぽいし、邪馬台国ブランドにこだわって、無理やり奈良に持ってくる必要はないと思うんですよね。奈良には立派な古代史があるんだから。


◆ 待賢門院璋子

崇徳上皇の母・待賢門院璋子という人はたいへん興味深い人です。白河法王の養女で鳥羽天皇の皇后になったにもかかわらず、白河法王の子を産んでしまいます。白河法王と鳥羽天皇は祖父と孫という関係。生まれた子が、あの崇徳天皇。

白河法王は崇徳天皇を即位させる為に鳥羽天皇を強引に退位させるわけですが、この退位後がまたすごい。上皇となった鳥羽と璋子は1つの御殿で暮らし始めるのですが、そこに白河上皇まで同居してたんですね。

寝殿作りの寝殿に璋子、西の対に白河、東の対に鳥羽が暮らしていたと言われています。逆妻妾同居です。しかも3人は仲が良くて、特に鳥羽と璋子はLOVE×2。次々に子供が生まれます。その1人が後白河天皇になります。

しかし、白河上皇が亡くなるとこの関係も終わり、鳥羽上皇は17歳の美福門院得子という女性に夢中になります。この得子がなかなかの政治家で、鳥羽と璋子の間を裂き、崇徳と後白河を対立させ、時代は保元の乱へとなだれ込んでいきます。

待賢門院璋子は平安貴族文化の最期の大輪の花といえるでしょうね。京都の法金剛院は璋子が再興した寺院です。とても美しいお寺なので、機会があったら行ってみてくださいね。


 

 

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