ザッツ16 「ウインドウズXPとIT不況」 パソコンで何をするのか?ここに問題が 2001年8月1日

2001年の6月ごろからだろうか。新聞紙上には「ヤフー株下落」「IT産業にかげり」「デル・コンピュータ人員削減」「半導体も赤字」などの記事が目立ちはじめた。『パソコン業界の不況』の記事である。一方、マイクロソフト社は、2001年11月16日に、新たなOSである「ウインドウズXP(日本語版)」を発売することを発表した。新OS発売は、パソコン業界の不況克服のバネとなりうるかについては、識者の見解は、どうも2つに分かれているようである。僕は、パソコンの初心者の立場から、ここにひそんでいる盲点について述べてみたくなった。その盲点とは、「あなたは、買ったパソコンで何をしようとしているのですか?」という点である。この点が不明確である限り、パソコン業界の不況は、当分の間、続くのではないかと思う。そもそも、新OSの発売で「どこが、どう変る」のであろうか?パソコンの仕組みに一大変化があるのだろうか?

ところで僕は、このザッツ談の部屋の「ザッツ13」で「2001年度サポートランキング」について述べたことがある。パソコン・メーカーのサポート体制の優劣の記事の論評であったが、初心者の僕には、「アナログ的な電話」と「アナログ的なマニュアル」の2つこそが、初心者にとってはもっとも必要なサポートであることを強調している。また、ザッツ13で、パソコン業界のありかたについて、僕は次のように締めくくったので再度掲載したい。詳しくはその項をお読みいただきたい。

『メーカーが、「サポートに掛かる費用をパソコン価格に上乗せしている」ことが事実とするなら(おそらく事実だろう)、欠陥商品の苦情処理費を価格に含めていることになり、許されない犯罪ではないか」と思う。ましてや「特別な知識は必要だ」というなら、パソコンメーカー各社は、それなりの対策を講じる必要があるのではないのか。長い目でみれば、そのほうがパソコンの普及に貢献するし、また企業の評価もあがるのではないだろうか。各社の責任者は「顧客満足」を強調しているが、ここで言う「顧客」には、大勢の初心者がいることを忘れては困るのである』。

僕は、最近の「パソコン業界の不況」の根底には、ハード・メーカーとソフト・メーカーの「経営戦略」に問題があったのではないかと確信している。一言で言えば、顧客を忘れたのだと思う。ザッツ13の結論でも言ったが、「パソコンは欠陥商品(言葉を柔らかくすれば、未完成な道具といえよう)」であり、その上、パソコンを使うには「特別の知識が必要」というのであるから、良く考えれば、おかしな話ではないか。ウインドウズ95・98の発売の結果、パソコンは急激に普及したのは事実であった。「あなたも簡単にインターネットの世界に」。「撮って、すぐに見ることができるデジカメ。保存・加工も簡単」。「気軽にインターネットショッピングを利用しよう」。「手軽にカラー写真の年賀状をつくれる」。こんな風に『簡単』『気軽』がキーワードで、ブームを生み出し、パソコン業界の好況があったのも事実だ。アナログ世代の僕までが、このブームにのり、パソコン導入にふみきり、しかも初心者のくせに、生意気な口調で、ホームページを開設する冒険までしている、僕のような、困った白髪あたまのおじさんまでも出現してきたのである。しかし、どんなブームも長続きはしないものだ。

ところが、携帯電話に「iモード」が登場してからというもの、ちょっと状況が変ったのではないかと僕は感じていた。メールを送るだけなら、なにもパソコンは必要はない。携帯電話で充分。インターネット情報をみるのも、「iモード対応」のホームページが普及してきた。また、パソコンがない人にも、声を伝える機能はあるのだから、いよいよもって、「パソコンはいらない」と言っても過言ではないかもしれない。「iモード」対応の携帯電話の登場こそが、パソコン業界の不況の原因かとおもわれるほどだ。だってそうだろう、携帯の操作は、簡単だもんネ。充電器さえあれば良く、「特別な知識」も、さほどいらず、ボタンを押すだけでよい。その反面、「なんだ、簡単じゃないか(高倉健)」との文句で有名な「パソコン」君は、「普通の機械」とは違い、「高価なくせに、扱いも厄介なもの」であることも事実だ。

そもそもパソコンを使うには「特別の知識が必要」であるとこをパソコン業界は知っていた節がある。それなのに「特別な知識」の教育体制の整備を怠り、マイクロソフト社の戦略(自社ソフトを世界標準にしようとすること?)に、ハード・メーカーが便乗したのではないかとかんぐっている。もっとも「経済のソフト化」が進んだ今日、ソフトがハードを規定するのはやむを得ないが。、それにしても、ちまたにあふれるパソコン講座の数々。セミナーの数々。これらもほとんどはマイクロソフト社の「ワード入門講座」「エクセル入門講座」の氾濫である。パソコンを導入したての僕も何度か通うことを検討したほどである。「ワードやエクセルを使えるようにならないと、時代に乗り遅れる」という強迫観念がつきまとう。しかし、言い過ぎかもしれないが、この手の講座はあまり役に立たないと思ってよい。また書籍の分野もそうだ。マイクロソフト社の製品が、ほとんどではないか。パソコン雑誌をぱらぱら見て見るが良い。ここも「ワードの裏技」「エクセルの達人」の特集記事が氾濫しているではないか。しかし、その割りには「エクセルの達人」にはあまりお目にかかったことはない。そこで「自分は、エクセルで何をするのか」と自問自答してみると、意外なことにあいまいな返事しか帰ってこないのが正直なところではないだろうか。ここがあいまいだと、結局は、「エーイ、くそ、エクセルなんて面倒だ」となりかねない。「ワード」君も同じだ。結局のところ、「何のためにパソコンを使うのか」という根本的な「問」に行くつくのである。これは、僕がこのホームページのあちこちで繰り返してきた「問い」でもある。同時にこんなことをはじめに知っておけば、もっと楽だったのに」といったことも書いている。この点こそが「特別の知識」なのだ。

そこで、僕の試論なのであるが、パソコン業界の不景気脱皮策を思いつくままに述べたいと思う。

第1に、パソコンは「未完成な道具である」ことを知らせること。
「何でもできそうな」ところが盲点。パソコンの歴史は浅い。未完成な道具であるから、お付き合いは慎重にしなければならない。へたなことをやると、データがなくなってしまう。今後、この未完成な道具の完成度が高まっても、「鉛筆と紙」のアナログ筆記用具は、生き残ることは間違いない。人類が、自分の指で地面をなぞったことに鉛筆のルーツがあるとすれば、何十万年の歴史がある。

第2に、デジタルとは何か。10進法になれた人類に、2進法とはなにかの教育をすること。
10進法は、人類の指が10本あったから生まれた。ではパソコンは、なぜ2進法なのだろうか。「電気が流れる」、「電気が流れない」の2つ信号でデータが表現されるからだ。数字でいえば、1と0の2つの数字。「2進法とは何か」を学ぶことは、パソコンを学ぶことにつながる。難しく考えることはない。簡単な2進法の世界を考えてみよう。「ドアの開け閉め」「電気のスイッチ」「オセロゲーム」「用紙の表裏」「男と女」などなど。10進法の数字を2進法にする簡単な方法はまず2で割り、余りを1の位に書く。次のその商を2で割り、余りを2の位に書く。これを続ければ簡単だ。15は、2進法では、1111。256は、100000000となる。
この方法を知っている人は少ない。知っただけでも面白い。10進法を9進法・7進法など、自由自在に変換できる。

たとえば、

                ÷ 15 余り                   ÷ 16 余り
                ÷  7 余り                   ÷  8 余り
                ÷  3 余り                   ÷  4 余り
                     1                     ÷  2 余り
                    矢の順序に並べる                        1  
                                                  矢の順に並べる

従って

15は、2進法では⇒1111
16
は、2進法では⇒10000


第3に、「テキスト・ファイルとは何か」の教育をすること。
「テキスト・ファイル」は、パソコンデータ管理の基本である教育は是非必要だと思う。この点については、このページの奮闘記その4とその5を是非読んで欲しい。もう一度、強調しておこう。テキスト・データは、あらゆるソフトで開ける普遍的なデータ形式である。データサイズも最小であり、ウイルスもひそむことはない(但し、htmlは、ちょっと異なる。タグ言語にウイルスを組み込まれる可能性があるという)。

第4に、パソコンが、「得意なこと」と「不得意なこと」を明記すること。
パソコンが得意なことの代表は、「繰り返し作業」と「計算」である。「文字の検索」も得意。不得意なことは、飛躍した想像もしくは創造など。パソコンは、人間が一行一行組んだプログラムで動く。従って、忠実だが、逆に、プログラムされていないことは絶対にできないのだ。

第5に、実物教育を重視すること。
たとえば、高山植物に「ハクサンフウロ」という僕の好きな花がある。漢字で書くと「白山風露」。フウロ草の仲間。僕が生まれた田舎のシンボル的な神の山に由来。この山は、全国の白山神社のご神体なのだ。パソコン画面で同じ花を見て僕は、とても感動する。と同時に、僕は、ひんやりとした澄み切った感覚と黄金色に輝く光、そしてピンク色の息子の頬のあたたかさを感ずる。これは、長男が4つになった夏、郷里の白山の頂上小屋近くのお花畑の感動がよみがえるのである。アナログな世界の実体験こそ、パソコン活用の基盤になると僕は確信している。実体験?、そう、喜怒哀楽。これがあるからこそ、工夫や創造が生まれ、パソコンに生きてくるのだ。

ハクサンフウロ

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