奮闘記その3=順調な滑り出しだと思ったのだが・・・

「JIS」キーボードのパソコンを目の前にした結果、嫌でも、このキーボードを使わなくてはならない。不思議なもので、僕は「親指シフト」の亡霊からのがれることが出来た。奮闘記その3では、いよいよ、文書の作成に挑戦する。僕の場合、直ちに文書を作ることはしなかった。いや作れなかったし、印刷機を買っていなかった。その点、日本語ワープロ専用機には、内蔵プリンタがあった。
さて、文書等を作成する場合、第1の関門は、「キーボード入力」だろう。その次は、なんだろうか?通常は「一刻も早く、見栄えのする文書をつくりたい」と思うに違いない。しかし、僕は、パソコンの初心者であるがゆえに、
まずは「文書の保管方法」をまずは覚えろといいたいのである。奮闘記その3では、文書の保管先を「どこに、どのうような名で、どのように保管するか」については、詳しく触れないが、「情報管理の部屋」で触れたいと思う。
また、入門書の必要性とその読み方、「
共通の手順」について述べる。「共通の手順」の項は、僕は重要なところだと思う。


■さあ、次は、作った文書の「保管」に挑戦            
                   
  ■文書の保管とその削除                
                         
  ローマ字入力は、ある程度打ち込めるようになりつつあった僕は、今度は、作った文書の保管方法と、保管場所からの削除に試みることにした。この作業はとても重要なことである。ここでパソコンに電源を入れ、文書を作成する流れをイメージしてみよう。ここで述べるイメージは、どんな場合にも共通のことである。
                   
  まず、電源を入れると、なんだかしらないが、パソコンは1分以上も時間をかけて、自分で動き、ウインドウズ画面が現れる。つまり、基本的なソフトである「ウインドウズ98」が、起動する(息を吹き返す)のだ。
次に、息を吹き返した基本ソフトの上で、今度は、文書を作成する「ワープロ・ソフト」を起動させねねばならない。この文書を作成するソフトは、自動的に起動しないのだ。日本語ワープロ専用機では、スイッチをいれるとすぐにでも文書が作成できるようになっていたが、パソコンでは異なる。さて、文書作成ソフトが息をはじめたら、いよいよ文章の入力に入ることになるだろう。
                   
  では作成中の文書は、どうするのか。ワープロ専用機では、プチィッと電源を切っても、再度電源を入れたら、切る前の画面が生き返った。パソコンでは、そうではないらしい。電源を勝手に切ってはならないらしい。どこかに文書を「保管」して、それから、ワープロソフトを眠らせる。その後で、今度は、基本的なソフトを眠らせる手続きをして、初めて電源を切るのであるいやはや面倒な機械ではないか。ある文章を保管しないと、パソコンの電源は切れないのであるから、文書の「保管」という作業の重要性はわかるだろう。
                   
  さっそく僕は、自分の名前である「短気太郎」の「保管」を試みた。心配であったが、心配無用であった。間違った操作をしても、どうにかなるようになっていた。ただ、その仕組みを説明している入門書は少ない。ワード作成画面で文章を打ち込み、その保管方法がわからないので、画面の右上にある「×」印に注目した。
よく見ると右上の「×」印は二つある。一番上の「×」とその下の「×」。通常、イメージとしては、上の位置が「上位」である。従って、僕は、この常識に従い、まずは、下の位置の「×」印をクリックしてみた。すると「文書を保管するかどうか」を選択する画面がでてくる。「保管する」を選択すると、「保管場所を選択する画面」がでてくる。ここで、実際の「保管場所」を自分で決めるのだが、心配はいらない。お手つきして、
手元が狂っても、作成した文章は「マイドキュメント」に保存されるように出来ていた。同様に上の位置の「×」印でも実験してみた。保管場所までは同じであったが、今度は、ワードそのものが眠りについた。
                   
  この実験で僕は2つのことを学んだ。第1に、2つある「×」印のうち、下の「×」は、ワードというソフトを起動したままで、現在進行中の作成作業を中断するものであり、上の「×」は、ワードというソフトを終了させるものであること。言い換えれば、上は「全体」(ワードというソフト全体)を閉じるのであり、下は「部分」(現在進行中の文書作成部分)を閉じるのである。第2に、保管場所を特定しない場合、文書は「マイドキュメント」という場所(直訳すると「自分用記録庫」というイメージ)に保管されることの2つであった。この2つがわかればしめたものだ。なんだ実に簡単ではないか。そう思った僕は、パソコンのワード・ソフトの入門書を手元に置いて、様々な実験を開始した。
                   
■入門書は必要だ(僕は最低でも2冊買う)            
                   
  そうは言うものの、実は、ワードを起動して、文書を作成する場面を呼び出すことに手間取った。ここで初心者たるもの、ソフトの入門書は必ず買うことをお勧めする。できれば最低でも2冊買うと良い。その理由は、同じ説明でも違った表現の説明があり、かえって理解しやすいからだ。当然なことだが、基本ソフト(ウインドウズ98)の入門書も買うべきだ。
                   
  「奮闘記その1」の「購入前夜のころ」でも述べたが、最近のソフトのマニュアルは、ソフトに組み込まれている。画面の上辺部を良く見ると「ヘルプ」と書いてあるが、ここにカーソル(矢印)をクリック(マウスの場合は、右ボタンを1回カチィッ)すると何かしらでてくる。ある意味では便利なように思えるが、実際、初心者にとってはとても使いにくい代物なのだ。この「ヘルプ」を活用するマニュアルが欲しいくらいの気持ちになる。「おう、ヘルプ・ミー」。
                   
  僕は、日曜日に大きな本屋に入門書を買いに行った。まー、すごいこと、ぎしっり。ワードの入門書にもいろいろな出版社のものがあった。そればかりではない、ワードのなかにも種類(改訂版みたいなもの)があることを知った。そればかりではなく、マックとウインドウズの2大潮流がある。大きな本屋では、ウインドウズとマックは、別本棚となっているのでよいが、小さなところでは、一緒に置かれているので注意しなければならない。実はこの日、僕は「ワード97」の入門書を買ったのである。今思えば、「オフィス98」をインストールしたのだから、それに組み込まれたワードも「ワード98」であることを推測できたはずだ。しかし悲しいことに、僕は知らなかったし、たまたま、その店には「ワード98」の入門書が品切れだったのだ。入門書を買うときにも、初心者は迷いに迷うのである。
                   
■「入門書(マニュアル)」の使い方・読み方の工夫            
                   
  さて、ここで、入門書(あるいは、マニュアル本)の使い方について、僕なりの工夫を述べたい。これは、ワープロ専用機時代に工夫したことである。簡単なことだが、意外や意外、効果抜群なのである。
                   
  まず、「はじめ」と「終わり」のやりかたを覚える。これは、ソフトの「起動」と「終了」ばかりではなく、文書の「作成開始」と「終了(保存)」という具合に、いろんな場面がある。次に「中断」のやりかたを覚える。これは「ある作業を中断して次にまわすこと」を意味している。「中断」には、「終了」が含まれているが、「別の作業をするために、一時的に終了する方法」を意味している。ウィンドウズは「マルチタスク」(いろんな仕事を並行してできること)を売り物に、95年の年末に「スタート」した。どんなソフトも、すべて、これができないと、次に進めないだろう。「なんだ、こんなことか」とはいわないで欲しい。これが基本中の基本なのだ。
                   
  この基本をマスターしてから、今度は、様々な機能のうち、「使えそうな機能(入門書の項目)」に「付箋を貼る作業」をする。こ段階で僕は、パソコンはいじらない。ザーッと目を通すだけであり、入門書の目次と索引が活躍する。電車の中、お昼休み中、暇さえあれば、ひたすら目を通すのである。では、七面倒くさい、この作業の意義は、いったい、なんだろうか?それは実際やってみればわかる。使えそうな機能の説明をザーッと目を通しているうちに、不思議なことに「共通の手順」があることに、ぼんやりではあるが気がつくのである。これが大切なのだ。ぼんやりとでも良いから、その「共通の手順」に気がついたら、いよいよパソコンの電源を入れて、実験する段階にうつるのである。
                   
■「共通の手順」=「○○に対して、○○をせよ」            
                   
  「共通の手順」。このように言うと、いかにも「高度」なように思えるかも知れない。ところがどっこい、なんてことはない。日常生活で日頃、僕らがやっている手順と同じなのである。僕は、10年に近い日本語ワープロ専用機を使っていて気がついたことでもある。いや、ワープロを使い始める前から、気がついていたことだった。
                   
  たとえば、誰かに手紙を書くとしよう。この場合、あなたは、どうするか。「つまらないことを聞きやがる」といわないで欲しい。少し辛抱して、付き合って欲しい。まず、ハガキにするか、封書にするかを決める(選択する)だろう。この2つの手段に共通するものは、「書く」ということだろう。「用紙を用意」して、「ペンを持ち、書き始め」、「あて先に切手を貼って出す」だろう。また、家計簿を計算する場合は、どうだろう。「1月分の入出金」を「集計」するだろう。もちろん、集計の道具は、そろばん、電卓、暗算といろいろある。まだまだ、いろいろ例を考えて欲しい。カレーライスを作ろうとするとき、君はどうするか。「お肉・ジャガイモ・にんじん・たまねぎ・カレーのルーなど」の材料(素材)を用意(選択=パソコンにとっては、この「選択」が大変重要な作業なのである)して、「皮をむいたり、刻んだり、炒めたり、ぐつぐつ」煮て(加工)、出来上がる。「出来上がったカレーを皿に盛り付ける」(表示)、あまったカレーは「パックに入れて冷凍庫へ」(保存)。単純な例を、もっともっと考えて欲しい。
                   
  人間のあらゆる行動は、「ある対象」に対して(いろんな対象から、「ある」対象を「選択」して)、「○○をせよ」(命令文=コマンドという)で構成されている。ところが、人間は、究極の物質である「脳」により「○○をせよ」と「命令」されて行動しているのだが、この「命令」の存在を日頃、気に留めることはない。あたかも、自由意志によって行動しているかに思っているにすぎない。パソコンも同じことだ。「ある対象」に対して、「○○をせよ」で、動いている。ただ、人間のように、自由意志(脳)を持たないので、「誰か」の「命令」を待っているに過ぎない。この「誰か」は、誰か?それは、「あんた」、苦労して買ったパソコンの持ち主である、「あんた」である。
                   
  理屈っぽい僕は、まず最初の場面、「パソコンに電源を入れる」場面を考えてみた。「電源のスイッチを入れる」行動は、「僕のパソコン」(対象)に対して、「仕事をしたいので使えるようにせよ」と「命令」をしたのである。すると「電流」が流れ、「コロコロ」と音がして、「ウインドウズへようこそ」と、パソコンは「眠りから覚める(立ち上がる)」のである。忠実なパソコンは、息を吹き返し、「ディスクトップ」に様々な、「メニュー」を表示するのである。パソコンは「あんた、次は何すんの?」と聞いているのである。僕は、息を吹き返したパソコンに対して、次の「命令」をしなければならない。その「命令」をしない限り、僕の忠実は「部下」(パソコン)は、電気ばかり食いつぶすだけである。「沈黙」を守るのである。僕は、「次の仕事」をパソコンに「命令」しなければならないのだ。ひとことで言おう。「共通の手順」とは、「いろんな素材を選択して、それを使って料理(命令)すること」なのである。「なんだ、簡単じゃないか」(高倉健)。その通り、「簡単」なのである。味噌汁がつくれるあなたなら、パソコンは使えると思う。
                   
■1999年4月末のある日のことであった            
                   
  ところで、僕のパソコンの「オフィス98」は、一太郎のCDがあることを前提にした「パッケージ」ソフトであり、そのシリアルナンバー探しに苦労した話を奮闘記その2でしたと思う。ある日のことだった。MS−IMEにも少し慣れた僕は、一太郎の辞書は、ハード・ディスクの容量を食うので、いらないと考え、アプリケーションの削除の練習とばかり、それを「削除」した。これがそもそもの間違いであり、これ以後、起動の度に、「○○がありません」という「エラーメッセージ」がでる事態になった。いちいち、右上の「×」印をクリックしなければならず、しばらくは辛抱できたが、ついに癇癪をおこしてしまった。僕は、その「じゃまなメッセージ」を取り去る、良い方法がないものかと、購入先の販売店にパソコンを持ち込み、「エラーメッセージ」現象を説明し、そのメッセージがでないようにできないものか相談をした。中年に近い販売部の責任者は「おおーい、A君」と若い30ちょっとの社員を呼びつけた。僕は、事情を説明を始めたところ、「いやー、それはね」といい、いかにも困った様子をした。「お客さん、それはね、簡単に削除できないのですよ」。「なぜですか?」。「アプリ(アプリケーションソフトの略)の削除の場合、中には削除できないファイルがあるんです。完全に削除するには、ツール(道具)が必要なんです」。「ツール?」「ええ、削除専用のソフトがあるんです」という。何がなんだか、全く、ちんぷんかんぷん。「我慢して使うか、それともリカバリーCDで、もう一度インストールしなおすかですね、お客さん」。「いや、我慢できないから、相談に来たんだ」といっても、らちがあかない様子。「どうしてなるんですか、こんなことに・・・」と食い下がったが、若者は、困惑した表情で「ううんー」と言ったまま、今度は黙り込んでしまった。しばらくして「お客さん、パソコンは、今度が始めてでしたね・・・」と念を押し、またもや「ううんー」と沈黙。僕はこのとき、若者がいいたくてもいえない言葉が、浮かんだ。『初心者の方には、理解が難しい問題です』と彼は言いたかったと直感した。「じゃ、いいです、やり直します」といって帰った。
                   
  やむを得ず僕は、インストールしなおす決意をし、その日の晩に作業を行ったのである。幸いなことに、パソコンは実験段階で、事実上稼動はしていない。自らが苦労して蓄積したデータは、ないに等しいので、気は楽だったし、再インストールを自分ひとりでできるようにするチャンスだとも思った。再インストールは1時間ほどで出来た。今度は一太郎を削除しないことを前提に、一太郎のインストールを最小限度で行った。再起動したら、無事、へんてこな「メッセージ」はでなくなり、僕のパソコンは、晴れ晴れした表情に戻ったのである。
                   
  さて、この問題の教訓はなんだろうか?そもそも、最初に「オフィス98」を購入するときに、ソフトの中身が同じなのに、値段がずいぶん違うことに惑わされて、僕は一太郎CD前提の安いものを選んだから、この問題が生じたと考えることができる。しかし、若い販売係は「アプリの完全削除には、その専用のツールが必要なんです」と言ったではないか。再インストールして、お酒を飲んでいた僕は、性懲りもなく、「じゃ、もう一度、削除してみよう」と思い、一太郎の削除をし始めたのである。今度は、慎重に全部を削除しようとした。例の「ウイザード」(対話式画面)とにらめっこしながらの削除作業である。するとどうだろう、最後の段階で、なにやら「削除できないファイルがあります」とのメッセージがあったのである。削除してしまったのに、こんな「メッセージ」が出るなんて、変ではないか。でも仕方がない。再び、パソコンを起動したら、また、あの亡霊がでたのである。いうまでもなく、僕は、再びインストールをしなおした。もうこうなると、気力もうせて、グッタリであった。でも執念深い僕は「組み込んだソフトがなぜ、簡単に削除できないのか」その理由を知りたいと思った。しかし、この理由をある程度知るには「時間」が必要だった。
                   
■「OS」についての僕の理解(正しいのかわからないが・・・)            
                   
  さて、「OS」(オペレーティングシステム)についての僕の理解を示そう。パソコンは「ソフトがなければ、ただの箱」とはうまく言ったものだ。この「箱」こそが「ハード」(機械と理解していい)。一方、「ハード」に対応するのが「ソフト」である。ここでいう「ソフト」は、ワード、一太郎などのソフトを言い、別名「アプリケーションソフト」(アプリ)と言うらしい。「OS」というのもソフトの一つであることは確かだが、アプリとは異なる性格をもっている。いわば、「OS」とは「ハード」と「アプリ」の間を取り持つソフトらしい。「アプリ」は、この「OS」の上で、具体的な仕事をするように組まれている。一方「ハード」も「OS」を走らせるように作られるのだ。「Windows98」も「OS」の一つであり、「MS・DOS」もそうだ。
                   
    ★「ハード」と「ソフト」
道路は「ハード」、交通法規は「ソフト」。人の集団は「ハード」、法律は「ソフト」。資産は「ハード」、運用は「ソフト」。まあ、こんな風に考えてはどうか。「ハード」は、どうも物理的環境のイメージであり、「ソフト」は、その運用環境のイメージではないだろうか。この二つは、相互に影響しあうことが重要。「ハードが新たなソフトを産み、ソフトが新たなハードを産む」。机や椅子、文房具などの「ハード」を生かすも殺すも、それを使う人物の「ソフト」にかかっている。だとしたら、僕は失格だな。
                   
  先ほど、一太郎を削除したら、へんてこな「メッセージ」が出たといった。またアプリの完全削除には「専用のツール」が必要らしいとも言った。卑近なたとえで申し訳ないが、Windows98マシンに「98対応ソフトを組み込んだ」(肉体関係を持った)場合、どうも、この肉体関係をズーッと引きずってしまうらしいのだ。関係をすっぱりと断ち切りたくて、アプリを削除(アンインストール)しようとしても、この「腐れ縁」がのこるらしいのだ。誠に表現がわるいが・・・。これが僕の理解だ。だとしたら「関係を持つ段階で慎重に相手(アプリ)を選ぶ」以外ないということになる。この話は、奮闘記その4の「インターネット世界に突入」のところで、またでてくる。
                   
■「MS・DOSファイル」の再生に挑戦            
                   
  ところで、僕がパソコン導入に踏み切った動機は、長年の愛機(日本語ワープロ専用機)の故障が原因だった。特に、その「100メガのDOS領域」は、僕の「命」であった。平成7年3月に時間を戻そう。当時、僕に「大きな仕事」が転がり込んできた。しかし、その仕事の前任者は、マック派であり、ローマ字入力のブラインドタッチをこなす人物だった。彼は、「大きな仕事」をマックで管理していたのである。引継ぎのとき、僕は彼に「データをテキストファイルで僕にくれないか」と求めたのである。1枚のフロッピーに、その「大きな仕事のデータ」が「テキストファイル」に変換されて、この僕に手渡されたのである。といっても、果たして「テキスト」となっているかは、僕にとっては未知数であった。手渡された「データ」は、僕の知識不足からか、僕の日本語ワープロ専用機のDOS領域に読み出すことは出来なかった。僕は「テキストファイル」ならすべてに共通と思っていたが、そうではないことを知り、愕然としたことを今でも思い出す。「テキストファイル」とは、文字コードだけで出来たファイルであり「プレーン・テキスト」とも言う。プレーン・ヨーグルトのように、砂糖などの添加物が入っていない「純粋な文字だけのファイル」である。
                   
  愕然としたというが、だってそうだろう。パソコンを導入する意味は何だろう。「あるデータ」があるとしよう。このデータをいろいろ加工したりして、ある仕事に活かすためには、そのデータを「共有」できなければならない。ここでいう「共有」とは「互換性」に他ならない。さもなければ、打ち出したデータを再度打ち込む作業をしなければならず、これほどの無駄な作業はないと思う。また打ち込みミスというリスクも負わなければならない。この互換性の鍵こそ、「テキスト」形式のはずではなかったのか。
                   
  とにかく、マックのテキストファイルをMS・DOSにもつかえるように、仕事場に出入りしていたソフトハウスに「変換」を願い、無事、日本語ワープロ専用機に組み込むことが出来た。曲がりなりにも、「データは共有」できたことになる。しかし、僕は不満だった。職場に出入りするプロのソフトハウスは「無料でやってくれた」のだが、これは逆にいえば、「いとも簡単なこと」だったとも考えられる。プロは、プロの仕事であるならば、決して「ロハ」ではやらないだろう。いずれにせよ、日本語ワープロ専用機のMS・DOSファイルは、なんとか僕のパソコンに息を吹き返した。エクセル画面にきれいにいれることもできたのである。パソコンを買ってから1カ月ぐらいのことであった。
                   
  ところで「データ変換ソフト」というものがある。これは「○○で作ったファイルを△△で作ったファイル形式に変換する」ソフトらしい。「これがあるから、テキストファイルにこだわる必要があるのか」という意見もある。しかし、僕は「書く」という仕事にパソコンを使っているので、テキストファイルにこだわってきた。MS・DOSファイルもテキストファイルであった。この「テキストファイル」については、今勉強中であり、いずれは整理したいと思っている。インターネット環境のもとでの「電子メール」も「テキストファイル」であるし、プログラム言語も同じだ。「html」(ホームページ作成の言語)もテキストファイルである。この「テキストファイルの知識」は、パソコンの文書管理の基本中の基本だと僕は思う。
                   
    ★「テキストファイルの知識」
文書管理の基本中の基本といったが、この問題を詳しく扱う書籍はないに等しかった。僕は、MS・DOS時代の経験が少しあったので、当時の様々な本から学んでいたが、系統的なものではなかった。インターネットを検索して、参考書を調べたが適当な本はなかったし、あったても、すでに絶版となっていた。ところが、2001年3月中旬、池袋の本屋で「テキストファイルとは何か?」という、求めていた題名の本に出会ったのである。このページの「書籍の部屋」に紹介している。この本との出会いは、僕にとり、画期的だと思う。
                   
■ある日、僕は顔面蒼白になった・・・            
                   
  順調な滑り出しであったようだが、そうではない。データの取り入れに成功した僕は、その後、パソコン画面をいろいろいじることを始めた。また同時に、インターネットの接続の資料を集めはじめた。「情報管理の部屋」でも紹介した「Wakfind3」というソフトも活用を始め、僕のデジタル業務日誌も徐々に蓄積していった。当時は、僕はデータを「マイドキュメント」に置いたままであった
                   
  ところで、Windows98は、パソコンの起動そのものを規制する方法がないと聞いていた。かって「オアシス・ポケット3」(これは親指シフトのフル・キーボードを備えた日本語ワープロ専用機でありながら、MS・DOS機でもあった)には、起動をパスワードで管理でき、とても重宝したものだった。データの中には、やはり自分のみのデータがあるし、また、いたずらされてデータを変更されても困る。パソコンの起動そのものを規制することは、プライバシィーや安全(セキュリティ)の面でも必要なことである。
                   
  いろいろ研究した結果、「スクリーン・シェイバー」にパスワードを組み込むことができ、それをスタート・メニューに登録する方法を知ったのである。これにより、起動と同時に「パスワード入りのセェイバー」が作動し、間接的にパソコン使用を規制できたのである。ところがある日のことであった。パスワードを打ち込んでも開かないのである。パスワードを忘れたのではない。この原因は、なんだったのか、今もってわからない。数日の間、僕はあれこれパソコンをいじってみたが、無駄だった。Windows98を正式に終了させることも出来ず、何度も何度も電源を強制的に切るハメになった。僕のパソコンは、おそらく何度も電源を切ってしまったので、その時はかなり重症だったと思う。
                   
  冷や汗だくだくの僕は夜も眠れない。僕のパソコンの中には、蓄積したデータがある。どうしたらよいのか?素直な気持ちで誰かの手助けを求めればよかったと今は思う。しかし、短気な僕は、諦めも早い。一気にデータを捨て、パソコンの中身をまたもや白紙にしてしまった。しかし、今度は、一晩では終わらなかった。OSのインストールだけではなく、MS・DOSデータの組み込み作業とその後の新たなデータ入力をしなければならなかった。この作業には、3日間費やしてしまったのである。
                   
  今から思えば、パスーワードを組み込んだ「スクリーン・シェイバー」も一つのファイルであり、そのファイルに名前をつけてスタートメニューに登録したのであり、起動デスクからMS・DOS起動させ、そのファイルを削除できたのかもしれない。しかし、それだけの知識は、僕にはなかったのである。いずれにせよ、僕はデータを失い、「デジタル・データのモロさ」を体験したのである。
                   
  この事件で、僕は2つの教訓を得た。第1に、「自分の蓄積したデータ」の類は、外部記憶装置に保管することである。第2に、「データのバックアップ」の必要性であった。しかし、どんな記憶装置を使うにしても完全ではない。ハード・ディスクの容量が増大すればするほど、この危険性は逆に大きくなるのではないか
                   

 

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