相手が如何にチンピラ風で、相手が如何にご町内でも人望のある人でも、その印象にとらわれることなく、公平な目で事実を確かめようとする姿勢、さすが安浦刑事。
「
当然の姿勢」でしかない気もするのだが。
その「当然の姿勢」が話の根幹を成してしまうくらい、世の中は印象によって有利不利が決まってしまうのだろう。
お盆休み中「
目撃証言(エリザベス・ロフタス、キャサリン・ケッチャム著 岩波書店)」を読む。
刑事ドラマでは「目撃者探し」を捜査のはじめの段階として行い、その証言をもとにして犯人を捜していくわけだが、その「目撃証言」=「目撃者の『記憶』」の『記憶』がいかに誤りやすいかを、法廷で記憶についての専門家証言を何度もしている著者がその法廷での経験などを織り交ぜながらスペンス小説さながらの迫力で書いている。
読んでいると、実に恐ろしい気分になる。
「記憶」はビデオに記録されるかのように脳に記録され、再生されるように一般的には思われているが、脳に記録される段階ですでに正確であるというわけでなく、記憶が再生されるときにも解釈や記憶の付け足しが行われて不正確である。このような事実と記憶の不整合は少し考えれば自分自身が正しい(事実だ)と思っている思い出にも容易に見いだされるし、また起こりもしなかったことを「実際に起こったこと」として記憶していることもあるだろう。
それが、犯罪の目撃者にも起こりうるわけだし、その目撃証言によって無実の人間が捕まることもあろう。
今週のはぐれ刑事でも、目撃者は刺された後の逃走部分しか見ていなかったわけだが、いつの間にか刺される瞬間やどちらが先にナイフを出したかという点まで『思い出す』のかもしれない。見もしなかったことが頭の中で構成され「実際に見た真実」になって警察に証言する可能性もある。『目撃証言』には見なかった記憶が思い出されるという現象についても触れられている。
日本でも再び陪審員制を取り入れようかという話があるが、陪審員は目撃証言を重要と感じる傾向があると学生時代に聞いたことがある。
物的証拠では無罪であるのに、誤った目撃証言(証言した者にとっては事実)によって有罪とされてしまうかもしれないし、当の本にはその例も載っている。