戻る

 2008年6月14日に起きた岩手・宮城内陸地震で被災された方々にはお見舞い申し上げます。

 私も去年に中越沖地震の被災者だったので、現在避難されている方の苦労は全部とは言いませんがわかります。頑張ってください!
 今回の地震は去年の地震を上回る揺れだったようです。それに加えて震災ダムとか土砂ダムとか言われるものが多数できているのは気の毒な限りです。
10月23日

 あれから3年が経ちました。そうです、中越地震です。私の両親は新潟地震(※1)がきっかけで結婚したと聞いていますが、なかなか地震と縁のある人生なのかもしれません。

 この3年前の地震に続いて、今回の中越沖地震で被災して家を壊された方々も私の周りには大勢居ます。しかし、TVで伝えられている程の悲壮感と言うものはなく、逆に「こんなでかい地震に2回も遭うとは笑えるね。また3年後も来るンじゃないの」というジョークも聞かれるくらいです。
こういう状況を見ていると、ニュースでは悪く言われることも多い我が国家日本ですが、そんなに悪い国でもないのだなぁと実感します。周辺諸国を見てみれば、北朝鮮、ミャンマー、中国などの独裁国家に生まれなくて本当に良かったです。

 結果的に68人もなくなられたのですか…あの地震で。今回の中越沖地震では、自治体が前回を教訓として被災者の健康について改善されていたのは安堵しました。

※1 昭和39年に起きた巨大地震。古老に話を聞くと、ザリガニ釣りをしていた東京江戸川にまでその揺れは届いたという。液体化現象が初めて報告された。
後日

 電気、水道、ガスが全て止まり苦労しました。電気は3日後、水道は10日後に復旧。ガスは忘れました。こうして日常に戻るとあの時の苦労は忘れてしまうのは人間の短所であると思います。
 自衛隊の派遣はやはりありがいたもので、水や食料は助かりました。こういう自然災害で感じるのは他人の善意と自分のエゴです。とりあえず、自分のエゴについては座禅を組んでより深く省みるとして、他人の善意にはより深く感謝したいと思います。
7月16日(その7)

 これを書いている時点で震災から1ヶ月半が経っています。約3年前の中越地震と異なり今回の「中越沖地震」は余震が極端に少ないと言うのが特徴です。しかし、替わりといっては何なんですが本震の破壊力が凄まじいかったのですが…。
 そして唯一の巨大余震がこの7月16日の午後3時のものです。はっきりいって本震よりも恐怖を感じました。何故なら、私は窓ガラスが多く張られた建物のすぐ近くにいたからです。慌てて建物から離れてうずくまりましたが、今にもガラスが割れて降り注ぐのではないかという怖れが揺れの間は頭を掠めていました。
 余震は終わり、ガラスは割れることもなく、私は無事でした。しかし、会社の近所の家屋、余震前に傾いていたものが余震後に潰れていました。元々家の中に人はいなく、外に出ていたようなので怪我人はでなかったようですが…ゾッとしました。
7月16日(その6)

 午後3時ごろ友人と合流。私は海の日で休みでしたが、その友人は仕事中に被災したため偉い目にあったようです。机上の多くのものはなぎ倒され、振り落とされたということでした。被災直後に社員の方は家族や家の安否を確かめるために帰宅しており、友人は様子をみるため私を伴って再び会社に来たというわけです。私もドサクサにまぎれて…というのは口が悪いですが他社を見られるので喜んでお供をしました。
 しかし酷い状態で、これを見て自社のことを想像すると背筋が寒いものがあります…と考えていた時に、余震が―震度5の余震が再び柏崎を襲いました。
7月16日(その5)

 県内の知人友人への電話やメイルは全く通じません。しかし驚いたことに県外の姉と友人からは電話がかかってきました。そこで聞いたのが「原発が燃えている」とのこと。聞いているラジオでは全くそんなことを言っていない…情報管制でもされているのかとも思いましたが、TVではガンガンやっているようなので違うのか。それにしても、原発というものは「最悪の最悪の事態」を考えているべきものではないのか?それが地震直後とはいえ、火事の1つも即座に消せないとは呆れます。それこそ、独自の消防署を建てるぐらいのことはすべきでしょう。
 柏崎市長が原発を止めさせたのは(正確には消防法の不備をついた、間接的なものでしたが)グッド・ジョブです。
7月16日(その4)

 電気は止まっていました。これは中越地震の時に体験していましたのでたいした動揺はありませんでした。しかし水道が止まっている。これには軽く動揺してしまいました。アトゥム神がいたら自分の右腕にスタンドの拳を埋め込まれる程度の動揺です。ベッドを見たら、いつも頭を置いている所に本棚がガッツリと倒れこんできているのにはかなり動揺しました。ボーイ・2・マンがいたら右半身を獲られている程度の動揺です。
 とりあえず散乱した部屋を片付けつつ、電池使用ラジオを聞いていました。前回もそうでしたがケイタイとメイルは全く繋がりません。ラジオからの情報では震源地がかなり近く(40km程)、多数の建物が倒壊しており、震度が6以上だということでした。

 しかし3時間ほど経ってから、ケイタイより身震いする情報がもたらされました。
7月16日(その3)

 アパートに帰るまでは半壊している建物を何軒かみましたし、道路は所々で波打って段差ができていて走りにくい。水道管が破裂して水が噴き出している場もあります。家の中から外へ避難している人々もたくさんいました。前回と同じであろうとの予想通り、電気が止まったようなので、信号が消灯しているのはやや怖かったのですが、何とかアパートにたどりつきました。
7月16日(その2)

 店内には割れて砕けて裂けて散ったガラスがあふれており、外へ出る途中で足を切ってしまった方も二人いました。私自身もサンダルでしたがゆっくり出たので無事でした。

 そこまでは私自身が無傷だったため半ば楽しんでいた精神状態にありましたが、外に出て愕然…いや慄然としました。道路をはさんだ建屋(たてや)が斜めになっているのです。斜め45度です。つまり半壊ということですが、窓からのぞく蛍光灯がついていることから中に人がいたことを想像するのは難くありません。
 とりあえずここにいてもしょうがないのでアパートに帰ることにしました。
2007年 7月16日(その1)

 国道8号沿いにあるモス・バーガーでブランチをとりつつ、宮沢賢治に関する著書を数冊読みつつ、HPにアップする予定の文章を思考していた時に地震が起こりました。
 
 最初は軽い感じの縦揺れが恐らく10秒前後、そして急激な横揺れが店を襲いました。机の上にあった飲みかけのコーフィーのグラスを掴まえようとしましたが、手をすり抜けて床に落下、粉々になりました。店内の電灯は明滅、した後に消えました。思考を奪われるような激烈な揺れが治まったのちに店員が外に出るように指示してきました。