金井(岩松三郎) 長義 (ながよし)

金井氏 上野【清和源氏、新田氏族】

群馬県新田郡金井郷より起る。新田系図に「岩松時兼の三男長氏、金井三郎」とある。寛政系譜には、未勘に金井氏がある。この後か。
 (『姓氏家系辞書』)
【上野国新田荘金井郷】より起こる。

「新田系図」に、足利太郎義純ー遠江太郎時兼ー金井長義ー長俊ー兼義ー政義ー
兼長ー長正ー義行ー長行ー義則ー長孝ー長定、

 もう一系に、政義、弟勝義ー房長 とある。
【貞治2年8月、金井新左衛門の活躍で岩松直国が】

宇都宮氏綱の家臣芳賀高名は、主の宇都宮氏が越後の守護職を没収されたのを不服として、越後から復帰してくる上杉憲明を上野板鼻に襲撃しようとした。これに対して、足利基氏は軍事動員をかけ、高名の子高家は武蔵苦林野(入間郡毛呂山町苦林)で両者の戦いとなり。
この戦いで基氏が危機に陥り、岩松直国は基氏の白糸の鎧に着替えて身代わりになろうとしたその時、直国に組討を挑んできた岡本信濃守に対して直国の家臣金井新左衛門が前に立ちふさがり、刺し違えて死んだ。
岩松直国らの奮戦によって、基氏軍は勝利し、芳賀勢は宇都宮に没落した。『太平記』
【金井姓の戦史】
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この金井姓も多く、『太平記』巻39に「岩松が郎党・金井新佐衛門」とあり、
『鎌倉大草子』にも「家内新佐衛門、討ち死にして岩松は引き退く」と見える。また『関東古戦録』に金井新佐衛門、金井小源太秀業の名が見え、『上野国志』に金井善八の名が見え、さらに「永禄3年甲9月、武田信玄、箕輪の城攻めにて金井善八その先陣に加わり、軍功にて金井淡路守となり、倉賀野16騎の旗頭に抑付けられ、倉賀野に入部。などとある。
A
『新田老談記・坪弓老談記』に、北条軍の金山城攻めに備えて田部井一族も隊制を整え参加する。その田部井軍団の中に一族として参加していた「金井」姓の新蔵、惣十郎の二人が手勢を率いて参加していた。
B
『新田記 系図』、「元旦につき登城行列のこと」永禄3年元旦の項に金井大蔵。
C
『金山軍記』「国重、顕長厩橋に虜の事」に、三十人組の頭の一人として金井出雲守涼清。
D
『関東幕注文』(上杉文書)に、金井常陸守,同新右衛門尉、同兵部少輔(三人が同紋の四のかかりの丸の内の十方)。
【新田家臣祖裔記】
 
 金井遠江守は義貞公直近の勇士。弓馬の達者にて義貞公・義助公まで付き豫州に下りる。金谷経氏と一党の末葉同国に多し、民家に下り久しく苦しみの思いをなし貧窮に落ちたところに、大田美濃守持資の合力に預かり居る処に、宮領より旧里を賜り安堵す。この末多し、当金山において金井惣十郎・同新蔵・同小藤次・同半兵衛など大小6、7騎も見える。
【倉賀野城主・倉賀野秀景は金井姓】
 
 金井秀景、後北条氏直に仕え、倉賀野城主となり、倉賀野淡路守秀景と名乗る。
(元武田家家臣で、滝川一益と交友が深い。)
【神奈川県藤沢の金井氏】2004年1月10日 13:40:47

 『藤沢市史』によると、小川泰堂が記す『我棲里』に、「藤沢・砂山観音(金砂観音)毎月18日女人群参し・・・・はじめ金井入道守清の次男・太郎左衛門清中入道(清西)寛永年中この堂を営みたるよし、金井氏の家譜に見ゆ。」とある。

 金井氏の始祖守清は応永元年(1467)に利根川の合戦にて軍功をたて、群馬県金井村を与えられ金井姓を名乗り、のちの子孫「守清」が里見氏に従って北条氏康と下総国国府台にて負傷、以後藤沢に土着したと『藤沢市史』四巻にある。清仲は守清の次男であるが『金井家譜』には清仲の養子・清至=浄西入道が砂山観音を建立したとある。寛永年間(1624〜43)の造営と有ることから、年代的には『家譜』の方が自然である。

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