諺と格言の社会学




縁は異なもの味なもの

 40年奉職した明治学院大学を、この3月、定年退職した。その生活を振り返るとき、人と 人との結びつきに不思議な縁を感じる。夫婦の関係においてもそれを感じる。全く偶然に2 人が出会い、好きになり結婚したと思っていても、長く一緒に生活していると、なるべくしてそ うなったと思えるようになる。いろいろな縁が重なって、夫婦になるように道が備えられてい たように思われる。「縁は異なもの味なもの」を実感する。それは他の人間関係においても 感じる。
 私の社会学研究の生活にも不思議な縁を感じる。
  
 この写真は私の両親と兄弟三人が写った最初にして最後の家族写真である。父の隣に座 っている「かわいい子」が私である。撮影は昭 和19年(1944年)6月11日。その翌日、父は多 くの町民に送られて沖縄に出兵し、一年後の 昭和20年6月戦死し、小さな白木の箱に入っ て帰ってきた。母は26歳で子供三人を抱えた 戦争未亡人となった。
 これに追い討ちをかけるかのように、翌年、 昭和21年12月21日明け方、我が家は南海大 地震により倒壊した。祖母と兄と従姉妹は家の下敷きとなり、兄と従姉妹は幸いにも助かっ たが、祖母は圧死した。母は私と弟を両脇に抱え、倒壊直前に雨戸を蹴破って脱出したそ うである。私たちはすべてを失って、町の建てた畳もない板敷きのバッラク(仮設住宅)で生 活することになった。

 昭和23年、私は小学校2年生の時に、叔母のところに養子として出た。そして、三和小学 校、土佐中学校、土佐高等学校、明治学院大学、そして、東北大(大学院)と卒業・修了し、 昭和43年、明治学院大学の社会学部に奉職した。そして、大学、大学院で研究したハーバ ード大学のG. C. ホーマンズの小集団論や交換の社会学を中心に講義した。大きな事件 もなく、平和な歩みであった。

 昭和48年(1973年)、ある日突然、『手記 沖縄で散華した戦友』とい うガリ版刷りの小冊子が、高知県の田舎の見知らぬ人から送られてき た。それは父と戦場を共にし、父の戦死を見届けた戦友からであっ た。「万一生き残って帰れたら、帰った者が家に伝える」という約束の 実行であった。養子に出ていた私をやっと探し当てての約束の実行で あった。その手記には私の父との沖縄での楽しかった交遊のひと時と 戦場での悲しい別れが綴られていた。

 「もうその頃は沖縄野戦では戦う兵隊には暦もなければ時計もあり ません。何月何日もないし、ただ昼と夜があるだけでした。ある夜、『ひ ばり山』の攻撃に行く途中、その方向に進んでいる時、敵の迫撃砲弾が近所に落下しまし た。折悪しくそのところは固いコンクリートの上で、畑や山に落ちた時と違って破片の散乱が ひどく7人の戦死者を出しました。私も左大腿部と右腕に傷を受けました。私が気付いた時 には山中君(注:私の父)と他の戦死者が側の草むらに葬られておりました。……物量を誇 る米軍は撃ちまくり、赤土の禿山になった沖縄本島では、激戦地であった山中君のお墓へ も米軍の爆弾が雨あられのように落ちたことでしょう」。


 昭和50年(1975年)、私 はこの手記の写しを厚生 省に送り、国の責任で父の 遺骨を捜し、家族のもとに 返すように手紙を出した。 しかし、結局は、私自身が 戦没者遺骨収集団のメン バーとなって、昭和51年(1976年)2月上旬 の2週間、沖縄での遺骨収集に携わること になった。写真のような遺骨を約300体集 め、沖縄の中央納骨堂に納めてきた。写真の遺骨は、真っ暗闇のガマで収集した、銃口を 喉に当て、足の指で引鉄を引いて自決した兵士の遺骨である。側に、「伊藤他五名 本坂 寅市」と刻み込まれたセルロイドの筆入れがあった。
 私はこの頃、ホーマンズの著作 Social Behavior, 1951 (初版)の翻訳を行っていた。 その訳稿を沖縄での遺骨収集の合間に推敲するつもりで持参したが、結局、そんな余裕は なかった。

 遺骨収集の作業を終え、帰京してから、翻訳のことなどの問い合わせでホーマンズに手 紙を出した。その際、この沖縄での体験を書き添えた。すぐに、彼から返事が来た。彼は私 の手紙に驚いたようであった。彼の手紙には、私の父が戦死したその沖縄の戦場に彼がい たこと、8月15日、那覇湾の戦艦で勝利を祝ったこと、そ の祝宴の真っ最中に、最後の特攻隊の来襲があり、船上 は大混乱になったこと、また、九州南部への上陸部隊の 隊長として戦死を覚悟していたことなどが書かれていた。

 昭和53年(1978)、私は、Social Behavior 1974 (改 訂版)の訳本 『社会行動』(誠信書房)を出版した。これ が縁となり、また、父のことが縁となり、私は昭和55年 (1980年)、ハーバード大のホーマンズ先生の下で客員研究員として交換の社会学の研究 をすることになった。


 今、父がホーマンズと銃を構えた摩文仁 の丘には『平和の礎』が建てられ、そこに沖 縄戦でなくなったすべての人の名前が刻ま れている。私の父「山中栄」の名も刻まれて いる。戦死者をワン・オブ・ゼムとしてでは なく、一人一人の名前を挙げ、等しく慰霊す る『平和の礎』は、戦火で大きな苦しみを受 けた沖縄県民からの私たちへの大きな贈 物だと思い、感謝している。

  ほんとうに「縁は異なもの味なもの」であ る。

参考文献

G.C.Homans, 1974, Social Behavior, Harcout Brase Javanovich.
  (橋本茂訳 『社会行動』 誠信書房 1978)
拙著 『交換の社会学』 世界思想社 2005




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