諺と格言の社会学




出る杭の打たるる事をさとりなば
ふらふらもせず 
後くひもせず(通用亭徳成)
                      
 二人のむくつけき男が、治水・護岸のために水際に杭を打っている。出すぎた杭は 頭を打たれ高さが整えられる。この絵は喜多川歌麿(1755頃〜1806)の『巴波川(うず まがわ)杭打ちの図』 と呼ばれてる肉筆画である。浮世絵美人画の第一人者である歌 麿には珍しい風景画である。因みに、現在、この絵は所在不明となっているそうであ る。

 この絵は、歌麿43歳の時(1798)、栃木で、羽織の裏に書れたものである。その絵 には、栃木の豪商であり狂歌師であった旧友・通用亭徳成が、「出る杭の打たるる事 をさとりなば、ふらふらもせず、後くいもせず」 という狂歌賛を添えている。
 
 江戸時代、打ち寄せる波から岸を守るため、岸辺に沿って多くの杭が打ち込まれ た。強度を保つために、出すぎた杭は打ち込まれ、同じ高さに整えられた。このよう な日常的な風景から、社会的な生活において、掟を破り、秩序を乱す人が、当局か らいろいろな制裁を受ける状況を、「出る杭は打たれる」という諺で表すようになっ た。

 どうして美人画の絵師・歌麿がこのような風景画を書き、旧友の狂歌師徳成がこの ような狂歌を添えたのであろうか。

  歌麿が浮世絵師として活躍した時代は、田沼意次(1719-1786)が支配した時代(1772-1786)であり、また、松平定信(1759- 1829)が支配した時代(1787-1793)であった。

 田沼の時代は、彼の重商主義の政策によって、町人文化が花開いた年であった。武士や町人や遊女や遊郭の 主人が、身分に関係なく、一堂に集まり狂歌に興じるという、身分制の時代には極めて珍しい自由で奔放な気分の 生活空間、すなわち「天明狂歌壇」という自由な結社である「狂歌サロン」が出現した。歌麿も筆綾丸という名で参 加した。そのリーダーであった武士の太田南畝は次のような狂歌を残している。
 「世の中は色と酒とが敵(かたき)なり どふぞ敵にめぐりあいたい」(太田南畝)
 「冥土から今にも使いが来たならば、九十九までは留守と答えよ」(同上)
 このような自由な雰囲気の中で、板元・蔦屋重三郎の庇護のもとで、歌麿は、狂歌絵本『潮干のつと』や『画本虫撰』や、自由な人 間表現とも言うべき春画『歌まくら』を出版した。
 しかし、このような自由で奔放な町人文化の隆盛は身分制を崩し、幕政の弱体化もたらすかもしれないと憂慮する反対勢力が、田 沼意次の失脚を狙っていた。そのような時に、江戸の大火事、浅間山の大噴火などの災害、農村では天明の大飢饉と呼ばれる食 糧難や疫病、そして、町では一揆や打ちこわしの暴動が起こった。人々の間からも次第に田沼政治への批判が強 くなり、ついに、1786年、田沼意次は失脚し、田沼時代は終わった。
 1787年、理論家肌の若き禁欲的な理想主義者である松平定信が政権の座に着いた。彼は幕政再建のために、 いわゆる「寛政の改革」に取り組んだ。重農主義による飢饉対策、厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止、旗本 の文武奨励、厳しい出版統制を行った。
 田沼時代の町人文化の発展を支えた出版を担った板元や戯作者や浮世絵師にとっては厳しい時代の到来であ る。天明狂歌壇の中核であった武士達は武士の世界に帰り、狂歌サロンは終焉を迎えた。さらに、松平定信は出 版統制令(1790)を出した。幕府に対する批判を書くこと、信長以降の武家について述べること、手の込んだ刷り物や錦絵などの贅 沢品を出版すること、風紀上好ましく本を刊行することを禁止した。それへの違反に厳しい罰が与えられた。
 
 1791年には、蔦屋重三郎が刊行した山東京伝の洒落本が世を風刺するものとして絶版を命じられ、版元の蔦屋は身上半減の刑 を、京伝は手鎖50日の刑を受けた。順調に商売が拡大していた蔦屋にとっては大きな痛手であった。
 1792年、蔦屋は歌麿の美人大首絵を出版した。彼にとっては起死回生の事業であった。歌麿の大首絵はたちまち江戸の出版界 を席巻した。面白くないのは幕府である。だからといって、蔦屋や歌麿を安易に取り締まることはできなかった。彼らは江戸庶民の絶 大な支えの中にある傑出した人気者となっていた。下手な弾圧は、江戸民衆の怒りを呼び起こしかねないからである。まさに、「出す ぎた杭は打たれない」のである。そこで、当局は、弾圧の小出しを始めた。


 1794年、幕府は美人大首絵の町娘の名前を書くことを禁止する。歌麿は「判じ絵」でそれ に対抗した。左の美人大首絵には「なにわやおきた」とモデルの名前が左上に書かれてい る。右の絵は同じモデルであるが、名前を書くことを禁止されたため、画面の左上に「判じ 絵」(二つの菜葉・矢・沖・田と並んだ絵)でその名前が書かれている。しかし、その「判じ絵」 も1796年に禁止された。
 1800年、ついに、美人大首絵自体が禁止された。


  1797年頃から、歌麿は「働く女シリーズ」といわれる浮世絵を描くようになった。そこで描 かれる日々の暮しを生きる女の多くは「紫の着物」を着ている。左 図は、養蚕に従事している女を描いた浮世絵『女織蚕手業草』の 一枚である。桑の葉を取っている女たちが着ている着物は紫色 である。 また、『艶本 葉男婦舞喜(はなふぶき)』(1802)では、浮世 絵研究家から、「当時かくもこの色が流行したものと思えぬが、異 常な紫の使用」と指摘されるほどに、交合する男女の着衣の多く が紫色である(右図)。「歌麿はどうしてこのように紫が好きなので あろう」(林美一)か。
 紫は、本来は、地位の高い人の色であり、庶民には禁止された色である。自らを紫屋と号しなが ら、歌麿は庶民の男女にに紫の着物を着せることによって、武士の権威へ挑戦したのである(近藤史 人)。
 このように、知恵を絞って、歌麿は幕府へのレジスタンスを試みた。当局は、歌麿弾圧の機会を虎 視眈々と狙っていた。1804年、信長以降の武家については述べてはならないという禁を破って、『太 閤五妻洛東遊観之図』を描いたことの廉で入獄3日、手鎖50日の刑を受けることになった。トイレと食 事の時意外は、両手に鉄製の手錠を嵌められ、50日間、自宅で軟禁という刑である。絵師にとっては厳しい刑である。
 1806年9月 亡くなった。享年53歳であった。
 
 歌麿は幕府の禁令に抵抗しながら、絵師としての表現の自由を貫こうとした。彼はそのような行為が幕府を怒らせることを、そし て、当局が何らかの厳しい統制に出てくることを覚悟していた。「出る杭は打たれる」ことは覚悟の上での行為であった。そこには「ふ らふら」と揺れることもなければ、罰せられても「後悔」することもなかった。このような、歌麿の生き様が、『巴波川(うずまがわ)杭打ち の図』に添えられた、旧友通用亭徳成の狂歌 「出る杭の打たるる事をさとりなば、ふらふらもせず、後くいもせず」 の意味すること であった。

 集団生活には、成員が守るべき規範がある。それは、集団のリーダーにとっては、集団目標を達成し、集団を維持するために、成 員が守らねば成らない規範である。それに同調しない成員には罰があたえられる。すなわち、出る杭は打たれるのである。その罰を 避けようとして、多くの人は同調する。しかし、中には、規範それ自体の正当性を疑い、守るに値しないと確信する人がいる。そのよ うな人は、罰を恐れず、非同調行為に出るであろう。時には、新しい正しい規範を打ち立てようとリーダー達に立ち向かって行くであ ろう。もちろん、その試みは失敗するかもしれない。 歌麿はそのような抵抗の絵師であった。


参考文献
 拙著 『交換の社会学』(世界思想社 2005) 「第5章 同調と非同調」を参照。
 G.C.Homans, 1961, 1974 Social Behavior, Harcout Brase Javanovich..
  (拙訳 『社会行動』 誠信書房 1978)
 時田昌瑞 『図説ことわざ事典』 東京書籍 2009
 時田昌瑞 『絵で楽しむ江戸のことわざ』 東京書籍 2005
 浮世絵体系 (5) 『歌麿』  集英社 1973
 林美一+リチャード・レイン 『歌麿 艶本 葉男婦舞喜』 河出書房新社 1997
 リチャード・レイン 林美一 『歌麿の謎 美人画と春画』 新潮社 2005
 小林忠 『歌麿の美人』 小学館 2006
 近藤史人 『歌麿 抵抗の美人画』 朝日新書 2009


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