諺と格言の社会学



いつも柳の下には泥鰌はいない。  

  小学生の頃、よく田んぼにドジョウ(泥鰌)を獲りに行った。小さな手製の網で、泥 と一緒にドジョウをすくい上げた。夕方、そ のドジョウを竹で作った筒に入れ、その筒 を川底に沈め、一晩置き、翌朝、それを上 げると、その中には鰻が入っていた。もち ろん、その晩、その鰻は蒲焼にされ私の 腹に入った。
  土佐の田舎から、東京に出て驚いたこと は、鰻の餌であるドジョウを、人間が食べ ることであった。それは私にとって鮒の餌 であるミミズを食べると同じことであった。 今でも、ドジョウは食べることができない。
 私には、田んぼの何処を網ですくえば、 ドジョウが多く獲れるかは分かっていた。 それは試行錯誤で得た知識であった。し かし、今では、その田は農薬で汚染され、 ドジョウはいない。

 私にとって、ドジョウ獲りは遊びの一環であり、それは小学生で終わった。しか し、どぜう汁のために、ドジョウ獲りを職業とする人がいる。その人々にとって、ド ジョウには大きな味覚的かつ経済的価値があり、それだけ真剣に、ドジョウすくい に取り組む。ドジョウが一番よく獲れる場所が関心の的となる。

 そのような人が、ある時、ドジョウを獲りに行ったら、驚くほどたくさん獲れた。そ れが柳の下であった。他者から見れば、その時、たまたま柳の下にドジョウがい たに過ぎないが、ドジョウのほしい人にとっては、あまりにも多くのドジョウが獲れ たため、「柳の下に必ずドジョウがいる」という確信(迷信)を持つようになった。そ れ以後、彼は柳の下にドジョウを獲りに行くようになった。それを見て、世間の人 は「いつも柳の下にはドジョウがいるわけではないよ」と言って、彼の錯誤を笑っ た。彼自身も、そのうち、実際に、ドジョウが獲れないことを体験し、柳の下に行く ことを止めるであろう。

  この諺は、ドジョウ獲りという卑近な事例を通して、行動の一般的な傾向につい て述べている。アメリカの社会学者ホーマンズは、この傾向を刺激命題(stimulus  proposition) と命名している。ある行為が価値ある報酬を得ることに成功した時の 環境と、現在の環境が似ていると、人はその行為を繰り返す。このような過程を経 て、環境が行動を支配するようになる。この諺では、柳の木がドジョウ獲りという行 為を支配している。行動心理学の用語を使えば、柳の木という自然環境が刺激と なって、ドジョウ獲りという反応を引き出している。
 このように、成功した環境と類似した環境下で行為をするようになることを、刺激 般化(stimulus generalization)と言い、類似しているように見える刺激間の微妙な 差異を区別して、特定の刺激にのみ反応することを、刺激弁別(stimulus  discrimination)と言う。1 

 その環境には自然的なものあれば、社会的なものもある。この諺では、それは 柳の木という自然である。社会的なものは、例えば、 性別とか、年齢差とか、持 ち物とか、容貌とか、服装とか、住居地とかである。例えば、会社員ですばらしい 仕事をした人はほとんど男性であった。これが繰り返し見られると、会社は女性よ りも男性を多く雇用するようになる。ここでは、性という刺激に反応して雇用という 行為が繰り返されている。しかし、そのうち、いつも男がいい仕事するわけではな いという事実に気付き、女性を雇用するようになるであろう。病院で痛い注射をし た人は白衣を着ていた。その後、子供は白衣の人を見ると避けようとする。
 私たちが、人を外見で判断してはいけないと自戒するのも、この刺激命題によっ て強く支配されているからである。
 もちろん、この諺の例示するように、間違った刺激に反応することもあるが、多く の場合は、たくさんの経験や見聞を通して、どのような環境下で、どのような行為 をすればうまくいくかを学習して、人々は生活を円滑に進めている。

註 1 拙著『交換の社会学』(世界思想社 2005) 第2章参照。




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