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祇園祭の基礎知識


祇園祭は、歴史的には「祇園御霊会」といわれ、長い歴史のなかで何回かの危機に遭遇し、大きな変化をとげています。現在の「山鉾」中心の祇園祭が、歴史上での「祇園御霊会」とは随分違った印象を与えるのはそのためです。ここでは、そうした祇園祭についての基礎知識を紹介します。研究報告を聞くときの参考のひとつにしてください。

□祇園祭の成立
 平安時代前期、疫病を鎮める御霊会のひとつとして発展したのが祇園御霊会、すなわち祇園祭です。貞観11年(869)、神泉苑に66本の鉾を立てて、疫病を防いだのが最初だという説が有名ですが、現在の祇園祭の形式の起源を示すものとしては、天延2年(974)5月下旬、高辻東洞院の助正というものの居宅を旅所として「神幸あるべき由」の神託があり、助正を旅所神主とし、その邸宅を旅所として祭礼がはじまったという史料がもっとも古いものです。

□旅所と神輿
 東山の麓に所在する祇園社(現在の八坂神社)から、神々が三基の神輿に乗って、市中の旅所にお出でになり、そこで市中の人々から祀られる、というのが祇園祭の基本的な形式です。御出になるときの祭礼を神幸祭、お帰りのときの祭礼を還幸祭といいます。旅所はもともと高辻烏丸の大政所旅所と冷泉東洞院の少将井旅所の2ヶ所がありましたが、豊臣秀吉のときに四条寺町の同じ場所にまとめて移されました(四条新京極南側)。これが現在の祇園旅所です。

□山鉾の成立
 神輿を中心とする祭列には、奉賛的な馬長とよばれる華やかな風流とよばれる付き物や踊り、獅子舞などの芸能が付随していましたが、その後時代とともに新しい芸能を柔軟に取り入れていきます。山鉾も、もとはそうした風流芸能のひとつだったと考えられます。鉾の記録は鎌倉時代末期から見られますが、それは現在のような車のついた山車ではなく、剣が頭についた長い竿を立て、旗をひらめかして歩くような形態であったと考えられています。現在でも京都の他の祭礼に多く見られる「剣鉾」はそのような形式をもっています。

□神事と山鉾
 山鉾が現在のように巨大化し、豪華になったのは、14世紀のことです。このころ祇園御霊会は、延暦寺の訴訟によってたびたび延引されますが、そうしたなかで神輿を中心とする神事とは別に、本来付き物であった鉾が独立したのだと考えられます。こうして鉾は次第に巨大化し、同じころにおこなわれた「曲舞車」や「船」の影響を受けて現在のような車が付いて囃子手の乗る「鉾」の形態ができました。またほかに、中国の故事や日本の古典に取材した人形を乗せた「造り山」や囃子物の風流なども企画されました。少し後のことですが、天文2年(1533)の祇園会の延引の時、都市民は「神事」すなわち神輿の渡御がないにもかかわらず、自分たちの経営する山鉾風流の実施を求めています。その背景には、室町幕府の援助もあったようです。

□前の祭と後の祭
 山鉾はふたつのグループに分かれます。神輿が旅所に渡御するとき(神幸祭・現在は7月17日)のお迎えのための山鉾と、神輿が旅所から本社にお帰りになるとき(還幸祭・同じく7月24日)の山鉾とです。前者が「前の祭」で後者が「後の祭」です。昭和30年代になって交通事情等の諸事情により、「後の祭」の山鉾は、「前の祭」の山鉾と同日に巡行していましたが、一昨年、大船鉾の復活を期に、再び本来の巡行日(24日)に戻っています。

□駕輿丁(かよちょう)

 神輿を担ぐ人々を駕輿丁といいますが、祇園祭の神輿の駕輿丁は特定の人々によって担われていました。室町時代、大政所神輿(現在の中御座)は大坂・難波今宮の魚商人によって担がれていました。現在は、大宮商店街・錦商店街・四条繁栄会が三つの神輿を分担して担いでいます。