今よりもっと、とくべつに


  空にかかる雲は薄く、柔らかな日差しが世界を温かく照らす。
 休日にもかかわらず、読子は学園の敷地にいた。
 身につけた水色のワンピースはお気に入りの一着だ。ゆきなの部屋に呼ばれた以上、中途半端な服装で行くわけにはいかない。昨夜は何を着ていくのかあらゆる種類の服を試し、結果睡眠不足に陥った。今朝は今朝で眠りに落ちようとする脳をフル回転させつつも、口紅をするかどうかを迷い続け、結局色が決まらないので付けずに来てしまった。
 リップクリームぐらいは塗るべきだったか。
 ああすれば良かった、こうすれば良かった、と思いながらも読子の歩調は軽い。
 場所こそ知ってはいたが、読子が実際に寮へ来るのは初めてだった。
 学園の奥にある寮は青々と茂る木々から、飛び出すように建てられていた。煉瓦を模した外壁は、寮と言うよりも城壁のように見える。
 部屋へ遊びに来るよう誘われたときの絶頂感と不安。クラスメートには浮かれていると言われ、何とかそれを押さえ込んだ日々。言葉に出すことの許されない逢瀬。
 その悶々とした感情は苦痛ではなかった。妙なものだ。秘密のもたらすエッセンスは、甘さ一辺倒の恋路にほろ苦さを添える。抑制がもたらすのは負の側面だけではない。
 おっかなびっくり受付を済ませると、言われたとおりに階段を上ってゆきなの部屋を目指す。
 迎えを断ったのは、ゆきながどんなところに住んでいるのかを探検してみたかったからだ。 
 ホテルのような絨毯の床は綺麗に掃除されていて、読子の足音を静かに受け止めていく。
 本当は土足ではいけないんじゃないだろうか、と沸き上がる疑問に不安になりつつも、読子はあちこちを見て回る。
 窓は開かないタイプのようだ。人を見かけないのは休日だからなのか、出かけているせいか。廊下の両脇にある扉はそれぞれの部屋に通じているはずだが、人気が無いせいでどうも住居という感じがしない。それに周りを木に囲まれているせいか、場所によってはやや薄暗いのも寮の静寂を際だたせている。
 本当は無人だったりして。
 そんなことを思っていると、いきなりドアが開いたのでびっくりする。
「わあ!」
 思わず声が出た。
 普段着で出てきたその女子も、読子がいきなり大声を出したせいでびくりと身を震わせる。
 取り繕う言葉が思い浮かばなかったので、読子は気まずい思いをしながらも頭を下げた。
 相手も小さく頭を下げると、そのまま通り過ぎていく。
 ドキドキした。ひとりではあまり探検しない方がいいのかもしれない。
 ゆきなに会いに行こう。たしか3階だったはずだ。

 薄暗いのは2階までで、3階になると廊下から差し込む光が増えてだいぶ明るい。
 扉に掛けられた名札を見ながら読子は進んでいく。目にする名前は、みな知らない名前ばかりだ。寮の雰囲気からすると交流が盛んなようにも見えない。ここに住むということは、ゆきなにとってどういう意味を持つのだろう。
 いつか聞いてみたい、と読子は思った。
 何気なく目を通してつい通り過ぎてしまい、慌てて脚を戻す。
 宮影 ゆきなと瀬方 海の二人の名前。この部屋だ。
 ノックすればいいのだが、戸惑う。読子にとってこの部屋は特別だが、扉そのものが特別なわけではない。理解はしているが、間違っていたらどうしよう、という考えが頭の中をぐるぐると回る。
掛かっている名札にゆきなの名前がある以上、部屋を間違っているはずはない。
 深呼吸。一、二、三。
 扉をノックする。
「はいよー」
 伸びのあるアルトの返事。
 扉が内側に引き込まれ、浅黒く日焼けした女性が顔を覗かせる。
 知らない顔。それが読子を混乱させ、不安を煽る。
「あ、あのっ」
「えーと、本宮さんだっけ?」
 何で名前を知っているんだろう、と思いつつも読子はうなずいた。
「おーい、宮影。お客さんが来たぞ」
 呼びかけに応じて、彼女の想い人である宮影 ゆきなが顔を出した。いつもは制服で出会っているだけに、落ち着いたグリーンのワンピースが彼女の静謐な雰囲気を際だたせているように感じる。色違いではあるけれど服の種類はおそろいだ、と読子は親近感を覚えた。
 何がどう、と言うわけではないが読子の心に一つの文字が躍る。
 大勝利。
「いらっしゃい、読子」
 身長差は20センチ以上。読子を静かに見下ろす長身は、包み込むような微笑みで彼女を迎える。 高揚感で読子の全身が硬直した。
「き、今日はお招きいただきましてあああありが」
 ちゃんと動け、顎。
 と頭の片隅で思うが、緊張はそう易々とほぐれるものではない。
「そんなに緊張してないでお入りなさいな」
 ゆきなは開きかけのドアを片手で押さえ、読子を招き入れる。
「はいっ」
 部屋に一歩入り込んで、見回す。
 殺風景な部屋、というのが第一印象だ。壁紙は白に近いクリーム色。部屋の中央にテーブル、窓の側に机、それからベッドが二つ。機能を優先しているのか、プライベートな空間が存在しないように見える。
 読子にとってゆきなは「女性的なもの」の集合体であり、なんの飾り気もない部屋に住んでいるという事実に驚いた。
 それを緊張していると捉えたゆきなは、読子の肩を抱くようにしてテーブルまで導き入れる。
「さて、改めて紹介しなくちゃね。恋人の本宮読子ちゃん」
 臆面もなくそう言うゆきな。
 恋人という響きは少し恥ずかしく思う反面、誇らしくも感じる。
 読子は正対してゆきなのルームメイトを見た。
 ゆきなと同じぐらいの長身。日に焼けた肌とジャージの上からでもわかるがっしりとした体格。長い髪を結わえてポニーテールにしているゆきなとは正反対に、短くした髪。対照的な存在だ。
「あ、あの、はじまめして」
 恐る恐る挨拶してみる。
「あたしは瀬方 海。よろしくな」
 この人は、私よりもずっと長くゆきなと一緒にいるのだ。
 そう思うと、なんだか恋敵のようにも見える。ひょっとしたら油断のならない相手なのかも。
「どうしたの読子? 急に考え込んだりして。それとも海に見惚れた?」
「え、えと。その」
 そうではないのだが、説明が出来ない。
 固まった状態の読子に海が笑いかける。
「宮影はこう見えて結構意地が悪いんだ。あたしは気にしないから本宮さんも固くならないでくれ」
「はい」
「それより宮影、あたしのことは愛人って言わないのか」
 愛人という単語に反応して読子の脈拍がいきなり増大した。
 その真意を確かめるべく、ゆきなと海の顔を見比べる。
「このあいだ、断られちゃったからね」
 読子の心配を余所に、当のゆきなは涼しい顔で切り返した。
「な? こういう奴なんだ、宮影は。話半分に聞いておかないと振り回されるぜ」
「失礼ね。親しい人間には隠し事をしないだけよ」
「隠し事ねえ」
 海は疑うような口ぶりでそう言い、室内着代わりに着ているジャージのファスナーをあげた。
「どこ行くの?」
「あたしだってそこまで野暮じゃない。ちょっと走ってくる」
「何も恥ずかしがらなくてもいいのに」
「あたしを悪者にする気か。宮影も少しは気を遣え」
 そう言い残して海は部屋を出て行った。
 通りすがったときのウインクが腹立たしいほどに似合っていて、読子は複雑な気持ちになった。
「あの、引き留めなくて良いんでしょうか」
 突然二人きりになったことに戸惑いを感じつつ、ゆきなに尋ねてみる。
「気を遣ってくれたみたいだから、ここは甘えておくのが正解でしょうね。さ、立ってないで座って」
 促されて読子は椅子に腰かける。
「薔薇に囲まれた四阿でのお茶会ならちょっとは風情もあるだろうけど、狭い部屋でごめんなさいね」
 ゆきなも椅子に座り、お互いに向かい合った。
 座るといくらか身長差が縮まるが、それでも第三者から見たら大人と子供のように見えるかもしれない。少なくとも、中身に関してはその自覚があった。
 テーブルの上には電気ポットや紅茶を入れるためのティーサーバー、籐の籠には鮮やかな包み紙のチョコレートやビスケットが山と置かれている。
「瀬形先輩と仲いいんですね」
「まあ、一緒の部屋にいるんだから仲良くしないとね」
「うらやましいです」
 ぽつりと読子がつぶやく。
「いい子よ。同室でも気兼ねしなくていいのはなによりだわ」
「お二人は以前?」
 読子が神妙な顔で言うのでゆきなは吹き出す。
「心配してるの? 残念だけど、何もないわよ。得難い友人であることは否定しないけど、私と海はそれ以上ではないの。安心した?」
「何もなかった方がいいです。愛人とか言うからびっくりしました」
「嫉妬する読子も可愛いと思うわ」
「浮気は駄目です」
「しないわよ。安心なさい」
 ゆきなは笑ってテーブル脇に置いてあるポットを手に取った。
「さて……海が居なくなったのは誤算だったわ。お茶菓子も飲み物も3人分用意したのに」
 少なくとも、籠に入ったチョコレートは10人分はありそうだった。
 ティーサーバーに茶葉を入れてポットの湯を注ぐ。ベルガモットの淡い香気が蒸気に乗って拡散し、部屋いっぱいに満ちる。
 覚えのある香り。
「アールグレイですね」
 読子はサーバーの中で踊る茶葉を見つめて言う。
「好きなの。気持ちが落ち着くしね。本当はグラン・マルニエがあれば良かったんだけど、紅茶に入れるためでもやっぱりお酒は許可して貰えなかったわ。秋摘みのダージリンに一滴落とすのが一番好きなのだけれど、贅沢は言えないわね」
「紅茶にお詳しいんですね」
「まさか。ただの半可通よ」ゆきなは落ちる砂時計の砂を見つめて言った。「お茶受けに凝れなかったのは残念だけど」
 砂時計は時間を視覚化する。
 落ちていく砂の量は、読子が座ってからの時間。ティーサーバーで上下していた茶葉は落ち着きを取り戻している。
「頃合いね」
 そういってゆきなが紅茶を注いでいくと、柑橘の香りが読子の鼻腔を撫でるようにくすぐった。アールグレイは飲んだことがあるが、ゆきなの注いだそれは読子の知るものとはどこか違った豊かさを感じさせる。
「わぁ……いい香り」
「読子の口に合えばいいのだけれど。砂糖はいくつ?」
「えーと、四…じゃなくて三ついいですか?」
「四つでもいいのよ」
「え、えと、じゃあ四つ……」
「読子は甘いのが好きなのね」
「友達によく笑われます」
「私は笑わないわ。海も紅茶を入れると砂糖をたくさん使うのよ。そのチョコレートの山も半分は彼女のためのものだし」
 また瀬方 海の名前が出た。
「せっかく二人きりなのに」
「そうね。読子と居るのに他の女の話をするのは野暮だったわ」
 ゆきなは少しだけまじめな顔で謝罪すると、ティーカップを読子に勧めた。
「いただきます」
 子供じみた嫉妬のようでばつが悪い。
 自分の幼さを嫌悪しながらも、読子はカップを手に取り、口を付けた。
 赤みを持った琥珀のような水色。甘いのは自分が頼んだ砂糖のせいだが、その甘さの中でも読子の苦手とする渋みがほとんど感じられず、代わりに抜けるような柑橘の香りと紅茶自身の香りが口中に広がっていく。
 アールグレイという紅茶は知っている。知っているが、これは別物だ。味に疎い読子でさえ判る。これは特別なものだ。
 芽生えた憂鬱さを流し去っていくような清冽さ。
「感想は、その顔で十分よ。夏になったらアイスで頂いても、なかなかの物なのよ」
 ゆきなは微笑んで自分もカップに手を付けた。
「道は迷わなかった?」
「はい、大丈夫です」
「良かった。迎えを断ったから、ちょっと心配だったのだけれど」
「でもこんなに大きな建物だとは知りませんでした」
「ホテルみたいでしょう。お風呂や食堂は共用だけどね。全部で百人以上住んでいるんじゃないかしら」
「そんなにですか?」
「二人で一部屋だけど、一つの階に10部屋くらいあるから少なく見積もってもそれくらい居ると思うわ。基本的に部屋の空きはないし」
「空きはないんですか……」
「読子、そんな顔をしても私は今年で卒業してしまうのだから相部屋は無理よ。それに部屋割りは勝手に決められてしまうものだし」
 そうだ。ゆきなが学園にいられる時間はもう一年を切っている。
 こうしている間にも、砂時計の砂ように残り時間は減っていく。戻ることはない。
「そうですね……先輩と一緒に居られる時間はどんどん無くなっているんですよね……」
「まさか貴女、私に留年しろというつもりじゃないでしょうね」
「そんな!」
「冗談よ。留年なんてしたら寮にいられないわ。ここ結構規則厳しいのよ」
 ゆきなはティーカップを置いた。
「せっかく海が気を利かせてくれたんだから、二人きりでないと出来ないことをしないとね」

 


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