群青夜話

 自分の体に違和感を感じるようになったのはいつからだろう。
  小学生、いや幼稚園ぐらいからだろうか。
  私は、私の体が嫌いだ。
  これは本当の私ではないのだ。
  ずっとずっと、それを誰にも話せずに来た。
  私は男に囲まれているのが嫌だった。
  私は、自分が男であるという事実を認めたくはなかった。
  間違っているのか、自分が異常なのか、それさえも判らなかった。
  だから友達も居なかったし、今も居ない、といえる。
  世界は排他的なのだ。
  私は不純物で、異端者だった。
 
  自分の感じている違和感の正体を知ったのは、高校に入ってからだった。
  それは、「性同一性障害」と言うらしい。
  病気なのだ、と判ると少し安心した。
  自分を包む現状が変わるわけではないにしろ、違和感に名前がつき、それが病気なのだ、障害なのだ、と判ればそれはもはや得体の知れない物ではなくなる。
  怪物が恐ろしいのは、その正体がわからないからだ。
  私にとって幸いだったことは二つ。
  童顔だったことと、二次性徴が遅かったことだ。
  おかげで女の格好をするのにこれと言った不自由はなかった。
  通販のおかげで、服を買うのも下着を買うのも苦労はなかった
  だが、それを家族に隠し続けるのも限界がある。
  私が女としてのアイデンティティを持つことに、最後まで反対したのは意外にも母だった。
  父親は真っ先に賛成してくれた。
  私が普通の男ではない、というのはどうもかなり前から察していたようだった。
  それならそう言ってくれればいいのに、とも思ったがそれは酷な話でもあるだろう。
  息子が、本当は女になりたがっていると言うことは想像の及ばぬ事ではあったに違いない。
 
  そんなわけで私は転校し、そこで「女」になった。
  もちろん、私はそこで異端の存在だった。どうやって調べたのか、私の過去を詮索してくる人間もいた。好意的に受け止める者もいた。同情する者も。
  いくらか精神的に不安定な時期を経て、私は自分が女だという自己を確立しつつあった。
 
  そして。
  私は恋をした。
 
  出会いがどうだったのか、どんな会話をしたのか、あまりに緊張しすぎて覚えていない。
  ただ、よく笑う人だった。
  一緒にいて、楽しい。
  自然と一緒にいる時間が増えて、それは私の心によい作用をもたらした。
  それと同時に澱もたまっていった。 
  私は、厳密には女ではない。だから彼が望む物を与えられるとは限らない。
  ともに過ごすことは楽しいが、そこから先に進むことは出来ない。
  その先には相応の覚悟が居るから。
  私が悶々としていると、逆に彼の方から私と付き合いたいと言ってきた。
  もちろん断った。
  無理なのだ。先に行くのは。
  食い下がる彼に、仕方なく事情を説明した。
  私は嫌悪されることを覚悟した。
  ところが彼はそれを意に介さなかった。
  むしろ、それまで以上に私に優しくなった。
 
  変な男だった。
  私のどこがいいのか、と尋ねると「全部だ」という。
  胸の薄いことを話すと「それがいい」という。
  まるで話にならない。
「なんで?」
  彼は心底不思議そうにそう聞きかえす。
  私がそう思うことが理解できないらしい。
 
  喧嘩もした。
  薬のせいで、気分が不安定だからだったと思う。
「こんな体だからって同情しないで!」
  彼も怒った。
「同情でこんな事が出来るか」
  一言いって、じっと私を見つめてきた。
  真剣で、それでいて怒気を含んだ、怖いぐらいに強烈な視線だった。
  互いにそのまま見つめ合った。
  目をそらしたのは私の方だった。
 
  肌を重ねた。
  これはとても鮮烈な体験だった。
  そこに至るまでの過程とか、やり方が判らなくて四苦八苦したのは、今では笑い話になっている。
  睦言を囁かれると頭がぼうっとする。
  肌と肌が触れあうと、汗で隙間が埋まってぴったりと吸い付く。
  昂ぶってくると、自分に残っている男性も反応してしまうのが、少しだけ気持ち悪い。
  私に触れる彼は、そんな事をまるで気にしない。
  まるで壊れやすいガラス細工か、陶器の人形のように、優しく、滑らかに扱う。
  綺麗だ、と囁かれるとその瞬間だけはあらゆる事を超越して、自分が愛されているのだと実感する。 
  彼が中に入ってくると、それがまるで自然なことのように受け入れられた。
  体よりも、心が一つになったような、深い一体感。
  普通じゃないのかもしれない。
  でも、それでも何となく出来てしまうのは人間の不思議なところだ。
  ひょっとしたら、こういう時の仕組みが本能に残っているのかもしれない。
  枕元でそう話したら、ボノボという猿にそう言う例があるのだという。
「そっか。猿に出来るんじゃ私たちに出来て当然だね」
  そう言ったら腹を抱えて笑われた。
 
  ある日私が性転換を、つまりは男性器の切除を考えていると猛反対した。
「なんて勿体ない!」だそうだ。
  薬は仕方がないが、体にメスを入れるのは、つまり手を加えるのは傷も残るし良くないことなのだという。
  が、その後何か考えるところがあったのか、近頃は反対しない。
  よく考えて実行しなければならないが、もし結婚するとなれば道が一つしかない。
「そういうときは、海外へ行こう。海の向こうには、そのままでも平気な国がある」
  彼は気楽に言う。
 
  私は黒でも白でもない位置に立っている。
  私はどちら側にか属さなければいけないのだと思っていた。
  私は、それを、物理的にも克服しなければならないと思っていた。
  迷っているわけではないが、強迫観念に駆られることはなくなった。
  
  ある日、願いが叶うなら何を願う、と聞いたことがある。
  答えは「私の願いが叶いますように」だった。
  そうまでしてくれても、想ってくれていても、私が彼に与えてあげられる物など無いのに。
  彼は首を振る。
「俺の人生に意味はなかった。だけど今は意味がある」
  いまわかった。
  この男は馬鹿だ。
 
  指を絡める。
  それは、どんな鎖よりも頑丈な繋がり。
 
  また朝が来る。
  


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