ボタン


 

彼は、ふとそのボタンに気が付いた。
そのボタンは、ビルの壁にぽつんと存在していた。
人通りの多い路である。林立するビルの、何の変哲もない壁面の一つに、それはあった。
だいぶ前からあるのだろう、プラスチックのボタンの表面には擦れた傷があり、ボタンそれ自体も摩滅して中央の部分が僅かに凹んでいた。
ボタンを縁取る真鍮の板は、やはり多くの人に触れられて表面が滑らかになるほどだったが、其処に書かれた文字はつい今し方彫り込まれたかのようにはっきりと読みとることが出来た。
 
「このボタンを、押さないでください」
 
わざわざそう書かれている。
しかしそれは明らかに多くの人間によって押されているのだった。
それを押すとどうなるのだろう。
彼は好奇心に駆られた。
押して欲しくなければ、わざわざこんな所に付けなければ良いではないか。
何か覆いをするとか、目に付かないようにすればボタンが押される可能性はぐっと少なくなるだろう。
にもかかわらず、ボタンは剥き出しのまま壁に付いているのだ。わざわざ、真鍮の板で目立つように装飾されて。
それは、ひょっとすると、押さないでくれと書けば誰かがきっと押すだろう、押さずには居られないだろう、という心理を巧みに突いたものなのかも知れなかった。
新手の広告の一種なのかも知れない。
そういえば此処は人通りも多いし、華美な装飾の服や宝石の類を扱う店もたくさんある。
ははあ。
彼は思った。
このボタンを押すと、きっと何やら宣伝の文句がどこからか流れ出したりするのだ。
そうとも、そうに違いない。
 
彼はボタンに触れ、ちょっと躊躇ってからぐいと押し込んだ。
ボタンは、小さなカチッと言う音を立てた。
手を離すと、バネの仕掛けでまた元に戻ったが、何も起こらない。
彼は雑踏の中で、耳をそばだてたがそれ以上何も聞こえては来なかった。
少しの間待ってみても、何の変化もない。
故障しているのかも知れない。
だから、押さないでくれと書かれていたのだ。
なるほど、確かにそう考えればつじつまは合う。
いささか拍子抜けしながら、しかし小さな緊張を与えてくれたボタンに、少し親しみを感じながら彼はそこを後にした。
 
 
ふと、向かいの角から恐ろしい悲鳴が聞こえてきた。
続いて何かが衝突するような音、煙。
 
彼は振り返り、ボタンを見た。
ボタンは其処にある。
しかし、彼には判っていた。
これが始まりに過ぎないと言うことを。


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