混濁。精神攻撃に翻弄される。
この俺が。
このまま死ぬのか。
精神の死は肉体の死にはつながらないだろう。……通常なら。
心臓の止まりかけている今なら、精神も肉体も同時に召されることだろう。セットでお得かどうかは判らないが。
まいったな、これは。
諦めに入り、意識を無に委ねようとした瞬間、凄まじい苦痛が胸から起こる。
心臓が壊死?
いや、胸にめり込んでいるのは人間の腕だ。
細い、白い手。その冷たい指が俺の心臓を掴み、規則正しいリズムで揉んでいる。
目の前には女が居た。あの女だ。
心臓を握る手。死神か?
このまま引き抜かれたら、苦しいなどと思っているまもなく逝けるだろう。
成る程、なかなか官能的な光景かもしれない。
などと自虐的なことを考え、ようやく気付いた。
白く染まりかけていた視界が、徐々に明瞭になっていく。
徐々に、白から黒へ。この世界の唯一の色彩、俺の象徴へと。
胸に吸いこまれていた腕が引くと、長らく忘れていた音が耳朶を打つ。
どくん。
直接、心臓マッサージを施したのか。
どくんどくん。
それにしても動悸が早い。
息苦しさを感じるわけではない。呼吸は正常だ。脈拍も問題ない。なのに、心臓だけが 加速する。
なるほど。心臓マッサージの代金というわけか。
脳に血液の行き渡る感覚。酸欠気味の脳が浄化されていく。
そんなイメージ、か。
どうやら俺の守護天使はもう少し俺に生きろ、といってくれているらしい。
四肢に力が巡り、意志が回復する。
生きてて良かった。ウイスキーは手元にないが。
先ほどの瀕死のイメージは相手に伝わっただろうか。
こちらも命を懸けた傑作だ。しっかり受け取って欲しいもんだ。
死にはすまいが、脳へのダメージは免れないだろう。無力化できればそれもよし、駄目でもしばらくはちょっかいを出してはこれまい。
それにしても、マリスの家に居候の身になったとはいえ、こうもたやすく精神攻撃の的にされるとは。
相手が半身を媒介する限り、俺に逃げ場はないって事だ。
俺は苛立ちとともに壁を殴る。
くそ! 自分の半身ながら、なんて忌々しい。
俺は我に返り、目の前の壁を見つめた。意識を取り戻したというより、その形容の方が正しいだろう。
実際に壁を殴っている。気が付けばベッドの上だ。
それもそうだ。意識の中は暗闇だった。殴る壁があるはずもない。
俺は、苛立たしげに舌打ちした。現実との境界も曖昧か。
ベッドから下り、身支度を整える。椅子に掛けてあった上着を羽織ると同時に、マリスが現れた。
「出かけるの?」
ああ、と答えかけたところへ、ハイキックが炸裂した。
よける間もありゃしない。横薙ぎに吹っ飛ばされた俺は、無様に壁へ叩きつけられた。
…………ベッドの外は等しく地獄か。
「そんなのも避けられないのなら、寝てなさい」
寝起きにハイキックをされて避けられるような奴がいるものか。
「……『スモーキー』に用があるんだよ」
俺はふらつく頭を押さえながら這い上がった。
「ソウル・サルベージャーの? 何でまた、あんな奴のところに?」
確かに、マリスにはソウル・サルベージャーなど非合法すれすれ、胡散臭さ極まりない仕事にうつるだろう。
その名がネットワーク・レスキューの俗称であったのはもう昔、今では他人の脳を自由に出入りするマインドハッカーを指す。
「俺は、仕事を人間性や法律で評価しない男なんでね。誰であろうと、出来る奴に頼む。それがスマートなやり方だろう」
「それがトラブルの元だと思うけど」
「トラブルのない人生なんて願い下げだ。俺には道を照らす灯火もあるしな」
「何よそれ」
「君のことだよ、マイハニー」
マリスは少し考え込むような仕草をする。
「……打ち所が悪かったかしら」
ショック療法とばかりに足を振り上げるマリスを、俺は必死に両手で制した。
「それ以上蹴られたら、本当にバカになるだろうが」
「冗談よ」
嘘だ。目は笑っていなかった。
「それで、何のようなの?」
「精神干渉の防護策を聞きに行く」
「分かった。……ちょっと待って」
「……付いてくるのか?」
「灯火らしいから」
余計なことを言ってしまった。俺はこっそりため息をつき、そう思う。
ソウルサルベージャーは、人間の精神に関しては神懸かり的なほどの知識を持っている。文字通り、魂に関する全てを。
別に俺はそんなものを知りたいとは思わないが、それでも彼らの持つ知識と技術は幾度となく俺を助けてくれた。目的と意義は違えども知識は武器になる。
彼らの仕事が無意識から有意義な意識を引き上げることだとしても、それが精神改造に当たる行為であるとしても、俺は彼らを蔑んだりはしない。
彼らの元を訪れるのは、そうした魂のサルベージを必要とする人間ばかりだ。
必要なものを与えてくれるというのに、それを無理に否定したり排除したりすることもない。
全てはギブアンドテイク、だ。
倫理観など現実を知らないボケナスどもが、机の上で考えた戯言にすぎない。
必要なら与える。求めるなら探し当てる。
生きると言うことはそういうことだ。
「それだけしか知らないの?」
支度を終えたマリスが戻ってきた。今日も見目麗しい。
「どういう意味だ?」
「おめでたい人」
話を聞いて納得した。前言撤回。非合法ギリギリの連中ではなく犯罪者だ。
つまり、以上が「表」の連中だ。問題なのは「裏」の連中らしい。
ソウルサルベージャーが扱うのは知識。その命は脳。
脳の摘出。記憶の抽出。そして、集合意識野からの発掘。それが裏の稼業だ。
発掘。というより盗掘というべきか。集合意識野には、人類の英知の全てが含まれている。
意識の海の底、無意識の下、太古の海。そこから歴史を引き出し、情報化、物質化する。
マリスが心配しているのは、つまりそういう奴らの事らしい。
培養液の代わりにウイスキーを流し込んでくれるなら脳だけの生活も悪くないのかもしれないが、隠居するにはまだ若すぎる。
スモーキーの奴がそういうことはしない、というのは判っているが、確かに急に気が変わったりすると危ない。
しかし、探知系の能力者は知り合いにいないし、精神攻撃関連で攻めではなく防御についてだとゴールディの奴は当てにできない。一番安全で、確実性が高く、信用のおける人物、といえばスモーキー以外には考えられなかった。
「で、ルートはどうするの?」
「ダウンタウン経由だな。物好きでもない限り、あんなところまで追跡する奴は居ない」
「物好きがいたら?」
「俺に近づくまでには身ぐるみ剥がされて墓地に入ってるよ」
「物騒ね」
「馴れると居心地がいいぜ」
俺はコートを羽織り、ドアを開けた。フラスクがないのは寂しいが、取り返そうとして撲殺されるよりはいい。
「馴れてるの?」
「懐に気をつけてないと危ないくらいには、な」
古巣。そんな呼び方も出来る。「十六夜」の名はまだ十分通用するだろう。
通りすがりのチンピラが、礼儀正しくなる程度には。