思索を打ち切り、温くなったタオルを冷たいものと取りかえる。口の上に手をかざすと、湿気を帯びた息が肌を濡らした。
熱は多少は下がったようだ。呼吸も規則正しいもので、苦しそうではない。解熱剤と抗生物質、栄養剤のアンプルは、予想以上に早く効果をもたらしてくれたようだ。十 六夜自身の回復力もあるのだろう。
安心すると、どっと睡魔が襲ってきた。他人の命を奪うのには何の抵抗もないが、その逆は神経をすり減らす作業だった。壊すのは簡単でも、治す、維持するのは難しい。この世界はそういう風に作られている。
まだ温かい紅茶を飲み干す。急激な目覚めは期待できないが、この温もりとカフェインが徐々に意識を覚醒させるだろう。
紅茶の温もり。
甘い香りが嚥下され、浸透していく。それが身体に広がる感覚は、人との接触で得られるものと似ている。
触れ合うことで互いの暖かさを感じる。言葉を交わすことで、魂に触れる。人はそういう形でしか互いを理解出来ないし、そうすることで最も深く相手と繋がる。
絆。
そんなものにすがる自分。
日常的な錯覚。
それらが、ささくれ立った神経を痛いほどに削る。切れそうなほどに、細く、脆く。
前々から気にはなっていたことがあった。
アブソリュートは赤くないものを喰らい、宿主に活力を与えるという。管理局のランキングでは2流のBランクだ。有用性から言えば大したものではない、という分類のされ方をしているのだろう。
だが十六夜の衰弱はただごとではない。
この闇は、何かの特性を持っているのではないか。
活力を与える代わりに、何かを奪っている。そんな感じがしてならない。
十六夜は滅多なことではそれを行使しない。能力を使うことを躊躇いはしていないが、確実に状況を選んで使っている。それは、普通の能力者の考え方とは違う。十六夜は能力者であるにもかかわらず、能力に依存することがない。強い克己心の表れか、力への不安故か。
謎が多い。守る者が何もないから、誰もこの男の本当の姿を知らない。
過去を知ることは出来る。だが、十六夜という人間を知ったことにはならない。
この男は何者なのか。
誰もその答えを知らない。
「深淵なる」十六夜。誰がつけたのか知らない通り名だが的を射ている。
その深い溝には何が埋まるのだろろうか。
……いや、彼ならこう言ってのけるに違いない。
「おれの半身を埋めるのさ」と、気障に。
……はたして、本当にそうだろうか?
答えは、否、である。
十六夜の望みは半自己の否定であって、自己との合一ではない。
多くの人間が半身との融和を望むというのに、この男は殊更にそれを拒絶する。
いやむしろ、憎悪の対象としているようにさえ見える。
そうである以上、彼の深淵は永遠に満たされない。何かの為の深淵ではなく、深淵であることが彼なのだ。
底知れぬ性格故の比喩。能力故の異称。
そんなものではない。
誰もが持つ、心の闇。その深さは深淵。
それ故の深淵。
埋めるとしたら?
それは屍だろうか。自分と同じように。
餓えた身を危険に投じるのはその裏返しなのだろうか。
彼が望むと望まないとに関わらず、トラブルは向こうからやってくる。まるで自らが引き寄せるかのように。それでも彼は、逃げようとはしない。逃げる振りをしながら、核心へ近づいていく。
その行動理念は時に自暴自棄にさえ見える。
見ていて不安になる。
十六夜には死んで欲しくない、と思う。
死ぬべき人間はたくさん居る。
殺すべき相手も数多くいる。
同様に自分を狙う者、十六夜を狙う者も数多くいる。
それでも、だからこそ、十六夜には生きていて欲しい。守ってやりたい。
もしも自分が十六夜を守れる立場なら、迷わずそうするだろう。
過去、おそらく今現在に於いても、彼が私に対してそうであるように。
けれど、だからといって、私には彼の溝を埋める資格はない。
私も、彼で溝を埋める気はない。
怖いから。
満たされるのが。
今なら、怖くない。失うものがないから。盲目でいられるから。
でも、満たされれば、失う可能性が生じる。それが怖い。
安寧で心を満たすのは、甘露にも似た臭いで魅惑する。そこに群がれば分かるのだ。蛍を覆う檻は恐怖であるということに。
だから、血で満たそうとする。
辛い水は安全だから。憎悪の檻は見えるから。
胸の痛みに耐えるように、きつく自分を抱きしめる。誘惑に負けないよう、檻よりもきつく、ギュッと。