寄せては返す、波のように
亜麻色の髪が光に透けて輝いている。金の糸を寄り合わせたようなその髪が、動くたびに揺らめき、跳ねる。
六道家でたった一人のメイド、榊明香なくしては、この屋敷は何事も機能しない。
その陶磁のような白い肌と亜麻色の髪は見る者を魅了するが、没個性を装うかのように前髪は長く伸ばされ、瞳を覆い隠している。顔の半分が隠されているのに不便ではないのか、と聞いたことがあるが笑って返されただけだった。
素性も知れない謎めいた女。けれども、屋敷の主である六道はそれを意に介したことはない。
誰にでも秘密がある。無論、自分にも。
だからこそ人は生きていける。秘密とは人の業そのものだ。
押し隠している秘密は取るに足らないものかもしれないし、そうでないかもしれない。
今はそのほとんどを手放し、ただ虚ろに日々を繋ぐだけだ。
秘密を知りすぎた人間をなぜ生かしておくのか。六道は自身が秘密という存在になっているからだ、と思っている。何もかも知っていると言うことは、自分が知らないことを知っているかもしれない。不透明さによる恐怖。白いシーツの黒い染み。
汚れを取り、漂白できるならいいだろう。だが生地は傷むし、綺麗には落ちないかもしれない。
染みの付いたシーツは「白ではない」。
だが染みを模様と言い張る限り、それは白いシーツであることを汚さない。
六道とはそういう男だ。
本人が望むと望まないとにかかわらず。
六道が死ぬことを望む者がいるかもしれないが、彼が死ぬことによって不利益を被る人間はその数倍居る。結果として六道は殺されない。代わりに彼らの欲しいものを少しずつ切り売りする。
六道家は代々そうした家系だった。
秘密を扱い、秘密そのものであり続けた家系。六道自身はそこに何もないことを知っている。だが人はそうは思わない。
何の生産性もない、無意味な仕事だ。しかし、時としてそれは馬鹿馬鹿しいほどに富を生むことがある。
この屋敷こそがその産物に他ならない。
自分一人の手では管理も出来ない建築物。無意味に広い庭。他人から干渉されないよう郊外の森の中に立てられた最悪の立地条件。
生きることにも倦む六道にとっては、豪華な墓碑以上の建築物ではないその屋敷を、嬉々として管理する女。六道にとって榊明香という女は、不可解という単語の具現だった。
広い屋敷の中を、明香は気忙しく走り回って仕事する。
本人はそれを金のためだとうそぶく。
六道には、それが理解できない。
これほどの能力を持っているならいくらでも使いようはある。こんな森の一軒家で汗水垂らすのは割にあった仕事ではない。
「金のためというお前の信条が、私にはよく判らんな」
六道は賞賛とも呆れともつかぬ口調でそう言った。
「お金に善悪はありませんもの。わたしのような人間にとっては唯一の寄る辺ですから、お金は大事ですわ。命の次、くらいには」
六道の言葉に、明香は微笑を浮かべてそう答える。
「だが金の力とて、いつかは尽きるだろうし、意味を成さないこともある」
「かつては文無しだった身ですから、無ければ無いでどうにかできるとは思いますけれど。放浪して十年で六道家メイド長の座を得たんですから結果としては大いに良し、ですわね」
皮肉ではなく、明香は本気でこういう事を言う。
「メイド長などと言っても、後にも先にも雇うはお前一人だけだ」
「ほかの人を雇おうとは思ってらっしゃらない? 」
「お前より働く女は居ないからな。お前ほど屋敷に精通している人間も、手入れを心得ている人間も私は知らない。
そして何も文句が無ければ、別の人間を雇う必要が無い。それとも、人手が必要なのか?」
六道の問いかけに、明香は肩をすくめた。
「いれば楽でしょうが、きっと不満が出るでしょうね。少なくとも、自分と同等の仕事が出来る人で無くては」
速度、精度、質。それらを満たす人物が居るとしても、こんな所へやってくるわけがない。
「では、無理だな。しばらく面倒をかける事になる」
「好きでやっていることですし、お給料を払っていただける間はいつまでもお屋敷にいさせていただきますわ」
「払えなくったらどうする気だ?」
「さあ。逆に私が貴方を雇うかもしれませんね。館の主として」
「主人を雇うメイドなど聞いたことがないな」
「わたしは誰かのためにしか働くつもりはありませんわ。自分のために働くのは、一度きりです」
「本当に、それでよかったのか?」
だが、その問いに意味がない事を六道は知っている。彼女自身がそう定めて、六道はそれを受け入れた。そして、それらは全て終わった。
「そうでなければ、こうしてお屋敷にいることはありませんよ」
だから、この答えにもたいした意味はないのだ。
「お前は自由であるべきだし、義理は十分果たしている。待っている人間がいるなら、帰ってもいいんだぞ」
「さて、そう言われましても……郷里を辿っても待つ人も居りませんし、根無し宿無しのわたしには、ここだけが帰る場所ですので」
「物好きな女だ」
「こんな素性の知れない女を手元に置いておく貴方こそ、物好きだと思うのですが?」
ある嵐の夜に彼女はこの屋敷を訪れた。
六道が望んだわけではない。だが彼女の能力は、他人を寄せ付けぬ六道さえ驚嘆せしめるほどだった。よって六道は彼女を雇うことにし、現在に至る。
彼女を屋敷に置いたのは「便利」というただそれだけの理由だったが、そんな彼自身の性格も織り込み済みだったのが明香の計画なのか、死せる友人の物であったかは判らない。
どちらにせよ、六道には興味のないことだった。
「得がたいからな、お前は。本当に価値あるものは、この世に僅かしかない。私自身は無価値だが、価値のある無しを見極めるぐらいの目は持っている」
「お褒めに預かり恐縮です」
「調度品は目で見て楽しむだけだが、お前の作る食事はそれ自体が芸術と来ているからな。それだけでも賞賛に値する」
食にも無頓着な六道だが、明香の作る食事には期待せざるを得ない。
「そんなにおだてても、今日の食事は秋刀魚の塩焼きですよ?」
「十分じゃないか。私一人なら、贅沢をしてもレトルトの白米とインスタントの味噌汁だ」
「贅沢してそれですか……せめて宅配のピザを頼むとか」
「玄関まで行くのが面倒だ。それにこんな山奥まで配達に来るのは嫌だと見えて、どの店も渋るからな。酒があれば一食二食抜くくらいはどうということもない」
「……これだから一人にしておけないんですわ」
「お前あっての私だからな。感謝している」
「由梨香ちゃんのお話もあながち誇張ではなかったのですね」
そういって明香は苦笑した。親友の忘れ形見、今は六道をおじと慕う闊達な少女は、明香が屋敷を空けていた時期に六道の面倒を見ていたことがある。
「私が思うに、たぶん誇張だと思うが」
「あら。『ちゃんと食事をしないからおじ様死んじゃう』だの『私の手には余る』だの、『老人並みの介護が要る』だの、それはそれは大変な勢いで説得に来たのですが」
明香が屋敷へ戻ってくるきっかけを作ったのも、そういえば由梨香だった。お節介なところは友人によく似ている。
その間は由梨香自身が六道の身の回りを世話していたが、六道自身に手を焼いていたことは十分に察しがつく。
それは確かに誇張では無いな、と六道は思ったが口には出さないことにした。
「わたしと貴方はそんな関係の方がいいのかもしれませんね」
「それはとても残念な話だ」
手を伸ばす。
六道の指が明香の前髪をかき分ける。亜麻色の前髪で隠された、水晶のような薄いグレーの瞳。それは榊明香という異邦人の証。
「それだと、お前に面倒をかけていなくては此処に居て貰えないことになる」
「さあどうでしょう? そんな日が来るとは思えませんが」
「運命などわからんものだ。私がこうして生きていること自体、不測の事態ということも出来る。お前が気が変わって出て行くことがあるかもしれん」
「では、引き留める手段を講じてくださいませ」
「さて。給料を支払う以外に私に出来ることはないな。それに私は選ぶ立場にない」
「主体性のない主人ですこと」
「これでも、それなりに気は使っている」
「わかってます。お掃除の時は、部屋から出て来ませんものね」
「手伝うより邪魔をしないほうがいいこともあるからな」
自分でも判っているが、六道自身は家事に関して無能だ。と言うよりやる気がない。明香の邪魔をしないことが最良の行動だと言うことは自覚していた。
「たぶん、そんな意図だと思っていましたわ」
「そうか。では、これからも当分世話になる」
「それがわたしの仕事ですので―――さしあたって、お茶でもいかがです? ドライフルーツ入りのスコーンなどございますが」
「素晴らしいな」
「かしこまりました。すぐにお持ちいたしますね」
時が止まったかのような日々。生きる意味を失っていた男。居場所の無い女。
舞台劇のような、閉じた世界。それでも日々は巡る。
もし運命と言うものがあるとすれば、それを変えたのは明香の存在だ、と六道は思う。
だからこそ。
「お前ほどの有能な女が、こんな辺鄙な屋敷住まいと言うのも勿体無い話だな」
「あらあら。可笑しなことを仰いますこと」
亜麻色の髪を波打たせて、明香は振り返る。
「わたしの主は後にも先にも一人きりですのよ」