水晶の楔


 周りはすべて闇だ。
 腰まで漬かる水もまたもオイルのように粘ついた闇で出来ている。
 ここはどこだろう。
 光はない。自分がどこでどうしているのかもわからない。
 ずっと手さぐりで歩いているが、出口らしいものはない。
 まとわりつく闇が著しく歩行を妨げる。
 幾ばくかの距離を進んでから周囲の異変に気づく。
 今まで腰の当たりだった闇が、今は胸元まで競り上がってきている。
 恐怖。
 もがけばもがくほど、闇のなかへ沈んでいく。喉元まで迫る闇が不気味な実感を伴って体を侵していく。
 肉の一片、細胞の一つ一つまでが闇に満たされ、崩れていく。
 手を伸ばしても空を掴むだけ。
 口のなかまで流れ込んでくる闇が、すべてを吸い込んでしまう。
 言いようのない恐れが精神を内部から掻き乱し、破壊する。
 絶叫。
「………、………様、大丈夫ですか!」
 目を覚ます。
 明香が私の顔を覗き込んでいる。
「随分うなされているようでしたが……」
 悪夢のあとに見る明香の姿は、不思議な安堵感を私に与えてくれる。
 普段後ろで縛られている髪はほどかれているため、別人のように見える。
 薄いピンクのパジャマが、なんとも彼女らしい趣味だ。ピンクという色は元来女らしい色と言われているが、実際は違う。微妙な色だけに人を選ぶ。この色は美しい女に柔らかな彩りを添えるか、醜悪な女を無様に演出するかの二つしかない。
「大丈夫だ……少し夢を見ていただけだ」
 冷たい汗が、体全体をつたう。
「ブランデーでもお持ちしましょうか?」
「いや、いい」
 ベッドから身を起こし、明香に手を伸ばす。
「少しここにいてくれ」
 手を引く。
「あっ」短い悲鳴を上げて明香の体がベッドに倒れ込む。
 それを体で受け止め両手で抱きしめる。
 重力に逆らい、放射状に散らばった髪がゆっくりと舞い降りる。
 不思議と明香を抱く手に力がこもる。心臓の鼓動が胸を通して直接響く。
「温かいな」
「もちろんですわ。温かさというのは生きるものの特権ですもの」
「他人のぬくもりを感じるということは、私もまだ生きているということか」
「……あまりよろしくない夢だったようですね」
「そうだな」
「このまま朝まで添い寝してさしあげましょうか」
 思いがけない言葉に、抱きしめる手が緩む。
「うふふ……冗談ですわ」明香は抱擁から逃れると、ベッドから下りる。「すぐに着替えをお持ちします。そのままでは風邪を引いてしまうでしょうから」
 踵を返し、明香は部屋から出ていく。
 一人取り残された私は出窓を開け外を見る。
 まだ夜は深い。刺すように吹き込む風が、汗に濡れた体に悪寒を走らせた。
 雲一つない空には真円を描く月だけが灯っている。
 そういえば満月が人の精神に影響を及ぼすのを聞いたことがある。美しい月が悪夢を呼び寄せる……おとぎ話の種にはなりそうだが現実味には欠けるか。
 そんなことを考えていると、明香が私の着替えをもって部屋へ戻ってくる。
「外に出ていますので、着替えおわったら言ってください」
「ああ」
 明香が部屋から出たのを確認すると、ボタンに手を掛け衣服を脱いだ。
 脱いだ服を軽く丸めてまとわりつく汗をぬぐい、着替えおわってから脱いだものを簡単に畳む。
 部屋の外で待っている明香にそれを手渡すと、彼女はそれを持って闇のなかに消えていく。
 ベッドに腰掛けると、私はもう一度窓の外の月を見上げた。
 月はなぜ美しいのだろう。陽射しよりも、月の輝きに魅せられる人間は多い。太陽よりもその像をはっきり捉えられるからだろうか。それとも満ち欠けによって一日と同じ姿を留めていないからだろうか。
 こんな話を聞いたことがある。恥ずかしがり屋の太陽は見る者が直視できないように金の針を与えられ、おとなしい月は昼の喧騒を避け夜の静けさを選んだ、と。
 陰と陽の、面白い性格づけだ。
 私が月に魅力を感じるのは、私もまた静かな夜を好むからなのだろう。夜には真昼の騒々しさとは印象を異にする、澄んだ美しさがある。
「きれいな月夜ですね」
 いつのまにか戻ってきた明香が私の隣に座る。
「……眠らないのか?」
「こんな時間に起こされたら、すぐには眠れませんわ」
「そうだな。すまん」
「でも、感謝もしていますのよ」
「感謝?」
「だって、こんなきれいな月を二人で見れたのですから」
「それはむしろ、天候に感謝すべきだろう」
「その両方にですよ」明香はいつものように笑みを浮かべて答える。「そういえば、例の環境団体からお礼の手紙が来ていたのを忘れてました」
「ああ、奴らか」
「随分と御投資なさっているようですが……」
「人間は過ぎた金を持つと、次第にその魔力に取りつかれるようになる。金を捨てるには信用のおける団体だったのでな」
 私には十分な蓄えもあるし、明香に払う給料を除けばこれ以上の金は必要ない。だから寄付と称して、必要ない金を環境保護団体に捨てている。一応調べさせはしたが、業務はきれいなものだ。一部の人間が懐を潤しているということはない。
 これもマネーロンダリングの一つといえるかどうかは知らないが、汚い金は綺麗になって世に循環していることになる。まぁそれも私の自己満足でしかないのかもしれない。
「お金なんていくらあっても困りませんでしょうに」
「叩けば埃が出る身だ。用途が不明の金が少々あっても、慈善団体への寄付の記録があれば検察の目をごまかすのには好都合だからな。感謝もされる、隠れ蓑にもなる。一石二鳥だ」
「本当にそれだけのために?」
「まぁ……な。地球がどうなろうと私の知ったことではないが、人間が死滅すると商売が成り立たなくなる。そのための先行投資かもしれんな」
「でも、立派なことですよ」
「免罪符の代わりにはならん」
 心理学的に見れば、私の行為はただ罪の意識を転嫁させているだけにすぎない。世界を一面からしか見ていないような輩には、私にやりなおせというだろう。だが、私にはこういう生き方しか出来ない。罪を重ね、自らの手を汚し、いつか罰せられることを心の底で望みながら、心に傷を刻み込む。
 何故、と問う者にわかりはしない。闇の深さはそこに至る者だけが知る事実だ。外は綺麗なふりをしていても、いくら着飾ろうとも、内側にはいつも闇が住み着いている。心に痛みを持っている。
 そしていずれ、その痛みは心地よいものとなる。良心の疼きが、自らを一層深い闇へと導いていく。その先にあるのは地位でも名誉でもない、残酷な結末のみだ。
 
「御自身の罪が怖いのですか?」
「そうかもしれない」
「罪を犯さない者はいませんわ……それがたとえ神であったとしても」明香は静かな口調で語る。「少量の毒が薬となるのと同じように、誰もが罪を犯しているからこそ、人は人でいられる……そうは思いませんか?」
「不思議な考え方をする女だな」
「私だって、自分が綺麗な体だとは思っていませんよ」明香は微笑む。「それに潔癖な人間は嫌いです。理想しか知りませんから」
「私のように穢れすぎた人間のもとに来ることもないと思うが……何故だ?」
「あなたが私の王子様だったから……というのでは駄目ですか?」
「冗談ならもう少し気のきいたことを言え」
「あら?私は本気ですわよ」
「そういう台詞は時と場所を選ぶんだな」
「月明かりの下で二人、密室で、ベッドに腰掛けて、これ以上何を望みますか?」
「お前はどうしてほしいんだ?」
「私は……あなたがここに居てくれさえすれば十分です」
「なら答えはもう出ているな」
 明香はため息をつき、「あなたの心を射止める乙女はいったいどんな人間なのでしょうね」
「私は女に興味はない」
 明香は目を丸くする。「まぁ。男色の趣味がおありのようには見えませんでしたが」
「あたりまえだ。短絡思考で結び付けるな」
「でも『女に興味がない』なんて健全な男の人が考えることではないと思いますよ」
「女で身を滅ぼした奴は多い。女の欲と情の深さには果てがないからだ。体が欲しいだけなら金を出せば買える」
「では、どうして私を雇っておくのですか」
「お前が優秀だからだ」
 その言葉に偽りはない。飾る必要がないほど、彼女は優秀だ。女として望む能力の全てを彼女は持っている。世の男たちはこぞって彼女のような女を欲するだろう。事実、私のもとに来る客のなかにはそれを狙っている者もいる。
「優秀と認めてくれるのはうれしいですけど、もう少し別のところも見ていただきたかったですね」
 明香はベッドから立ち上がるとドアのほうへと足を進める。
「何かお飲みになりますか?」
「そうだな……コーヒーを頼む」
「砂糖もミルクも必要ないのでしたね?」
「ああ」
「でもよろしいのですか?」
「何がだ?」
「コーヒーなどお飲みになったら、ますます眠れなくなってしまうと思いますが」
「構わんさ。明日の予定はない」
「左様ですか。では、すぐにお持ちいたします」
 再び、部屋に静寂の幕が落ちる。
 人間が文明をもつ以前は、全ての人間が月と星以外の光を持たぬ夜を過ごしていた。皮肉なことに、今ではこんな奥地に入らなければ夜空をゆっくりと眺める事もできない。ネオンが夜を切り裂いた代わりに、安息もまた失われたのだ。
 私はベッドの上に仰向けになると大きく伸びをする。
 明香と話していたせいか、完全に目が覚めてしまった。それに先程の夢のせいで、眠る気にはなれない。
 明香……不思議な女だ。得体が知れないといってもいい。
 彼女が私の屋敷を訪れたときのことは、昨日のことのように思い出せる。 忘れようにも忘れられない。

 まだ夏の終わりのころだった。その日は台風が内陸のほうにまで勢力を伸ばしてきたために、ひどい暴風雨にさいなまれていた。
 屋敷は建ててから日はたっているものの少々の嵐にはびくともしない。風が強まらないうちに雨戸も閉めていたので、さして心配事はなかった。
 こんな日には訪ねてくる人間もいない。紅茶でも飲みながらゆっくりと午後を過ごそうとキッチンへ向かったときだった。
 玄関の戸を叩く音がする。
 最初は何か風で飛ばされたものが当たっているのかと思ったが、規則的なリズムで音が響くのに、外にいるのが人であることを悟った。
 鍵を外し、ノブをひねると、風とともにずぶ濡れの女が転がり込んできた。
 それが明香だった。
 傘は骨が全て折れ曲がり、抱えたボストンバッグは雨を吸ってその役目を果たしていない。しかも最初の一言はドアを開けた礼ではなく「このお屋敷で私を雇っていただけませんか?」だ。
 当然断った。
 だが、雨のなか放り出すわけにも行かず、不可解な訪問者に一夜の宿を提供することになった。
 着替えが濡れたというので私の服を貸し、簡単な食事を振る舞ってその日は言葉少なに床に就いた。
 驚いたのは翌日の朝だ。
 すべてが片づいていたのだ。散らばっていた書類、埃の積もった棚、洗濯機に放り込まれていただけ衣類、その全てがきれいになっていた。しかも、テーブルには有り合わせの材料しかなかったはずなのに一式の朝食が並べられていた。
「おはようございます。昨晩はよくお眠りになられましたか?」エプロン姿の明香が私に挨拶する。
「これを……全部お前がやったのか」
 その時の私の顔は、人生のなかで一番間抜けであったに違いない。
 唖然とした私に明香は微笑みながらこう言ったのだ。
「これでも私をお雇いになりませんか?」

「おまたせしました」
 しばしの過去への邂逅を、明香の声が引き戻した。
 トレイに乗せたティーセットとマグカップを、ベッドの脇にある小さなテーブルに置く。
「何か考え事ですか?」
「いや……お前がこの屋敷に来たときのことを思い出してな」
 言ってから、マグカップに満たされた漆黒の液体に口を付ける。芳醇な香りが喉元から胃へと滑り込み、体の内側から温める。
「それはなんだ?」
「お茶菓子を切らしていましたので、勝手に包みを開けさせていただきました」
 菓子皿には小さなグリーンの袋が幾つかある。
「なんでも会社の新製品とかで届いていましたが……」
「またか」
 思わずその言葉が口を突く。
 私は表向き二、三の会社の大株主ということになっている。その系列に製菓会社があり、新製品を作るたびに機嫌取りに送りつけてくるのだ。
 お陰で屋敷には、わずか数シーズン市場に出回るだけの、新しい菓子の箱が山積みになっている。甘いものが嫌いというわけではないのだが、さすがにこれだけ送られてくるとうんざりする。
「ビスケットみたいですわね、これ」
 明香が袋を開けると二枚組になったビスケットの一つを口に放り、残りの一枚を私に差し出す。
 何気なく噛んでいたのだが、途中で明香と顔を見合わせる。
「不味いな」
「まずいですね」
 ほぼ同時に同じ単語を口にする。
「何を目的に作ったのでしょう」
「さぁな。だが厳重に抗議するのに値するだけの物であることに間違いはない。作った奴は即刻クビだな」
 最近のものは奇抜性だけを追い求める傾向が強すぎる。本当に良質なものを作ろうという努力と意気込みが足りない。結果として商品の価値が下がり、市場の寿命が短くなってしまうのだ。
 安価で意表を突く商品は市場に対して即効性がある。それが消費社会を支えていることは認めるが、長期的な視野で見れば時間と労力の無駄でしかない。必要なのは長期に渡るニーズに耐えうる商品のはずだ。
「でもまぁお金を出してこれを買ったわけじゃないですから、今回は大目に見てさしあげては」
「それもそうか」
 相づちを打ちながらも、私は別のことを考えている。
 あの山積みの菓子を、来客者に土産だといって持たせれば、楽に処分が出来る。
 最初のうちはありがたがるが、そのうちに嫌がるようになるだろう。だが、私の好意は受けなければならない。奴らの迷惑そうな顔を思い浮かべると、楽しくなってくる。
「……どうかなさいましたか?」
 明香が、怪訝な顔をしている。
 しまった、顔に出たか。
「いや、何でもない」
 ごまかすように、マグカップのコーヒーを飲み込む。
 それに合わせるように明香もティーカップに口を付ける。
「こうして二人でいるのは……始めてですね」
「そうだな」
「このお屋敷で二年も働いているのに」
「ああ」
「言い訳しないんですね」
「事実だからな。お前に構わなかったことも、構おうとしなかったことも」
「私には、そんなに魅力がないのでしょうか?」
「その逆だな。私が求めるのは家事能力に秀でた人間だが、従順な妾ではない。利用価値が違うということだ」
「私の気持ちを分かっていて、そうなさるのですね」
「……それでも私のところにいる気なのか?」
「私にはここしか居場所がありませんから」
「好きにしろ。私はお前がいてくれれば助かる」
 空になった器をトレイに戻し、話を打ち切る。
 窓の外は、うっすらと白みはじめていた。
「朝が近いな……そろそろ寝るか」
「では、わたしは部屋へ戻ります」
「……明香」
「なんでしょう?」
「悪かったな。こんな遅くまで付き合わせて」
 明香はかぶりを振る。
「あなたの健康管理もわたしの仕事のうちですから。では、お休みなさいませ」
 軽く一礼すると、足音一つたてずに部屋を出る。
 私はそのままベッドの上で仰向けになる。
 コーヒーのせいで眠くはない。
 目をつぶり考え事をしていたが、やがて吸い込まれるように眠りに落ちていく。
 悪夢はもう見なかった。

 窓から差し込む陽の光が鋭く目を射る。
 微かな違和感を残したまま、ベッドから身を起こす。
 昼過ぎ……なのだろう。外は相当に明るい。
 身支度を整え、部屋からでる。
 不規則な時間に起きたせいか、空腹感は余りない。
 今ぐらいの時間ならば、明香は掃除をしているか昼食の準備に取りかかっているかのどちらかだろう。
 邪魔をしないように、キッチンへ行くことにしよう。
 階段を降り、廊下を通って奥へと向かう。
 どこにも明香の姿はなかった。
 買い物にでているのかもしれない。
 食器棚からカップを一つと紅茶の缶を取り出し、テーブルの上に置く。
 サーバーに紅茶の葉をいれ、湯を注ぐ。
 カップに紅茶を移すと、椅子を引いてそこに座る。
 ゆっくりと口をつけ一口すすろうとして……危うく吹き出しそうになった。
 視界に写ったのは、ソファから生える二本の脚。
 優美な曲線を描く生白い脚が投げ出されるように飛び出ている姿は、滑稽でもあり、不気味でもあった。まるでシュールレアリスムの絵画のようだ。
 立ち上がり、近寄る。
 覗き込むと明香が寝ていた。
 無理もない。真夜中に起こされたのだ、疲れが出たのだろう。
 毛布でも持ってこようかと思ったが、どうも様子がおかしい。
 息が荒い。
 普通、人間は睡眠時の心拍数、呼吸の速さはゆっくりとしたものになる。
 今の明香のそれは、眠っている人間のものとは違う。
 額に手をやる。
 熱い。
 私の手の感触で明香が目を覚ました。
「あ……すいません、少し横になっていたら眠ってしまいました」
「構わん、そのまま寝ていろ」
「昼食の用意がまだですから」
「寝ていろ、と言ったのがわからないのか?仕事熱心なのはいいことだが、今は寝ろ。これは命令だ」
 起きようとする明香に手を伸ばし、抱きかかえる。 長身痩躯の彼女は、見かけよりもずっと軽い。
「だ、大丈夫です、立てますから下ろしてください」
 腕のなかでもがく明香に、少し力を込める。
「お前が体調を崩したのは私の責任だからな。少しぐらいは償わせてくれ」
 一階にある彼女の寝室に連れ込むと、そっとベッドの上に下ろす。
「申し訳ありません。体調管理がしっかりしていなかったばかりに、ご迷惑をお懸けしました」
「謝るべきは私のほうだ。着替えて今日一日はゆっくり休め」
 私はドアを閉め、そこから立ち去った。

 さて。
 私は考えた。
 部屋はだいたい片づいている。
 問題は食事だ。
 明香が来る前はほとんど外食専門だったし、屋敷にはレトルトやインスタント食品のストックはない。三食きっちり明香が作るせいで、そういうものが必要なかったからだ。
 もっと手を抜いても構わないと思うのだが、あいつは変に真面目なところがある。
 おかげで要らぬ苦労をすることになってしまった。
 真面目さ故の弊害というやつだな。
 冷蔵庫を覗き込むと、材料は一通りそろっている。
 これで何とかするか。
 一応一人で暮らしてきた身なので、簡単な料理は作れる。
 スパゲッティーぐらいだが。
 自分の手で鍋を持つのは実に二年ぶりだ。
 適当にスパゲッティーを塩ゆでし、その間にタマネギを適当に刻んで適当に切ったベーコンと一緒に火を通す。たぶん芯がなくなったスパゲッティーをベーコンとタマネギと和えてバターで炒めれば出来上がり……だったような気がする。
 完成したのはよく分からない味の洋風麺。形はスパゲッティーだが何か違う。
 端的に言えば、まずい。
 やはり、明香のようにはいかないか。せめてミートソースの缶でもあればよかったのだが。
 適当に塩を振るって胃に納める。
 たまにはこういうのもよかろう。

 私は書斎に戻ると、依頼人に渡す書類の整理を始める。
 中に綴られているのは実にくだらない噂話の類だ。ただ、こういうものに大枚をはたく輩もいる。私の仕事はそういう人間たちに、集めた情報を売り渡すことだ。
 情報屋と言えば聞こえはいいが、やってるのは噂話に毛の生えた程度のことをまとめて渡しているだけ。いろいろな会社の株を持っているのは、その網を張るためだ。何が必要で、何が必要でないかの基準などはない。全てカンで選んでいる。
 今回の依頼は確か貿易会社の輸出品リスト三ヵ月分だった。
 クライアントが何のために情報を欲するのかということに興味はない。先物取引に使おうが、脅しに使おうが私の知ったことではない。取引相手は客であると同時に敵でもある。下手なことに首を突っ込むのはお互いのためにならない。
 我ながら非生産的な仕事だとは思っている。
 私のおかげで、何人救われ、何人が傷つき、死んだのかなど考える気にもならない。私が下衆と呼ばれるのはそういうことだ。
 中身を確かめると封筒に入れ、糊付けしたあと蝋で封をする。古典的な方法を取るのは私の趣味もあるが、単純に開封したかどうかが分かるからだ。
 こんなもので、一千万単位の金が私の元に転がり込んでくる。
 もっと効率よく稼ぐ方法もある。これを使って脅しをかけ、表舞台で立ち回れば、地位、名誉、富、その全てが思いのままだろう。
 だが、それではつまらない。登り詰めた先にあるのは虚しい徒労感だけだ。
 先を争うこと、上に立つこと。死ねばすべて無に帰す。それに労力を注ぐことに私は意味を見いだせない。
 だから私は今の地位に甘んじている。
 繁栄の拒絶。日々を生きるという意味の希薄化。可能性を放棄し、退くことも、進むこともない停滞の中に身を置く。緩やかな滅びに全てを委ねる。
 人はこういう状態を『負け犬』というのだろうな。
 私にとっては褒め言葉だ。
 口先だけの感謝よりは、罵りのほうがずっと真実に近い。
 いつまでこんな事を続けていられるのかは分からない。
 ただ、いまはそれ以外の生き方が見つからない。
 私は封筒を机の引出しにしまうと鍵を掛け、書斎を後にした。

 普段ならここで本を読むなりして休むのだが、今日はそうもいかない。
 明香の寝室のドアを開け、足音をたてないように中へ入る。
 どうやら眠っているようだ。
 呼吸は落ちついている。
 やれやれ、冷血人間の私が女の看病とはな。ずいぶんと変わったものだ。
 まぁ休日の暇つぶしには丁度いい。
 部屋を出ようとしたとき、明香が目を覚ました。
 まだ、気だるそうに見える。
「何か食べるか?」
「あまり食欲がありませんので……」
「なんだったら粥ぐらい作るぞ」
「気持ちだけ頂いておきます」
 辛そうに一言発すると、明香は眼を閉じた。
 目元にかかる前髪をかき分け、額に手を当てる。
 まだ熱っぽいようだ。「あまり下がった様子はないな」
 私が呟くと、明香が笑う。
「何が可笑しい?」
「貴方が予想どおりの方だったものですから」
 そういってから、また眼を閉じる。
「予想?」
「いつか言ったでしょう?貴方が優しい人だって事を」
 布団から腕を延ばし、額におかれた私の手を両手で包み込む。
「ほら、手だってこんなに冷たい」言いながら私の手を強く握りしめる。「手の冷たい人は、優しい人と言いますから」
「ふん。それだけ軽口を叩く元気があれば大丈夫だな」
 軽く手を振りほどくとベッドから離れる。
「無駄口を聞く暇があったら、さっさと寝て治せ」
「なるべく努力しますわ」
 私はため息をつくと、明香の寝室から出た。

 細々としたものを片づけていると、いつのまにか陽が落ちていた。
 あれから明香のところには薬と氷枕を届けたくらいで大した看病はしていない。
 部屋に行くたびに大げさに喜ぶので、何となく行きづらいのだ。
 夕食は味見を兼ねて、明香のために作った粥を食べる。
 まぁ……何とか食える味だろう。
 まずいなら食わなければいいのだ。
 温めた粥を器に移してトレイに乗せ、明香の元へ運ぶ。
 案の定、明香は起きていた。
「まずいなら、食わなくていいぞ」
 最初に釘を刺しておく。
 明香はベッドから身を起こすと、粥の器を手に取る。
「私は貴方と違って据膳には手を着けますから」
 可愛くない女だ。
 明香は箸に少しずつ粥を乗せて、丁寧に口へと運ぶ。
 ……人が食事をしているのをじっと見ているというのも趣味の悪い話だな。
「後で食器を取りにくる」
 そう言い残して、部屋から離れる。
 ドアを閉めて歩きだす。
 ふと思った。
 なぜ、私はこんなに甲斐甲斐しく明香を看病しているのだろう。
 善意か?あの女に対する好意か?
 ただの気まぐれか?
 何にせよ、くだらないことだな。
 私がしたくないと思えば、そうすればいいだけのことだ。
 30分待って、明香の寝室へ行く。
 入れ違いに、蜂蜜とレモンの果汁を入れたカップを持って行った。
 それを熱湯で溶き、明香に手渡す。
「熱いから気をつけろ」
「いただきます」
 民間療法だが、ちゃんと効果はある。
 蜂蜜は弱った消化器系でもすぐに吸収されてエネルギーになり、レモンのビタミンCは風邪に対する効果が知られている。暖かい飲み物が有効なのは言うまでもない。
 ゆっくりとカップに口をつけ、少しずつ飲み下していく。
「このまま、ずっと私が病気だったらいいのに」
「どうしてだ?」
「貴方が優しく接してくれますから」
「馬鹿なことを言うな。寝たきりの人間を雇っているほど私が酔狂に見えるか?働けなくなったらお前はクビだ」
「でしょうね」
 明香は笑い、空になったカップを置く。
「ごちそうさま。美味しかったです」微笑んでみせてはいるが、あまりよくなったようには見えない。
「薬は効いているのか?」
「まぁそれなりに」
 明香はベッドに身をうずめると、首だけこちらへ向けて答える。
 少し、いたずら心が起きた。
「仕方ないな……お前のために、風邪の特効薬をやろう」
「特効薬……ですか?」
 怪訝な顔をする明香。
「お前のためだけの、特別な薬だ」
 一言一言、念を押すように言葉を紡ぐ。
 ゆっくりと顔を近づける。
 頬に手を添え、顔を起こす。
 驚きの表情のまま硬化する彼女の唇を奪った。
「………!」
 明香の眼が真円に開かれ、それから閉じられる。
 首筋に回した手で後頭部を支え、強く抱きしめる。
 心のなかで五つ数えてから、私は彼女を開放した。
「どうだ?」
 私が問うと、呆然としていた明香の頬にぱっと赤みがさす。
「き、効きそうな気がします」
「それはよかった」
 いつも主導権を取られているのも面白くない。
 私からのささやかな反抗といったところか。
「私は寝るが……何かあったら、すぐに呼べ」
「……はい」
 消えてしまいそうな、小さな返事。
 予想外の行動に戸惑っているのがありありと分かる。
「こういう時だけ積極的になるのは……ずるいです」呟くように明香が言う。
「私は他人の弱みにつけ込むのが仕事だからな」明香の頬に手を当て、軽く撫でる。「だが、悪い気はしなかっただろう?」
 明香は何も答えないでうつむいている。
 私は爽快な気分で、自分の寝室へと歩いていった。

 明香への特効薬は、見事に功を奏した。
 そう、彼女の風邪は完治したのだ。
 私にうつって。
「しっかり効きましたわ。特効薬」
 風邪特有の倦怠感に身を任せ、ベッドで寝ている私に明香は勝ち誇ったように言う。
「だろうな。それでこそ、私も報われたというものだ」
 それが精一杯の答え。 口移しに風邪を貰うとは、我ながら馬鹿なことをしたものだ。
 あまりに馬鹿馬鹿しくて嘆く気にもならない。
「お屋敷のことは任せて、今日はお休みくださいませ」
「そうさせてもらおう」
 眼を閉じる。
「お前も無理をするなよ。病み上がりなんだからな」
「あら?心配してくださるのですか?」
「あたりまえだ」私はため息をつく。「二人倒れたら、誰が面倒を見るんだ?」
「そうしたら……ダブルのベッドで、仲良く眠りましょう」
「あほか」
 相も変わらず何を考えているのか分からん女だ。
「私のことは心配なさらずとも大丈夫です」
 明香がベッドの布団を正す。
「眠れないようでしたら、子守歌の一つでも歌いましょうか?」
「いらん」私は断言した。「出てけ」
「恥ずかしがらなくてもよろしいのに」
「誰がだ」
 しつこく絡んでくるのは、昨日の仕返しだろうか。
「うふふ。冗談ですよ」いったん背を向けると、ふいに踵を返す。「貴方を見ていたら、氷の魔女の話を思い出しました。」
「魔女?」それはお前のことか?と言いそうになったが危うく堪える。
「氷のように非情と噂の男の家に氷の魔女がやって来て、その男は氷漬けにされてしまう話です」
「それで男はどうなった」
「自分の体温で氷が溶けたので、助かりました」
 意味不明だ。
「よくわからんな、それは。私と何か関係があるのか?」
「内緒です」明香は笑いながらドアを閉める。「ではごゆっくり」
 不可解な謎かけ。
 何か意味があるのだろうが、考える気力はない。
 私はもう一度ため息をついた。
 まぁたまにはこういう日も悪くないか。
 昨日と同じ台詞を内心呟く。
 窓の外から漏れる風の音を耳に、私はゆっくりと眠りについた。


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