緑石の礎 


 どこまでも。
 そしていつまでも。
 人は幸せを願う。
 私はそれを無駄だと感じずにはいられない。
 少なくとも、私はそう感じて生きてきた。
 幸福とは何か。
 それは決して人の手には入らないモノ。
 何かを手にすれば別の何かが欲しくなる。
 何かを満たせば、一方でまた満たされないものが生まれる。
 人の行いに果てはない。そして、その欲望も。
 肥大化し、醜く膨れていくのは人の営みと同じだ。
 故に私のような人間が生きられる。
 手を黒く染め、他人の血を啜り、欲望の糸を紡いでいく。
 私はそういう人間だ。
 なにも生まない。
 誰も幸福にしない。
 
 いつものように短い悪夢とともに目が覚める。
 どんな夢かは覚えていない。
 体に気だるい感覚だけが残っている。
 もっとも、どんな夢だったかなど覚えている必要もない。どうせろくな夢ではないのだ。
 ベッドから身を起こす。
 カーテンの隙間から陽の光がこぼれていた。
 朝。
 一日の始まり。
 ・・・・・・・・。
 今日も嫌な一日になりそうだ。
 ドアが音もなく開いていく。
「おはようございます」
 女が一人、足音もなく静かに入ってくる。
 陽光に照らされて亜麻色の髪が輝く。その姿に神々しさすら感じるものもいるだろう。
 しかし、瞳はその長い髪によって隠され、表情を正確に読みとることはできない。
 なにを考えているのかは、口元に浮かぶ微笑から伺い知ることはできない。
 そういう女だ。
 名前は榊 明香。2年ほど前から私の身辺の世話をしている。
 世間で言うところのメイドのようなものだ。
 彼女の素性は私にもよく分からない。調べようと思えばいくらでも調べられるが、たいして興味はない。
 他人の素性など、どうでも良いことだ。誰であろうと叩けば埃は出る。興味のない事柄にむやみに顔を突っ込むのは私の性に会わない。
 明香は有能な女だ。
 それ以上のことを私は彼女に望んだりはしない。
「お食事の用意ができました」
 その一言だけを伝達すると彼女は踵を返し、部屋を出ていった。
 私は適当に服を着るとそのまま部屋を出て食堂へと向かう。
 食堂といっても会食に使うものではなく、キッチンとつながった小さな部屋のことだ。そこへ足を運ぶと、茶碗と二、三の品がテーブルの上に置かれていた。
 数は一人分。
 明香はなぜか私とともに食事することをよしとしない。
 何か理由があるのかどうかは知らないが、私も他人の介助がなければ食事のできない年でもない。それに一人の食事は慣れている。
 明香は食事の時には一度だけ姿を現し、私が食事に満足しているかどうかを確認してからまた居なくなる。明香の食事に不満があったことは一度もない。腕は標準以上であることは認めるし、どんなものにも相応の時間をかける。時折新しいものに手を出して失敗することはあるが、それが二度続くことはない。
 それほどの女が何故に私の元へ、自らの意志で来たのか。
 それだけは疑問だ。
 ただ、私もその技量と働き相応の金額は払っているつもりだ。
 昔、彼女が言ったことがある。
 私との関係は、互いに必要なものを与えあっているのだと。
 彼女は金を欲し、私には快適な生活環境を提供している。
 そういうことなのだろう。
 席を立ち、私は書斎に籠もる。
 まさしく、籠もる、だ。
 明香ですら、この部屋には滅多なことで立ち入らない。
 膨大な量の書物と書類の束。圧倒的な質量を持ってそれは私の両脇を囲む。正面の分厚いカーテンは昼間ですら光を遮断する。そして古い木製の、しかし頑丈な扉が私の背を守る。あらゆる音は届かず、光は微かなスタンドの灯りだけだ。
 私はここで私の元に集められる様々な情報を統括し、必要とする人間に売り渡す。それがいったいどんな使われ方をしているのかは私の関知するところではない。私の役割は必要とするものに必要な情報を与えること。
 決してバランスを崩さず、必要最小限に。バランスが保たれている限り、それは絶対に途切れることのない波となって世界を揺らし続ける。波が大きくなることはなく、あくまで揺らすだけ。大きな目で見ればなにも変わらず、しかし人にはそれが大きな変化に映る。だからこそ、私のような人間がこんな事を続けていられる。
 私の同業者は多いが、これほどまでに大きな規模で、しかも長く続けている人間はいない。中には自分がすべての事象を操ることができると勘違いするものもいる。情報を制することで自分を有利に働かせようと売り込むものもいる。だが、誰も同じだ。
 待ち受けるのは等しい末路。
 確定された絶望。
 予定された破滅。
 或いは死。
 いずれは私にもそういう日が来る。
 今日か、明日か、10年後か。
 人は神にはなれない。他人を支配することもできない。何かを操れはしない。人は人だ。弱く、愚かで醜い生き物だ。その弱さ故に、人は力を欲したりもするのだが。
 私にとってそれはどうでもいいことだ。
 私に必要なものはあまりない。自分の命ですらどうでもいいと考える。たとえ明日がなくとも、悲しむものもない。私の死を願っても、存命を願う人間はいないだろう。だが、別の人間が私の代わりになる。
 個人に代わる個人は存在しないが、その役割を担うものはすぐに現れる。そうでなければ、毎日死んでいく膨大な数の人間に釣り合わない。必要な人間などこの世には存在しない。ただ、そう思いこんでいるだけだ。そう思いこんでいなければならないほど人は弱い。
 だから、幻想的な妄想が成り立つ。どうでも良い語りぐさ、綿々と続く無意味な営みが、こんな時代まで続く。もっとも、それこそが人の歴史そのものなのかもしれないが。
 電話が鳴った。
 この部屋には、いくつかの商社と直通でつながる電話がある。私に助けを請う声、私に取り入ろうとする声、姿も見たことのないものの声が私の元へ無数に届く。
 受話器を取る。
「元気そうだな」
 知っている声。
「西遠寺か」
 いくつかの企業を抱え持つ実業家。取引相手であり、時として互いに利用し合う関係。
 そういう言葉で表される男だ。
「何の用だ」
「おまえの所にうちの調査依頼が来ているな」
「それで?」
「その依頼主を教えて欲しい」
「出来ない相談だな」
「最近、いろいろとちょっかいを出してきている輩がいてな。なかなか尻尾を出さん」
「それは私の知った所ではない。依頼主を教えろ、という相談には乗れんな」
「相も変わらず頭の固い男だ」
 一言一言、妙な不快感がこみ上げる。
「用はそれだけなら切るぞ」
「まぁそう急くな。正式に依頼すればいいのだろう?何処の社が、うちに手を出しているのか調査して欲しい、と」
「探偵にでも頼め。向こうの方が格安の料金でやってくれる」
「金で動く人間は信用できんのでね」
「私も金にしか興味はない」
 受話器の向こうで笑い声が漏れる。
「なかなか面白い冗談だな」
「人は金のために裏切るが、金は人を裏切らない。そういうものだ」
「それはある意味真理だが、お前の本質とは思えないな」
「どう思おうとそれはお前の勝手だ」
「まぁ雑談はその程度にしておこう。仕事の話とすれば、先ほどの件はどう考えてくれるかね」
「断る」
「そうか。言って聞かない男だ、その返事がイエスに変わることはないな」
「そういうことだ」
「一度あってゆっくりと話がしてみたいものだな」
「こんな小物と会ったところで得にはなるまい」
「いいや。私たちは似たもの同士だとは思わないか?孤独で、誰も信じることがない。生まれたときから敵の中で育ち、謀略の中で育ってきた。場所は違えど、私たちは同じ者だよ」
「どう思おうと、それはお前の勝手だ。だが、先ほどの提案は飲めない。用件はもう終わりだ」
「そうだな。お互い忙しい身だ。長電話も悪くはないが、どうやら周りがそれを許してはくれん」
 西遠寺のため息が聞こえる。
「ではまた会おう」
 その言葉に返事をせず、私は受話器を置く。
 無駄な時間を過ごした。
 私は再び書類に手をのばし、仕事を再開する。
 正確には作業になるのだろうが。
 西遠時に関して調べ回っている人間。西遠時の件かどうかは知らないが、確かに私の情報網に対して頻繁にアクセスしているものがいる。
 誰かは尻尾を出さないが、それが西遠時のいっていたことと関わりがあるのかもしれない。少なくとも、全くの無関係ではないだろう。
 調査の必要があるのかもしれない。
 一段落したら、手を回してみよう。
 手を動かしながら、西遠寺の言葉を反芻する。
 同じ種類の人間。
 不本意だが、そう認めざるを得ないのかもしれない。
 しかし、だからどうだと言うのだろう。
 お互い分かり合うことも無い、ただ利用しあうだけの関係になど救いがあるわけでもない。
 そもそも私のような人間に救いなど有るのか。
 むしろ無いほうが私の気は休まる。
 いっそ、気でも狂ってしまえたのならいいのだが、私の精神はどんなときでも正常を保っている。
 いや、本当は狂っているのかもしれない。
 何が正気で、何が狂気なのか私にはわからない。
 ただ、生きているということだけは確かだ。
 生きている、ただそれだけだが。
 
「だいぶお疲れのようですね」
 居間にきた私に、明香がティーセットを持ってやってくる。
「そう見えるか?」
「時々、辛そうにしていますから」
「他人の辛さや苦しみを理解できるとは思わないことだ。そんなものはただの思い上がりにすぎん」
「それでも理解しようとするからこそ、人の和は生まれるものかと思いますが」
「甘い考えだな。人の世に和などは生まれない。私の心はお前には分からないし、お前の苦しみは私にはわからん。そういうものだ」
「でも、あなたは私が苦しんでいることが分かっていますわ」
「知られたくなければ、泣くのは人の居ないところにしておけ」
「・・・・・・!」
 明香の顔が紅潮する。
「お前の期待を裏切るようで悪いが、私ではお前の支えにはなれん。私は他人の痛みには疎いのでな」
「そんなことはありませんわ」明香は少しだけ背伸びをして私の両頬に手を添える。「あなたと一緒にいる間だけは、辛いことを忘れられていられますもの。それが私の思い込みだったとしても」
 私はその手を払う。
「それで辛くなったりはしないのか」
「あなたの顔が悲しみで歪んだりしない限りは」
「悲しいなどと言う感情は忘れた。どんなものだったかも思い出せんほどにな」
「辛くありませんか?」
 明香は同じ質問で返す。
「さあな。自分の死さえ願う男は、己のことで辛いなどとは思わん」
「私があなたにとって大事であればよかったのに」
「おまえほどの女なら、純粋な意味で必要とする人間は山ほどいるだろう。そういう人間の元におまえはいるべきだ。私のような男ではなく」
「前にも言いましたが、私がここにいるのは自分の意志ですので。誰かに必要とされるために、私はこんな仕事をしているわけではありません」
「まぁそうだろうな。おまえがそういう女だということは、私にもわかる。別に私はお前が此処に居ようと、出ていこうと止めはしない。それはお前自身が決めることだ」
「それを聞いて、少し安心しました」
「安心・・・か。そう思えるのは幸せだな」
「私と一緒では安らぎませんか?」
「無理だな」
 明香は、私という精神の海に投げ込まれた、小さな石のような存在だ。
 深く沈み、波を立たせる。
 決して苦痛ではないが。
 私を酷く不安にさせることも確かだ。
 それは、安らぎとは相反するものだろう。
「だが、私とこの屋敷にとって、お前が必要な存在であることは否定しない」
「その言葉だけで、私は十分です」
 明香は口許に笑みを浮かべ、立ち上がった。
「私は誰かに必要とされるためではなく、あなたに必要とされるためだけにここにいるのですから」

 明香の、私に対する感情はなんなのだろうな。
 時折、思うことがある。
 明香のそれは、恋愛に代表される感情とは違うような気がする。
 では何かといわれれば何とも答えようのないものなのだが。
 同種の人間と出会ったときの親近感。たぶん、それに近い感情だ。
 なにがどう同じなのか。
 先ほどの西遠時の言葉を思い出してしまう。
 明香が私に従う理由は、いつも口にする忠誠とは似て非なるものだ。そこには主従の関係などない。何かの目的があって私に近づき、私と共に生活している。それは少なくとも私の財産や権力ではないだろう。
 あるいは私そのものでもない。
 不思議なものだ。
 女という生き物が、男とは異なる生き物であるという認識はあるつもりなのだが、明香はその中でもかなり異質な存在に違いない。
 私はそれが知りたくて、明香を手元に置いている。
 おそらくは互いに利用しあっているのだ。互いの目的がなんなのかも知らずに。
 もっとも私のは目的と言うよりは好奇心か。
 それもまた面白いと思う。
 ・・・・・・・・・・面白い、か。
 そんなことを感じたのは、恭也が死んでからは一度もなかった。
 罪悪感と自己嫌悪だけが占めてきた時間を、明香が変えていく。
 不思議な女だ。
 そんなことを感じる私もまた、変わりつつあるのだろう。
 恭也が生きていたならば、どう思うだろうか。
 死んだ人間の分まで幸福になれ、といった人間がいたが、私にそんな資格があるとは思えない。しかし、死ねもしなかった。
 私はどうすべきなのだろう。
 しかし、その問いに答えられる唯一の人間はもう居ない。
 たぶん、半身を喪失した原初の人間の気分とは、こんなものだったに違いない。
 私はそれでも生きている。
 なんのために?
 わからない。
 あるいは、その答えを探すためなのかもしれない。
 せめて私に信仰心というものがあったなら救われもしただろうが。
 私は神を信じない。
 すくなくとも、人を救ってくれるという神の存在だけは。
 
 夕闇。
 夜の帳。
 冷気が空間を制し、光が失われていく時間。
 僅かばかりの月明かりと星の輝き。
 静寂。
 沈黙。
 残響。
 風が枝を縫うように走り抜け、寂しげな音を奏でる。
 全てが闇の中。
 グラスに注いだウイスキーを煽る。
 喉が灼ける。
 その熱を、ため息とともに吐き出す。
 もう一度、飲む。
 ため息。
 その繰り返しだ。
 どれぐらい飲んだだろう。何故飲み始めたのだろう。
 視界が揺らぐ。熱い。
 目に映る世界が、燃えているようだ。薄ら紅い。
 振り払うようにグラスを掴み、一口。
 口に広がるのは灼ける感覚だけで、味などわかりもしない。ただ、酔いに身を任せているだけだ。
 心地よくはない。ぐにゃぐにゃと、揺らいでいる。
 気がつくと、ボトルは空になっていた。別の一本を取り出す。ふらつく足で。ガラス戸を引き開けウイスキーの瓶を持つ。銘柄は、知らない。
 栓を開け、液体を注ぎ、飲み干す。
 むせた。
 振り払うように、もう一度飲む。
 誰もいない。
 明香も、月に一度の休みで何処かへ出かけた。
 だから、飲む。
 誰も私を止めない。孤独を強く感じる時間。それが辛いなどとは思わない。当たり前なだけだ。
 グラスに満たされたウイスキー越しの世界。セピア色で、虚ろに歪んでいる。
 一息に煽る。
 が、グラスが空中で止まった。
 幻覚か?
 グラスの向こうに人影が見える。
 細い指。
「度を超しますと、体に毒ですよ」
 聞いたことのある声。
「忘れ物か?」
「用が済みましたので、戻ってきただけです」
「そうか。なら手を離せ。酒が飲めん」
「この辺でやめた方がよろしいかと思いますよ」
「お前は医者か?私は飲みたいから飲んでいる。止める権利はお前にはない」
「雇い主に倒れられると、私の給金は誰が払ってくれるのですか?」
「金庫から好きなだけ持っていけばいい」
「鍵を持っていませんもの」
「・・・・鍵などかけてない。面倒だからな」
「不用心ですわね。強盗でもきたらどうするつもりです」
「金をくれてやれば帰るだろう。無くなったらまた貯めればいいだけだ」
「羨ましい考えですこと」
「人の心など、金でどうにでも動く。もしも金で動かないとしても、そんな人間は強盗などしない」
「まぁ・・・・それも真理ですけど」
「納得したなら手を離せ」
「それとこれとは別。あなたの健康管理も私の仕事のうちですから」
「・・・・・・ふん」
 朦朧としたままグラスから手を離し、そのままソファに倒れ込む。
 明香は私のグラスをそのまま自分の口に運んだ。
「勝手に飲むな。私の酒だ」
「手を離したということは、私が戴いて良いということではないのですか」
「誰がそんなことを言った」
 別のグラスを取りに立ち上がる。ふらつく。それで、かまわない。
 食器棚からカットグラスと一緒に、もう一本別のウイスキーを出す。
 片手で栓を開け、無造作に注ぐ。
 飲んだ。
「今度は止めないんだな」
「そうまでして飲みたいのなら、止めません。その代わり・・・・・」
 明香は自分のグラスにも注いで、飲む。
「朝まで、おつきあいします」
「勝手にしろ」
 ため息と酒。
 その繰り返し。
 明香はただ側にいて、私を見、酒を飲んでいる。
 アルコールの熱さが体を駆けめぐる。
「どうしてそんなに飲んでいるのですか?」
「飲みたいからだ」
「何故?」
「理由など無い。酔いに身を任せていれば、それでいい」
「何を怖れてらっしゃいます?」
「何も。何も怖れてなどいない」
「私にはそうは見えませんわ。人が度を超して飲むのは、何かから逃れたいときだけ」
「お前に何が判る」
「何も。何も判りませんわ。『人の心を理解できるとは思わないことだ』とおっしゃったのは貴方でしょうに」
「その通りだ。そして理解しようとするな。お前はお前の役割を果たせ。それ以上のことを、私はお前に望まない」
「貴方も、私の行動を理解しようとは思わないでくださいね。私は私なりの理由があって貴方の側にいるのですから」
「別に詮索はしない。お前の過去、お前の血族、お前の人格、お前の正体、知ったところで何の意味もない。全ては意味のないことだ」
「賢者は『無用の用を知る』ものですわよ」
「世を儚む賢者よりは、無知だが楽しむを知る愚者の方が幸せだ」
「ひねくれ者」
「賛辞として受け止めておこう」
「私の気も知らないで」
「意味がないからな」
「すぐにはぐらかすし」
「別にはぐらかしてはいない」
「根性無し」
「その通りだ」
「貴方って言う人は・・・・!」
 平手打ち。
 酒の熱さとは別の熱さが頬にわだかまる。それが少しだけ私の理性を引き戻した。
「なら、お前は私にどうしてほしい?私に何を望んでいる?金か?それとも私に大事にしてほしいか?私は人の心など読めん。欲しいものがあるなら要求しろ。手に入らなければ手を尽くせ。少しは望むままに行動してみたらどうだ。待っていても、私は何も与えられん。何も持っていないからな」
 らしくない。
 だが、止まらなかった。
 言葉が口をついて出る。
 本心か否か。
 もはやそれさえどうでも良かった。
 感じたままに口に出す。
 それは会話ですらなかった。
「私の望みは貴方の側にいること、ただそれだけですもの。貴方が私を裏切らない限り、私は貴方を裏切りません」
「別にお前の忠誠など私は欲していない。私が望むのは、お前がお前の役割を果たすこと、ただそれだけだ」
「それが貴方の答えですか」
「そうだ」
 明香はため息をついた。
「失望したか?だが私はそういう男だ。自己の保身と身の安全しか考えられない臆病者だ。そのために人が死に、破滅し、そしてもっとも大事な人間を失おうとも生にしがみついている、ただの死体だ」
「そうやって、ご自分を責めるのですね」
「そうだとも。でなければ、誰が私を裁く?誰が私を非難する?裁かれざる者などこの世にはない。私は生きているのか?私は死んでいるのか?私にはそれさえ判らない。何故私は生きていなければならない?何故だ?」
「それでも生きようとなさっているからではないですか?」
「そうだろうな」
 虚無感がある。
 何もかもが虚ろで消えていきそうな感覚。
 グラスを持つ手に力を込める。
 微かな軋み。
 割れる。
 透明な剣が手に刺さる感触と、アルコールが傷口を灼く感覚が、ほぼ同時に起こる。痛みすら虚ろだ。
 握りしめると、脳に響く痛みがある。
 同時に、熱い感触も。
 流れる血がテーブルを伝い、染みを広げていく。
「みろ。それでも私の血はこんなに紅い。何故だと思う?」
 だがその問いに答える答えはなく、明香の顔は蒼白だった。
「どうした?私の血が紅いのが意外か?」
 明香はテーブルの上の物を全て薙ぎ払い、私の手にしがみついた。そして予想外の力で私の指を引き剥がし、刺さったガラス片を丹念に引き抜いていく。
 体の中から異物が引き抜かれていくのは、妙な感覚だった。
 それは以前から私の中にあり、それが明香の手で遊離していくような感覚に囚われたからだ。
 私はその光景を呆然と見つめていた。
 現実ではないような気がしたのだ。
 馬鹿馬鹿しいことに。
「取り敢えず大きな物は取り除きましたけど、細かいのが残っているかもしれません。明日お医者さんを呼びますが傷には触らないでください」
「知ったことか」
 返事の代わりに平手打ちがきた。
「明日は仕事をお休みして安静。いいですね?」
「梅干しを持ってこい」
「判っているのですか?」
「判っている。だから梅干しを持ってこい。台所にあるだろう?あれを一瓶丸ごとだ」
 明香は疑わしそうな目で立ち上がる。
「それと包帯とガーゼもだ」
 頷き、部屋から出る。
 一人になってから、自分の手を見つめた。
 ずたずたで、血まみれだ。
 ウイスキーの瓶を取り出すと、それを傷口にかける。
 熱い感触があるが、消毒にはなる。
 そのうち明香が壷と救急箱を持ってきた。
 私は壷の中から梅干しを一掴み出すと、種だけ除いて傷に張り付ける。
「何をなさるんですか!」
 明香には、また私が自傷行為に及んだように見えたのだろう。
「気にするな。こうしておけば、明日には食い込んだガラスが浮いてくる」
 合点を得たのか、明香はガーゼを張り付けてから包帯を巻いた。
 私はそれを明香のするように任せた。
 手早く、そして丁寧に巻かれている。
 流石だ。
「ご苦労」 
 私はわざとぶっきらぼうに言った。
「もうこんな馬鹿なまねはやめてください。寿命が縮みましたわ」
「それは保証できん」
「貴方は、女性を幸せな気持ちのままには出来ないタイプですね」
「理解している」
「今晩はずっとお側にいますから、眠った方がよろしいかと」
 これだけ迷惑をかけたのだから、従わぬ訳にもいくまい。
 私はふらつく足取りで立ち上がった。
 それを明香が下から支える。
「大丈夫だ。一人で行ける」
「でも、ふらついてます」
「介護者がつくほど私は老いていない」
 が、私を下から支えていた力が急に失せた。
 危うく転びそうになりながら、私は下を見る。
 明香が両膝をついて、惚けている。
「あれ?」
「『あれ?』じゃないだろうが。世話の焼ける奴だ」
 明香の細い肩を下から支える。
「飲めないのなら、私につきあうなどと言うな。私が潰れたのを見てから部屋に来ればいいものを」
「どうしても、ご一緒したかったんです。飲みたい気分でしたから」
「止めはせんが限度は知っておくことだな」
 明香を寝室に連れて行くと、ゆっくりベッドに横たえる。
 それから気づいた。
「すまん」
「私の方こそ、お手を患わせてしまって・・・・・」
「いや・・・・お前の服を血で汚してしまった」
 明香は首だけ起こして、自分の胸を見た。
 血の付いた指の跡が、幾条にも走っている。
「・・・・・」少し沈黙してから「明日の洗濯はちょっと大変そうですわね」
「すまん。悪かった」
 そうとしか言いようがない。
「お気になさらずに。貴方は大いに汚して、散らかしてくれればいいんです。そうすれば、私はそれを片づけてきれいに出来ますもの」
「お前はいい女だな」
 明香は少し驚いたような顔をする。
「だが、就職先は見つけておいた方がいい。こんなところにいると、貴重な時間を棒に振ることになるぞ」
「お気になさらずに。私は十分楽しんでますから」
「そうか」
 それだけ言うと、私はドアを閉めた。
 右腕が痛い。
 しばらくペンを持つのは苦労しそうだ。
 手すりに寄りかかりながら、階段を上る。
 苦労してベッドまでたどり着くと、そのまま仰向けになる。
 アルコールがかなり残ったままだ。
 明日は確かに安静にしていないといけないようだ。
 頭が痛い。
 朦朧としたことでそんなことを考えていると、意識が闇に飲まれていく。
 私はそのまま、眠りという闇に落ちていった。


戻る。