琥珀の指


 ブラインドのわずかな隙間をぬって朝日が差し込み、それがちょうど目元を照らして閉じた瞼に刺激を加える。
  榊 明香はその自然の目覚ましで眠りから覚めた。
 ベッドの上で大きく伸びをすると、息を深く吸い込んで新鮮な空気を肺に満たす。
 このあたりの冬は特に厳しい。身を起こすと漂う冷気が体から熱を奪う。
 多少慣れたといってもやはり寒いものは寒い。
 パジャマのまま部屋を出ると一階の洗面所へ向かう。
 屋敷のなかは驚くほど静かだ。
 冷気と静寂が屋敷のなかに靄を作るかのようにさえ感じさせる。
 だいぶ古いが軋みすらたてない階段をゆっくりと降りていく。
 洗面台には大人の身長の半分ほどもある大きな鏡が添えつけられている。
 水道の蛇口から流れる音が、これほどまでに響く家はそうはあるまい。外界から隔離された沈黙が生み出す魔術とでも称しようか。鳥の鳴き声さえ避けていくような空気が立ち込めている。
 始めて足を踏み入れるものには耐えがたいものかもしれない。
 しかし明香はいつもどおりに顔を洗い、髪を整える。
 備付けのタオルで頬に残る水滴を拭いさると、前髪を止めてあったピンを抜く。髪は流れるようになめらかに滑り落ち、彼女の顔半分を覆いつくしていった。
 切れ長の瞳は完全に見えない。その事が彼女を特異な存在に見せる。
 それゆえに、だからこそ、隠された瞳の輝きが人を魅了する。なにものを捨ててでも手に入れたいと切望するほどに。
 ただ、それは彼女の望みではない。極力自分を押さえて行動するように心掛けているのはそのためだ。
 腰の辺りまで延びた髪に櫛をかけ、三つ編みにして先端をゴムで縛る。
 そしてまた部屋へ戻る。
 彼女の部屋として割り当てられているこの場所は、ベッドとわずかな調度品以外には何もない。このなかでも純粋に彼女のものと言えるのは、肌身離さず身につけている金の懐中時計と衣装ぐらいなものだ。
 明香はクローゼットから衣装を取り出して着替え始めた。
 寒さに合わせて厚手の服を選び、その上からエプロンを羽織る。  ここからは仕事の時間だ。
 彼女に与えられた仕事はこの屋敷の管理と家事全般。具体的には炊事、洗濯、掃除である。
 ベッドの脇にある小さなテーブルの上に置かれた懐中時計を胸ポケットに収めると明香は再び階段を降りる。
 行き場所は厨房。とはいっても普通の家の台所とそれほどの違いはない。備付けのコンロの火力が一般のものよりもやや強力であるくらいだ。
 フライパンを火に掛けながら冷蔵庫から卵を二つ取り出して割る。目玉焼きはどうも手を抜いたようで余り好きではないのだが、朝の目玉焼きは彼女の主人の好物であるので三日に一度は作っている。
 簡単な料理といえども決して手は抜かない。どんな物でもこだわりをもって作るのが彼女のポリシーである。
 慣れた手つきで卵を焼き上げると食器棚にある膨大な量の皿から二つほど選んで盛りつけ、刻んだパセリで仕上げる。
 料理は目で味わい、香りを味わい、そして舌で味わうもの、と彼女は考えていた。たかが卵焼きでもそれにふさわしい盛りつけをすれば十分に化ける。百種に及ぶ食器は日々の食事を彩るのに十分な数だ。
 胸ポケットから取り出した金の懐中時計で時間を見る。そろそろ起きてくる時間だ。
 そしてそのとおりだった。
 機械のような正確さで、いつもと同時刻に彼女の主人が姿を現す。
「おはようございます」
「ああ。……おはよう」
 何の感情も感じさせない一言で朝の挨拶は終わる。主人との会話はこれだけで終わることもしばしばであった。
 他人に係わることをよしとしない明香ではあったが、これには驚かされた。明香はおろかこの世に存在するあらゆる女性に興味を抱かない。同性愛者というわけでもなく、自己陶酔者でもなさそうだ。
 人間嫌いでは済まないほどの厭世主義者なのだろうか。
 そんな単純なものではないことを彼女は知っている。
 黄昏と孤独、そして心の奥底に闇を持つ人間。彼を分類するとすればそういった類の人間だ。
 人は知恵をつけた事によって楽園を追われ、神によって罪を背負わされたという。
 だとすれば、知りすぎた人間はもっとも罪深い。己の所業が罪だと知り、何よりもその罪を自覚することによって二重の苦しみを得る。
 同情や感傷では救えない。宗教でも、だ。
 唯一の救いがあるとすれば、死の抱擁は万物に差し延べられるということだけだ。
 おそらく脳天気な人道主義者には一生かかっても分からないだろう。  知識として理解しても、心でそれを感じ取ることはできないだろう。
 すべてを手にするということがすべてを失うことだということは。
 明香は黄昏の先にある破滅を知っている。恐らく彼も。
 ただ、彼はそれに抗うことはない。そこが明香とは違っていた。
 ゆっくりとその時を待つ。怠惰に過ごすこともなく、ただじっと身をひそめて。
 病魔に侵されているならば諦めもつこう。
 しかし五体満足のまま、ただ漠然と感じ取れる破滅の足音を耳にするほど人の恐怖を煽ることはない。それは今日かもしれないし、10年先かもしれない。気がつけばそれは目の前にいる。
 明香はその恐怖に耐えられなかった。
 だから運命に逆らった。
 激しく抵抗した。
 あらゆる手をつくし、自分と、自分を取り巻く人間を守るために奔走した。
 莫大な負債と引換えに、その願いはかなった。
 明香自身はそれを自分の力だとは思っていない。ただ運がよかっただけだ。それに、失ったものも多い。
 しかし、ゼロになってしまえば後はどうにでもできるものだ。
 引く手あまたの彼女は、それらをすべて振り切ってこの屋敷を選んだ。正確にはこの屋敷に逃げ込んだ。
 快く迎えられはしなかった。無理やり押しかけたのだから当然のことだ。それでも強引に納得させて雇ってもらったのだから、無茶もいいところだろう。
 それから二年あまり、この屋敷に専属で働いている。
 主人のほうから何か注文されることは殆どない。すべて彼女に任せっきりである。
 信用されているとは思っていないが、酔狂で高額の給料を払うとも思えない。やはり彼女の能力をそれなりに評価してくれているのだろう。明香はそれを信頼として受け止めていた。
 無言の食事が終わると主人は静かに席を立ち、再び姿を消す。
 茶碗には米粒一つついていない。このあたりの几帳面さに、明香は親近感を感じてしまう。
 きっと彼は自分が思うほど、周りの人間が感じるほど冷淡ではないのだ。事実がどうであれ、明香はそう思っている。
 洗い物を終えると昼食の準備までの時間はひたすらに屋敷の掃除に明け暮れる。洗濯は全自動洗濯機のおかげで殆ど苦労することはない。
 おそらく先代から受け継がれてきたこの屋敷は、贅の粋を尽くして建築されている。階段の手すりなどは不気味なまでに精緻な紋様が彫り込まれ、ゆるやかなカーブを描く階段のレイアウトと相まって単なる構造物ではなく芸術品のレベルまで昇華されている。
 よほど名のある建築家の手によるものなのだろう。だがこの屋敷に訪ねてくる人間はわずかだ。こんな山奥に屋敷があることを知っている人間のほうが少ない。
 明香にとってはそれは逆に好都合だった。自分の仕事を邪魔されないし、この静寂が破られることもない。
 主人が書斎から出てくることは滅多にない。
 そのせいなのだろうか。屋敷内には生活感というものが感じられなかった。それは明香が始めてこの屋敷に来たときから変わっていない。
 明香は、ここを人の住んでいる、そういう雰囲気の屋敷にしたい、と願っている。
 他意があってのことではない。雇い主に対するささやかなお返しというものでもない。しかし、これといって理由は見当たらなかった。
 どうしてそんな気になったのだろう。そんな気になっているのだろう。少し考えてみるが、馬鹿馬鹿しくなってやめた。行動をおこすのに理由が必要な年齢ではないのだ。自分の思うことを赴くままにやればいい。
 掃除の手を休めて懐中時計を取り出してみると、時間はもう11時半を過ぎていた。
 そろそろ昼食の準備をしなければならない。バケツに雑巾を放り込むと汚れた水を捨てて水気を搾り取る。
 冷たい水に手を着けていたせいか指先が痛む。
 息を吹き掛け、二三度擦り合わせると痛みは遠のいた。
 石鹸で念入りに手を洗ったあと、冷蔵庫から鮭の切り身を取り出して火を通す。
 併せてみそ汁を作り、焼き上がった鮭と茶碗と一緒にお盆に乗せて書斎へ運ぶ。
 呼べば恐らく食堂のほうへ来るだろうが主人の邪魔をする気にはなれない。主が静寂を望むのであればそれに従うのは彼女の義務だ。
 扉の前に立つといつもの違和感が襲ってくる。
 彼女を拒絶する、敵意のような感覚。
 それが何処から来るのかはよく分からない。主が発しているのか。彼女の錯覚か。それとも屋敷自体の意思か。
 この扉を普通に通り過ぎることのできる日は来るのだろうか、と真剣に考えてしまうが想像のつく光景ではない。
 深呼吸して気分を落ちつけてからノックする。
「……入れ」
 明香の葛藤を知ってか知らずか、いつもどおりの反応が返ってきた。  そしていつもその一言で呪縛から解き放たれて扉を開けることが出来るのだ。
 書斎に入ると独特の香りが彼女を迎える。既に主人の体臭と化した紙の匂いだ。
 主人は背を向けて机に座っている。  傍らにはかなりの枚数の紙束が積み上げられ、主人はその中からの幾つかをより分けてまとめるという作業を繰り返している。
 情報を扱う仕事としか明香には知らされていない。
 ただ、汚い仕事だ、とも言った。
 たぶんそれが彼の抱える罪悪感の源なのだろう。
「お食事をお持ちしました」
「ああ。そこに置いておいてくれ」
 それはいつもと同じ会話。
 いつもはそこで終わりなのだが、今日は卓上で忙しく動き回る手が思い出したように止まる。
「午後に客が来る。貴賓室は使えるか?」
「はい。いつでも」
「ではそのように頼む」
「かしこまりました」深々と一礼して書斎から立ち去る。
 さて忙しくなったな、と明香は思った。
 貴賓室はその名が示すとおり、特別な客を迎えるときに使われる部屋だ。
 全体としてはどこかの宮殿の一室をそのまま持ってきたかのような構造になっており、国内の洋式建築のなかでも明らかにトップクラスの代物である。が、その分維持にかかる苦労も大きい。
 主人曰く、「たまにしか使わないくせに維持だけは面倒というろくでもない代物」。
 屋敷に来た当初は確かにそう思ったが、まさか主までそう思っているとは思わなかった。
 ともあれ月に一度は必ず使うことになるこの部屋は、苦労に見合っただけの満足感を与えてくれる。特にシャンデリアを磨きおわったときの気分は言葉では言い表せない。
 一日仕事になってしまうのでいつもは午後に入ってから掃除をするのだが、その午後に客が来るということは昼食を食べている時間は無さそうだ。
 明香は再びバケツに水を張ると貴賓室へと歩いていった。  

 主人が商談をしている。
 時々激昂するような声が上がるが主人の声は何一つ聞こえない。
 いつものことだ。主人がどんな口調で喋っているかはだいたい想像がつく。
 それで相手は腹を立てているのだろう。
 こういうときは温かい紅茶よりも冷たい飲み物のほうが好まれる。
 見事に禿げ上がった老年の男が今日の相手らしい。主人に食ってかかる男を遮るようにジュースを出すと明香は静かにその場から立ち去る。
 突然現れた明香に男は一瞬狼狽を見せたが、気を取り直したようにジュースを口に含んだ。
 ドアを出る瞬間明香の視界に入った男の表情は不快感を催させるものであったが、何事もなかったようにドアを閉める。
 すべてが計算されたことだった。
 貴賓室の存在も、明香の存在も、すべて相手の優位に立つための武器。道具。
 豪華であることは権力の象徴と見なされる。誘ったものに心理的威圧感を与えて有利な立場を展開する。それが貴賓室を使う理由。
 相手を惑わし、思考を乱すことで流れを変える。頭に血が上った相手をいなすために使われる道具。それが明香の存在理由。
 彼女はそれを苦痛と思ったことはない。容姿もまた能力の一つであるならば、こういった使い方もまた一つの真実だ。
 そして主はその使い方を心得ている。逸脱することもない。
 自分の扱いを委ねることは明香の主人に対する信頼の裏返しと言える。
 ここから先は主の領域。明香の出番はこれで終わりである。
 遅めの昼食を取ると、明香にはわずかな休息の時間が訪れる。
 普段は昼寝をしたり本を読むのに当てているが、今日はそういう気分にはなれない。自分用のカップにコーヒーを注いでただただ無為に過ごす。何かを考えるわけでもなく、ぼーっと庭先を見る。
 定期的に庭師を呼んで手入れさせている庭園も、今は何の生命も感じられない。薔薇も葉が落ちてしまっているために歪んだ枝しか残っていない。
 それでも、この庭は生きている。
 冬の訪れは春の先駆けでもある。春になれば球根が芽を出し、折々の花が咲き乱れる。枯れ枝のようになった薔薇も葉をつけ、花を咲かせることだろう。
 しかしこの中には咲かない花もある。春の花を思い浮かべることは出来ても、それは確実な未来の予見ではない。
 人間は期待に胸を躍らせている時がいちばん幸せなのかもしれない。
 らしからぬ悲観的な考えに内心苦笑しながら、コーヒーをゆっくりと飲み下していく。
 陽はいつのまにか傾いていた。そろそろ夕食の支度をしなければならない時間だ。
 煮物の準備をしていると、庭先で車のエンジン音が響いた。商談はどうやら終わったらしい。
 主人が食堂に入ってくるのがわかる。
「お疲れさまでした」
 それには答えずに主人は椅子に座る。その顔にこれといった表情はないため商談がうまくまとまったかどうかを読み取れない。何事もなかったということは、きっとうまくいったのだ。もとより、結果がどうであれ彼女には何の責務もない。
 わずかばかり、失敗していたらいいな、と思ったのは悪意ではない。鉄の意思と氷の如き心を持つ男の狼狽を目にしてみたい、という意地悪な好奇心。
「……疲れた」
 思いがけない言葉に、明香は一瞬耳を疑った。
 深く考えてしまう。
 『お疲れさまでした』に対して『疲れた』という言葉を返したのはどう意味か。ジョーク?……ではないはずだ。本当に疲れたのだろう。
 でも。いやしかし。
 やはり何か意味があるのか。どうしても深読みしてしまう。
 考え込んでしまった明香に、逆に主人が怪訝な顔をする。
「何かおかしなことを言ったか?」
「いえ……思いがけない言葉を耳にしたものですから」
「私だって人間だ。腹も減るし疲れもする。一応、血も赤い」
「そうでしたね」
 それは誰よりも良く知っている事実。時々自分のなかで過去形になりかけてしまうが、目の前の男は紛れもなく自分と同じ人間なのだ。
 良き理解者であろうと自分に課した目標は、まだ到達するには至らないようだ。
「お茶でもお入れしましょうか?」
「いただこう」
 湯飲みに緑茶を注ぐ音が、妙に小気味よく響く。
 屋敷のなかは朝と同じように沈黙に支配されていた。
 些細な音が大きく響く。  煮物を煮る音でさえ、交響曲のように。
 そのことに、明香は書斎を入るときと同じような違和感を覚える。
 所詮私はこの屋敷にとって異邦人にすぎないのだろうか。
 そんな感覚に捕らわれる。  無論、それは単なる妄想でしかない。
 互いに交わす言葉もないままに、茶をすする。
「商談のほうはいかがでしたか?」ふいに明香は訊ねてみる。
「可もなく不可もなくといったところだな」
 いつもと変わらぬ答え。
 ただ、ほんの一年前にはなかった事だ。
 触れがたい雰囲気はそれほど気にならなくなっている。主人が変わったのではなく単に明香が慣れただけなのかもしれない。それでも、変化は変化だ。
「………それが幸せなのかしら」
 思わず、口に出してしまう。
「何か言ったか?」
「いえ、別に」 「おかしな奴だ」
「あら、失礼な。私だってセンチメンタルな気分になることもありますのよ」
「そんな感傷など一文の得にもならん」
「でも人生には必要です」
「私には必要ないがな」
「あまりひねくれたことばかりおっしゃっていると、次の商談をぶち壊しますわよ」
「面白いな。期待している」
 少しも慌てた様子がないのに明香は腹を立てる。
 席を立つと、無言のまま食事の準備を始めた。
 男もまた席を立ち、食堂から出ていく。
 それを確認すると、明香は素早く唐辛子の瓶を取った。里芋を煮ていた鍋の蓋を開け、思い切って一瓶全部注ぎ込む。
 手間隙かけた煮転がしであったが、明香にはもはやどうでもよくなっていた。
 そのまましばらく煮込む。
 男が食堂に戻ってくると明香は何食わぬ顔でそれを盛りつけ、テーブルに並べた。
「どうぞ」
 男は明香の勧めに箸を取り、赤く染まった里芋に手を出す。
 別に危ぶむ様子もなく咀嚼し、飲み込む。
 一瞬、その動きが止まった。
「なんだ、これは」
「タイ風里芋の煮転がし」
 明香は大声で笑いたい衝動を辛うじて堪え、努めて平静に答える。
「ふむ」
 男は神妙な顔つきでもう一つ里芋を取り、口に運ぶ。
「………タイ風にしては酸味が足らんな」
 これには明香も絶句するしかなかった。
 鉄面皮もここまでいくと完璧だ。
「し、精進いたします……」
 男は頷き、それから明香に一言命令した。
「悪いが、水を一杯もらおうか」
「かしこまりました」
 我が意を得たりとばかりに明香はいちばん大きなコップに水を注ぎ、男の前に置く。
 それから箸を持って、自分も『タイ風里芋の煮転がし』をひとつ口に入れた。


RETURN.