氷の手錠
 

 私は滅多に悩むことがない。
 扱っていることの多くがどうでも良いことだからだ。
 だが、そんな私でも時折迷うことはある。
 今がそうだ。
 私の元には一通の招待状がある。
 差出人は、私の顧客の一人。
 ただ、内容が問題だった。
 ごく、親しい間柄の人間だけを集めたパーティ。
 それはいい。
 別に親しいかそうでないかというのはこの際問題ではない。
 資金集めに過ぎないのは最初から判っているし、ただの付き合いだ。
 時間。
 夜であるというのは、些細な問題だ。
 日にち。
 特に用事と言うほどのことはない。
 さらにその下。
 同伴者。
 この場合は女を連れて行けと言うことなのだろう。
 妻帯者ならば妻を連れて行けばいいのだろうが。
 私は独身だ。過去も、今も。
 恋人などという浮ついた存在はいない。
 愛人もない。
 声をかければついてくる女に心当たりはあるが、後が面倒なことになる。私は面倒なことが嫌いだ。
 さて、どうしたものか。
 一番簡単な解決方法がさっとよぎる。
 気が進まないことは確かだが、一番面倒のない方法でもある。
 だがしかし、明香を連れて行くというのは。
 何故そんな考えが浮かんだのか思いあたって、余計に嫌になった。
 私は、ここしばらく明香以外の女を見ていないのだ。
 今更ながら自分の仕事の閉鎖性が嫌になる。
 世界の半分が女だというのに、私は常にもう半分の人種としか会っていないという事実。あまり良い気分ではない。
 しかし、目下一番早い解決方法はそれだけだ。
 明香は断らないだろう。
 むしろ喜んでついてくるかも知れない。
 それはそれで問題なのだが。

「はぁ。パーティーですか」
 珍しく気の抜けた返事だった。
「別に無理についてくる必要はない。どうか、という話だ」
 明香は少し考え込んでいる。
「判りました。それも仕事のうちですから」
 まぁ予想した答えだ。
「服の類は」
「残念ながら、そういう高価なものは持っていませんので」
「だろうな」
 それが普通だ。
「服は私が用意する。日程だけ調整しておけばいい」
「女装の趣味がおありで?」
「そんなものはない」何故この女はそういう言葉が出てくるのだ。「貸衣装に決まっているだろう」
「それもそうですね。安心しました」
 疲れる。
「サイズだけメモしておけ」
「あら。貸衣装でしたら、自分で選びますけれども」
「好きにしろ」
 確かに、その方が助かる。
 女の服など選んだこともない。
 自分で選ぶというのであれば文句も出ないだろう。
 女は、男と違って出ている部分が余計にある。
「で、日にちは」
「明後日だ」
「ずいぶん急な話ですね」
「招待状が届いたのが昨日だ」
「せっかちな主催者ですこと」
「奴らの考えは私にも判らん。人種が違うのでな」
「資産家と政治家は違う人種なのですか」
「違うな」
「私には、どちらも似たように見えますけど」
「似ているが、違う」
「つまり、こう言いたいわけですね。『自分は、あいつらとは違う』と」
「無論だ」
「皆そう言いますけれど、誰も似たようなことをしてらっしゃる。私のような俗な人間には区別が付きませんが」
「私にも時々訳が分からなくなる。俗物なのでな」
「つまり、私たち二人は慣れない衣装を着て、場違いな場所へ行こうとしているわけですね」
「判っているなら問題はない」
 今度は明香が大きくため息をついた。
「問題だらけです」

「お二人でお出かけとは珍しいですな」
 運転手が言った。
 機械のようなハンドリングとスケジュール管理能力を持つ男。
 皺の多い顔は表情を作るときでも僅かに歪む程度で、感情の表現が豊かとは言えないタイプだ。
 あまりに無口で決まった返事しかよこさないので、ときどきロボットではないかとさえ思う。
 屋敷の中では一番古くからの付き合いだ。
 普段は別の場所に住んでいて、用のあるときだけ呼んでいる。
 滅多に喋ることなど無いのだが、さすがに珍しく思ったらしい。
「貸衣装、で判るな」
「かしこまりました」
 私が貸衣装を使うと言うことはほとんどない。
 というよりも、一度しかない。
 だから貸衣装の店といえば一店だけ、この男の記憶力ならば違えるはずもない。
 車が公道に出ると、明香が口を開いた。
「どんな服がよろしいでしょうか」
「好きなものを選べ。ただし派手でない奴を、な」
 私の言葉に明香は不服そうだった。
「着飾る、という単語の意味をおわかりですか?」
「飾るな。私は目立ちたくない」
「それなら最初から行かなければいいのに」
「そうもいかん。得意先だからな」
 形だけとはいえ、先方の顔は立てねばなるまい。
 これまでに何度か誘われているのをことごとく断っているのだ。顔だけでも出さねば相手の面目も潰れるだろう。
「そんな場所に、何故私を?」
「ただの気まぐれだ」
「そうですか。てっきり、誘う相手がいないから私を呼んだのかと思いました」
 ……………………。
 鋭い女だ。
「気まぐれだ」
 私はもう一度言った。
「では、そういうことにしておきましょう」
 可愛くない。甘言を黙って信じるような愚鈍さが欲しいとは言わないが、もう少し鈍くても良いと思う。
 何か嫌な予感がしたが、頭から振り払った。
 それからは言葉もなく、互いに別方向の窓を見つめながら、街中に入った。

「これは珍しい。察するに、そちらのお嬢さんの服ですか」
 店に入るやいなや、オーナーから運転手と同じようなことを言われる。
 ………………私が女連れなのは、そんなに珍しいことなのか。
 すこぶる心外だ。
 事実なので曲げようはないが、そんな云い方をされる憶えもないのだが。
「私はこういうのに疎いからな。適当なのを見繕ってほしい」
 ここのオーナーにはちょっとした借りがあったので、幾らかの金を工面し土地関係の書類を細工してやったことがある。
 一等地に店を構えていられるのはそのせいなのだが、売買に際して幾らかのマージンが私の懐にも入っているので私としては気を遣って貰ういわれはない。
 無いのだが、せっかくの好意には素直に甘えておくのが礼儀というものだろう。
 その方が後腐れはない。
 明香といえば、そこら中のハンガーから服を引っ張り出し、鏡に映している。
 まるで玩具売り場に行った子供だ。
 服など着られればどれもたいした差など無かろうに。
 などと思っていると、明香が選んだ衣装を手に持ってきた。
「こんなのは如何でしょう」
 明香が引っ張り出してきたのは、太股の上までスリットのあるチャイナドレス。どぎつい赤に、金の糸で花と竜が刺繍されている。
「何だ、その悪趣味なものは」
「チャイナドレス」
「そんなことは見れば判る。どういうつもりだ」
「どういうつもりも何も、私が着るのですが」
「ダメだ」
「ケチ」
「値段どうこうの前に、派手なのはよせ、といったはずだ」
「一回で良いから、こういうのを着てみたかったのに」
「着なくていい。黒とか紺とか、そういう地味な色にしろ」
「黒はともかく紺のドレスなんて聞いたことないですね」そういって明香はまた別の服を引っ張り出してくる。「あら、これも素敵」
 銀ラメ入りの、胸元が大きく空いたドレス。
 どうしてそんなものばかり見つけてくるのだ。
「………………わざとやっているな」
くるりと回り、笑みを浮かべて一言。「晴れ舞台ですもの」
「そうか。では、私にも考えがある」
 私は店員を呼んだ。
「この女に合うサイズの喪服を持ってきてくれ」
「かしこまりました」
「も、喪服ですか?」
 流石に明香が驚いている。
「色は、黒か紺と言ったはずだ」
「だからって喪服というのは」
「嫌がらせは私の趣味だ。お前が嫌がる顔、主催者の嫌がる顔、両方見られる名案だろう」
「でも、喪服というのはあんまりでは」
「私は気にしない。しかも色はちゃんと黒だ」
「黒はやめましょう」明香が断固として言った。「せめて白にしませんか?」
「芸人でもあるまいに、白のスーツを着る趣味はない」
「でも、白のドレスなら良いのですね?」
 白。
 あまり好きな色ではないが、それならば派手では無いだろう。
「よかろう」
「嬉しいっ」
 明香は満面の笑顔で店員を呼び、こう言った。
「とびっきりのウェディングドレスを出していただけないかしら?」
「馬鹿者!」
 私は思わず大声で叫んでいた。
「普通のやつにしろ」

 結局、ドレスは無難なデザインのものに落ち着いた。
 というより、あれはほとんど私が決めたようなものだ。次々と変なデザインの服を引っ張り出してくるので、非常に疲れた。
 そんなものを見つけてくる明香も明香だが、店に置いてあるというのはどういうことなのだろう。やはりああいった特異な服を好んで着る人間がいることなのだろうか。
 貸衣装というものの概念がいまいち掴み切れていないせいなのかも知れない。
 女の買い物というのはみんなこうなのだろうか。
 …………いや、そんなはずはあるまい。明香が単に私をダシにして遊んでいただけのこと。戯れだ。
 ともかく疲れた。
 これで一段落だ。
 実際にはまだ本番が待ち受けているわけであるから問題は何一つ解決したわけではないのだが、なるべくそのことは考えないようにする。
 忘れよう。
 そのときが来たら考えればいいだけのことだ。
「楽しみですね、パーティー」
 明香がうきうきとした表情で私に話しかけてくる。
「ああ」
 応対するのも疲れるので適当に受け流す。
「いろんな人が来るんでしょうね」
「そうだな」
「料理とかも凄そうだし」
「うむ」
「……………ちゃんと聞いてますか?」
「聞いている」
「もっと楽しそうな顔をしたらどうです」
「楽しくないのに楽しそうな顔をする必要が何処にある」
「この世の出来事は、何をおいても自分の認識一つで変わるのですよ?楽しい事なんて幾らでも思いつくじゃないですか」
「思いつくのと現実は違う。夢想するのは個人の勝手だが、私は現実的に捉え対処する。それは唯の認識の違いだ。お前の言う認識の、な」
「その考えですと、人生の70%は損をしていると思われますが」
「人生は損得ではない」
「その答えには矛盾がありますわよ」
 明香は力説する。
「損得でないのなら、無理に行かなくてもいいはずです。つまり行く以上は何か目的がある。ぶっきらぼうな顔で行くことはプラスにはならないでしょう。ということは出来るだけ楽しそうにしていた方が得、ということになります」
「そんな努力は無駄だ」
「とりあえずニコニコしていれば相手は喜ぶんですから。よろしければ、屋敷についてから営業スマイルのやり方をレクチャーいたしましょうか?」
「いらん」
 営業スマイルのやり方、などというものを口にするということは、いつもの謎めいた微笑は営業スマイルなのか。
 微妙に違うような気がするのだが。
 聞いてみたいような気もしたが、やめる。
 必要以上に疲れるだけだろう。
「昼過ぎには屋敷出る。それまでに準備しておけ」
「わかりました」
 とりあえず、明日までに仕上げておかなければならない仕事がある。
 頭の中からパーティーのことを追い出しながら、私は階段を昇った。

 豪奢な飾り付け。
 溢れんばかりの光と人。
 親しい人間だけを集めたパーティーか。
 多いな。
 人でごった返す会場で、私は一人そう思った。
 此処にいる人間全てが親しい人間なのだとすれば、たいした社交家だ。
 もちろん資金集めのためのパーティーなのだからそれなりの人数はいるのだろうが、この数は「ちょっとした」というような数ではないように思う。
 ざっと見積もって200人近い。
 テーブルの上の料理を見る限り、これぐらいの人数は想定されているのだろう。
 山海の珍味とは云わぬまでも和、洋、中華、一通りの料理はそろっている。
 それなりの質ではあるのだろうが、別に食欲も湧かない。
「やっぱり、こういう場所に誘っていただけるのは嬉しいですわね」
 純白のドレスに身を包んだ明香が言う。
 手した皿には色々な料理が載せられている。
 好みで選んでいると言うよりは、自分のレパートリーに加えるべく料理のレシピを探っているのだろう。
 旺盛な好奇心を満たすべくテーブルの周りを歩き回る明香の姿は、その熱心さ以外でも目に付く。
 人間を品定めするのは私の流儀ではないが、正当に評価しても明香の質は違う。
 シンプルだが、品の良さを感じさせるのは、何も服のせいだけではあるまい。
 女にしては背が高いほうなので、一見がっちりした印象を与えがちだが、ドレスが浮き上がらせる体の線は細く華奢だ。いつもの輝くような亜麻色の髪は、染料で黒く染められている。曰く、「変装」だそうだ。
 艶のある黒に変貌した髪はいつも通り首の辺りで丁寧に縛られており、長く延ばした前髪も相変わらず瞳を覆い隠している。まるで自らのパーソナリティーを隠蔽するかのようだ。
 髪の色を変えただけでこうも変わるものか。
 女の魔性を垣間見たような感覚さえする。
 ある種の感嘆でもって、私は明香の「変装」を見つめた。
 亜麻色の時は輝くような印象を与えているが、髪を染めると肌の白さが際だつ。
 大理石と言うよりは陶磁のような白さ。ドレスも白。
 艶の有る黒、素肌の白、そして光沢のある絹の白という独特のアクセントが、装飾品の必要性など微塵も感じさせない。
 シンプルさが異様なほどに華美だ。表現としてはおかしいのだが、私にはそうとしか形容できない。
 色彩の渦中に、突如開けられた空白。
 装飾品すらなく、飾り気のないものが、此処まで人目を惹きつけるとは。
 これならば、本当にチャイナドレスでも着せておけば良かったか。
 華美な服で安っぽさを出した方がかえって目立たなかったかも知れない。
 視線の集まることに戸惑いと疲れを感じながら、そんなことを思う。
「連れ合いがいないから代わりに連れてきただけだ。勘違いするな」
 拒絶めいた台詞が出てくるのは、その裏返しなのかも知れない。
「あら、勘違いなどしてませんわよ。公の場に誘ってくれたことを素直に感謝しているだけです」
 いささかの気負いもなくそう言ってのける彼女が少し羨ましい。
「なら立場をわきまえろ」
「わきまえていますよ」それから耳元に口を寄せ囁く。「でも、余りよそよそしい態度を取りつづけていると変に勘繰られますわよ」
 忠告とはいえまい。
 ほとんど脅迫の様なものだ。
 明香は私に対し、事有るごとにこういう態度を取る。それが面白く、時には不可思議でもあるのだが。
「手でもつないでほしいのか?」
「パーティーなんですから、踊りましょう」明香が手を取りダンスを続けている連中のなかへ引きずり出す。
 女にエスコートされるのは初めてだ。
 私の手を引く明香の腕は、会場の中央に行くに連れて力の入り具合が緩やかになり、手首を掴まれていたはずがいつの間にか指と指を絡まされている。
 絡めた指で私の手のひらを握りしめるように、体を引き寄せる。
 一瞬、互いのからだが密着する。
 私は苦笑した。
 立場があべこべだ。
 男役と女役が入れ替わっている。
 このまま続けるのも面白いが、そんな目立つことをしたくはない。音に合わせて足並みを整える。
 明香もそれに合わせてくる。
「慣れておいでですね」
「これも仕事のうちだからな。ある程度は出来る」
 実際はなかなか冷や汗ものの足取りなのだが黙っていることにしよう。
 楽しむ余裕など有りはしない。
 無表情を装いながら足並みだけを合わせる。
 踊るのではなく体を動かしながら時間の経過を待っていると言ったほうがはやい。
 訳もなく焦燥感に駆られる。
 恐らく5分ほどだっただろう。
 ようやく区切りがつく。
 このままもう一曲やられてはかなわない。
 私は足早に人の輪から抜けた。
 明香の腕は私に絡めたままだが、ふりほどくのも大人げないと思ったのでそのままだ。
 あとは隅の方で大人しくしているに限る。
 目立つのは気分が悪い。
 だが我々を見逃さなかった者がいた。
「お嬢さん。私と一つ、踊っていただけませんか?」
 主賓の登場だ。
 年は私と同じか、それより多少上ぐらいだろう。ポマードでべったりと固めた髪が照明でてらてらと光っている。が、私にはそれが脂が照っているように見えてすこぶる不快な気分になった。
 誘い方にももっと芸があるだろうに。
 明香が私を見る。
 水晶のような瞳は、今や輝きを失ったガラス球のように私を見つめている。
 男の誘いは問題ではない。私の決定こそが全てだとでも言いたいのか。
「相手をしてさしあげろ」
「それが御命令ならば」
 うって変わった無表情な受け答え。
 明香はからめていた腕を解き、男の方へと歩み寄った。
 私は何となくその光景を見ていたくはなかった。
 料理をつまむ気にもならない。
 テーブルに並べられたシャンパンのグラスを手に取ると、口に含む。
 権力者を集めるだけあって、物はよい。
 私はソムリエではないので銘柄が何か、とまでは判らないが味の善し悪しぐらいは判別がつく。
 こいつらには判っているのだろうか。
 視界の片隅に明香が入るたびに私はグラスを煽った。
 妙な気分だ。
 気を紛らわせるために他の客とたわいない歓談を交わす。
 互いのカードを伏せたままで話をするのだから、何も得るものなどありはしない。
 こんな場にまで腹の探り合いを持ち出す神経は私にはよく判らない。
 蛇が、互いの尻尾を喰らいあって輪になるようなものだ。
 ウロボロス。
 閉鎖された呪いの輪。
 自分の立場も置かれている状況も決して健全とは言えないが、進んで輪の中に入るのは御免被る。
 望むと望むまいと、気が付けば輪の中、そういうことの方が多いのだが。
 誰がいようといまいと、私には大して関係はない。
 誰も信用できないし、こいつらも私を信用してはいない。
 協力関係ですらない。こいつらがほしいのは私の持つ情報網だけであり、変わりに私が得るのはいくらかの金と憎悪の眼差しだけだ。
 後ろで響いていた音楽が止まる。
 一曲終わったようだ。
 他の男の誘いを振り切り、明香は一直線に私のところへと戻ってくる。
 踵を踏みならすように、ずかずかという音でも聞こえてきそうな勢いだ。
「最低の気分ですわね」
 髪に隠れてよく分からないが、たぶん私を睨んでいるのだろう。
「今日は貴方のパートナーとしてきたのであって、仕事に使われるためじゃありません」
「付き合いだ。我慢しろ」
「それなら、今月のお給金は割増し請求させて貰いますから」
「検討しておこう」
「もうっ」
 明香は怒って別のテーブルへと向かってしまった。
 何をするのかと見ていたら、ウエイターが持っていたグラスを掴むと一気にあおっている。
 なかなか豪快な飲みっぷりだ。
 普段は自分の感情を表に出すことのない彼女が、こういう反応を見せるのは滅多にあることではない。
 純粋にこのパーティーを楽しみたかったのだろう。
 無論、相手も招いた以上は何らかの見返りは期待しているのだろうから、手を取らせてダンスに興じさせるぐらいは明香にとっても許容範囲のはずだ。
 私もグラスを手に取り、甘い香りのシャンパンを嚥下する。
 許容範囲のはず、か。
 相手の真意も問わないままに人を使える自分は何様だというのか。
 己の行き先さえ定められぬ人間が、人をあごで使うというのもおこがましい。
 微かに覚えた罪悪感を、シャンパンとともに飲み下す。
 心地よい高揚感を与えてくれるはずのアルコールは、私のなかに妙な甘ったるさと後味の悪さだけを残した。

 パーティーのほうが一段落し、私と明香は屋敷を出た。
 見ると、他の客もぞろぞろと車へ戻っていく。
「我々も引き上げるとするか」
 玄関先で、黒服の男が私を呼び止める。
「なにか?」
「貴方様に、折入ってご相談が」
「相談?」
「はい。ご主人様が、そちらの女性を大層お気に入りになられまして……」
「明香を貸せ、と?」
 黒服は頷く。
 後ろに立つ明香を見る。
 その表情に変化はない。いつもと同じ、謎めいた微笑を浮かべて立っている。
 私の決定には従う、という意思表示なのだろう。
 如何なる決定であろうとも。
 それが明香による無言の圧力、戦い方なのかも知れない。
 決定の是非ではなく、決定そのものを迫る。
 明香だからこそ出来る、方法。
 だが、何者であろうと、問われるまでもなく私の答えは一つだ。
「いかがでしょう。ここで恩を売っておくというのは、決して貴方様にとって悪い話ではないはずですが」
「断る」
「は?」黒服の男が予想外のことに目を丸くする。
「聞こえなかったか?私は断る、といったのだ」
「失礼ですが、貴方様は主が何者か心得ておいでで?」
「明香は私の有能な部下だ。取引の道具に使うほど、安く見積もられては困る」
 なるほど奴と私はいずれ取引相手にはなるだろう。が、今は何の関係もない。
 女を世話してやるほど、私のプライドは低くない。
 将来の見積のために、何かを捨て石にするなど愚か者のすることだ。
 私は誰のためにも動かない。
 私は唯、私であるためだけに動く。
 利益など知ったことではない。
 気に入らないことは拒否する。
 例えそれが神であろうとも、だ。
「……どうしても断る、と」
「無論だ。主にもそう伝えておけ」
 黒服の男に背を向ける。
「明香。帰るぞ」
「はい」
 一瞬の間があったあと、明香は何事もなかったかのように私のほうに歩み寄った。
 車は既に屋敷の前に止められており、ドアを開けて我々を待っている。
 もうこの屋敷に用はない。
 恐らく、永遠に。
 振り返る必要もない。
「何故、私を引き渡さなかったのですか」
 車に乗り込んだ私に、明香が訊く。
「お前には関係のないことだ」
「取引に応じれば、あなたには莫大な利益があったはずです。御命令とあらば、私はどんな事にも耐えましたのに」
 耐えるだろう。
 それが仕事であるならば。
 明香はそういう種類の覚悟を持っている。
 金銭ではない、確固たる何かを持った者だけが身に宿す強固な意志。
 時折、それを垣間見せる。
 それは時に私を戸惑わせ、怖れさせる。
 私にはない光。
 私にはない強さ。
 その源が何であるのかは私には判らない。
 彼女と私の隔たりというのはそういう部分から生まれるのだろう。
 こんな状況ではまともに顔を合わせることも出来ない。
「なら早く忘れることだな。あの男との取引は終わった」
「理由をお聞かせねがえますか?」
 なおも食い下がる明香。
「理由など無い。お前の役目は私の屋敷の管理、ただそれだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。思い上がるな」
「それは、私のことを少しは大事にしてらっしゃると解釈してよろしいのですか?」
 私の顔を覗き込む明香。目元の髪から僅かに見える瞳が、まっすぐに私を見つめている。
 答えを強要するかのような、眼。
「どうにでも好きに解釈しろ」
 吐き捨てるように言う。
「素直じゃありませんね」口の端を緩めて、小さく笑う。
「お前が変わっているだけだ」
「では、そういう事にしておきましょう」大きくため息をつくと、車のシートに深く身を預ける。
「今日は疲れました」
 明香がもたれかかる。
 肩にかかる、彼女の重み。
 抱えたときよりも重く感じるのは何故だろう。
 黒曜石を塗り固めたような質感の髪は、微かに花の香りがする。
「………でも、さっきは嬉しかった」
「何の話だ」
「明香は私の有能な部下だ、っておっしゃいましたでしょう?」
「覚えがないな」
 しらを切る。
「たしかに聞きましたよ」
「気のせいだろう」
「本当に素直じゃありませんこと。どういう育ち方をなされたのですか?」
「お前に育ち云々を言われる筋合いはない」
「うふふ。でも、私には分かってますのよ」
「何がだ」言ってから、さっきと同じ台詞を口にした自分に気づく。
「あなたが本当は優しい人ということ」
「優しい?私がか?」
「そう。あなたが思っている以上に」
 明香は私の耳元に口を寄せ、囁くように言う。
「くだらんな」
 自分がどういう類の人間かは、自分が一番よく知っている。
 他人の人生を狂わせるようなことは何度もしてきた。
 私の眼の届かないところで、何人かは死んでいるだろう。
 優しいなどと形容されるような生き方はしていない。
 死ねば間違いなく地獄行きだ。
「本気でそう思っているなら大きな間違いだぞ」
 返事はない。
 私の肩に身を預けたまま、明香はじっとしている。
 運転手が車のエンジンを掛けた。
 低い排気音が窓の外から微かに響く。
「……おい。いつまでそうしている気だ?」
 呼びかけてみるがやはり返事はない。
 私の肩にもたれ掛かったままの彼女は、いつのまにか寝息をたてていた。
 慣れない場所で、神経を使っていたのかもしれない。
 言いたいだけのことを言ったあと、さっさと寝てしまう当たりはいかにも彼女らしい。
「出してくれ」
 運転手に命令し、屋敷を後にする。
 私もいささか疲れた。
 ゆっくり瞼を閉じる。
 心身ともに疲れ切った体が眠りに落ちるのに、そう長い時間はかからなかった。


RETURN.