青銅の踵


 深い夜の闇。
 それは窓から差し込む一条の光によってうち消され、光の領域へと傾いていく。
 本来ならばもっとも私にふさわしくない時間。
 しかし、朝は必ずやってくる。
「おはようございます」
 女がブラインドを開けた。亜麻色に近い髪が光を受けて輝いている。口許には微かな笑みを浮かべてはいるが、長く延ばされた前髪が表情の半分を覆い尽くしている。名前は榊 明香。もっともそれが本名かどうかは知らない。たいして興味はないし、意味もないことだ。
 有能で忠実である限り、利用価値がある。
 それで十分だ。
「朝食はどうなさいますか?」
「下で摂る」
 儀礼的な応対。明香は私が下で朝食を摂ることを知っている。そして準備もすでに整っている。毎朝繰り返される習慣。しかし、一年前にはなかった。
 何かが変わっているのかもしれない。
 しかし本質はなにも変わってないのかもしれない。
 日常とはそうしたものだろう。
「かしこまりました」
 明香は一礼すると部屋から出る。
 着替えて階下へ降りていくと、パンの焼ける甘く香ばしい匂いが立ちこめている。
 食材と調理に関しては全て明香に任せてある。
 顔を洗い、髭を剃ってから食堂へ足を運ぶ。
 いすに座ると明香がコーヒーをついだ。
 テーブルの上の食事は一人分。
 私のものだけだ。
「お前はもう食べたのか?」我ながら間抜けな質問だ。
「使用人の私が主人と一緒に食事するわけには行きません」
「つまらんところにこだわるな」
「こういうことは大事だと思います」
「その割には逸脱した行為をとるな」
「それも、仕事のうちですので」
 微笑して答える。が、表面的にはともかく真意は判らない。
 普通の人間ならば違和感と不安を感じる受け答えだが、この女にはそれさえもふさわしく思える。
「今日の予定の方は」
「別にない。何かあったら書斎にいるから連絡しろ」
 席を立ち、書斎へこもる。
 膨大な量の本。ほとんどは、祖父の代から受け継がれてきた物だ。1万冊はあるだろうか。火事になったらよく燃えそうだ。
 古くなった紙特有の、かび臭さにも似た匂いが私を包む。
 日当たりは決してよいものではないが、私にはこちらの方が好みだった。
 厚い本棚が防音材の役目を果たすのか、外部からの音はほとんど遮断されている。
 一冊適当に取り出してひもとく。
 「園芸入門」
 すぐに閉じて別の本を取る。
 掃除機をかける音がかすかに響いていた。
 屋敷のほとんどを掃除し、三食作り、洗濯をする。労働としてはかなりハードな部類にはいるだろう。幽霊屋敷のように思えていたこの家がまともに管理されているのはひとえに明香の努力であるといえる。その労力たるや相当の物だっただろう。
 書類の管理は私が自分でやっているが、彼女が秘書としても十分な能力を持っていることは想像がつく。
 何が目的でこの屋敷に来たのか。
 雇った当初は少し様子を見ていたが、どうも仕事以外のことには興味がないらしい。余計に怪しいと言えば怪しいが、盗られるものと言えばどうでもいいガラクタぐらいで、あれも別に盗られて困る物ではない。
 今では明香がそばにいるのが当たり前になっている。
 不思議なものだ。
 だが、それにももう慣れた。
 身内という感覚はない。ただ、共に生活するだけ。私は雇い主で明香はメイド。そういう関係のままだ。
 それでも、先日の明香の行動が気にかかった。
 単なる戯れか。
 他意あってのことなのか。
 仕事がら人を見る目は持っているつもりだが、明香の行動に関してだけは全く予想がつかない。仮に明香が誰かの依頼でこの屋敷に潜入しているのだとしても、心当たりがありすぎる。私には味方よりも敵のほうが数十倍多い。
 何かしらかの目的があってここにいるのならば、追い出すのが得策だろう。あるいはしかるべき人間に調査をさせるという方法もある。
 しかしそういう気にはならない。
 私はたぶん、明香が何かを変えてくれることを期待しているのだ。
 そしてそれは無駄に終わり、何も変わらないという結果が導かれるだろう。
 運命は常にそういう結末を用意してくれている。
 これまでと同じように。

 昼を過ぎて、明香の作った昼食を食べ終わると、いつもと同じ単調な午後がやって来る。
 一日は24時間。これを長いと感じるか短いと感じるかは人それぞれだろう。
 私には、長すぎる。
 努力すること、前に進むことは容易に辿り着けないからこそ意義があり、また楽しいのだ。目的のないままに生を重ねることは苦痛でしかない。
 長い午後のほとんどは、この部屋で読書と思索に耽っているうちに終わる。
 しばらくすると、おもむろにドアがノックされた。
「なんだ?」
「お客様がお見えになっています」
 明香がドアをわずかに開けてそう答える。彼女が無断でこの書斎に入ることは決して無い。それが私への配慮かどうか知らない。ただ、この部屋に何か違和感を感じていることだけは確かだ。
「相手は誰だ?」
「高隅様です。急な御用とかで」
「わかった。応接間に通しておいてくれ」
 私は身支度を整えると席を立った。
 どうせ急な用というのはろくでもないことだ。
 階段を降りて応接間に入る。
 私の屋敷のなかでも、この応接間ほど無駄なものはないだろう。無意味なほどに過剰な装飾。管理に手間取る巨大なシャンデリア。何の目的でこんなものを作ったのか、私には理解できない。
 ただ、普通の人間はここに入るだけで圧倒されるらしい。
 ドアを開けると、そこには初老の男が待っていた。
 年齢は50近い。が、外見は60といったところだ。
 薄くなった頭と脂ぎった肌が私の嫌悪感を煽り立てるが、さすがに追い返すわけにも行かない。世の中のためにはこういう下衆はさっさと死んでもらうのがいいのだろうが、この男にはまだ利用価値がある。
「急な用とは?」
「あなたに少し調べていただきたいことがありましてな。詳しいことはこれに」
 高隅は書類の束を無造作に放る。
「やれやれ。今日は久しぶりの休日だったのだがな」
 ぼやきながらそれを手に取る。調査依頼の内容はたいしたものではない。
 ただ内容を充実させようとすると手間と時間がいる類のものだ。
「あなたにとっても損のない話ですよ」
「別に断る理由もない。……期限は」
「一週間、といいたいところですが残念ながら時間がありません。出来れば三日で」
「きついな。大したことは調べられんぞ」
「ではできるかぎり、ということで」
「まぁ努力してみよう」
 私は紙束を机に放り出すと適当に答えておく。損の無い話、といっても何の得になるのか大して判らないような依頼だ。高隅に借りを作った覚えもない。
「それと例の件について、考えていただけましたか」
「何の話だったかな」
「あなたの側にいる、あのメイドの話ですよ」
「ああ、あれか」
 高隅は自分の妾に明香が欲しいとかいう提案をしてきたのだ。その場できっぱりと断ったのだがまだ諦めきれていないらしい。
 50も過ぎていまだ女に手を出そうとするのを俗世間では「若い」などと形容するらしいが、私に言わせればただの好色じじいだ。
「お譲りいただけますかな」
「残念だがそれについてはこのあいだ話したとおりだ。人は金で売り買いするものではない」
「あなたらしからぬ言葉ですな。それとも、それほどまでにあの女に思い入れがあるということですかな?」
 下卑た表情で笑う高隅。あの汚い口が二度と開かないように縫いつけてやったらさぞ愉快なことだろうが、そんなことは労力の無駄だ。
 皮肉のつもりかどうか知らないが、自分と一緒にしないでほしいものだ。
「どう思おうと、それは勝手だ」
「……そのうち気が変わることもあるでしょう。私のほうはいつでもお返事をお持ちしておりますよ」
 高隅はそういって席を立つ。
 明香が扉を開けた。
「では三日後に」
 私は適当に頷いて高隅を玄関まで送る。
 そして奴は黒塗りのリムジンで去っていった。

 微かな苛立ちを伴って、扉を閉める。
 目の前に明香が立っていた。
「私を、お売りにならなかったのですね」
「立ち聞きとは趣味が悪いな」
「お茶を出そうと思ったら、たまたま聞いてしまっただけです。でも感謝いたしますわ」
「別に感謝されることではない。人の売り買いはしないという、私のルールに従ったまでだ。たとえお前を売り飛ばしたところで、私にはメリットがない。金はあってもこんな山奥まで働きにこようなどという人間は希有だからな」
「私も、私のルールに従ってあなたにお礼を申し上げているだけです」
「可愛げのない女だ」
「それが私の売りですから」
 私はため息をつくと、再び書斎の扉を開けた。
「聞いていたなら分かると思うが、仕事が出来た。夕食はここへ運んでくれ」
「かしこまりました」
 明香は一礼して去る。口許には相変わらず微笑。
 扉を閉めるとそこが私の世界だ。
 当たりは薄暗い闇に包まれはじめている。
 私にふさわしい時間。
 依頼書にもう一度目を通し、方針を練る。
 どうやって調査するかではなく、どのくらいの情報でとどめておくか。
 世界はバランスで成り立っている。
 偏ることがなければそこには常に需要が発生する。
 私は何も生み出さない。
 私の行動はただ波を起こすだけだ。
 そこに流される人間がいて、運ばれてくる人間がいたとしても、世界は何も変わったりはしない。
 一切の光が失せ、沈黙と静寂の夜が到来する。
 それが私の一日の始まりだった。


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