銀の欠片


「なにこれ」
 私が後見人となっている、明香が言うところのあしながおじさんのパートナーである伊月 友梨香は屋敷に入るやいなや、その「惨状」に顔をしかめた。
 無理もない。
 明香がここを去ってから、屋敷の手入れをするものは誰もいないのだから。
 食生活は一変、浴槽は使われずに埃を被ったまま、私の居住区は書斎と寝室だけ。
 食事は、自分でも時折忘れるようなものしか食べていない。
 体重も減ったような気はするが、体重計は壊れたままなので正確なことは判らない。
 あとは、明香がしていったことそのまま。いかに部屋が片づいていようとも、埃を払う人間がいなければ廃墟とたいして変わらない。
 服と食べ物だけは、週に一度業者がやってくるのでなんとかなっており、それ以外の事に関しては何もやる気がないので、そのままだった。
 そんな状態を見て、彼女が顔をしかめただけ、というのは相当控えめな表現だと受け止めざるを得ない。
「外で見ると凄く格好いいのに、どうして家の中ではこんなにだらしがないのかしら」
「そういうものだ。人というのは」
「ふうん。それがおじさまの哲学という訳ね」
「哲学ではなく事実だな。友梨香にも、そのうち判る」
 そのうちでなく、もう判っているのかもしれないが。
「ま、高校に行ってクラスの男子が見た目以上に子供だってのは判ったわ」
「おまえもまだ、十分子供だ」
「最近の女はみんな早熟なのよ」
 友梨香が胸を張って答える。
 その様子が何処か滑稽で、私は小さく笑いを漏らした。
 友梨香は黙ってそれを見ている。
「どうした」
「ごめんなさい、おじさまの笑った顔をしばらく振りに見た気がしたから」
「そうか?」
「お父さんが死んでから、おじさま殆ど笑わなくなったし」
 そうだろうか。
 もともとあまり笑ったりするようなことはなかった気もするが、しかし友梨香がそういうのなら、そうだったのだろう。
 それにしても、高校に入ったばかりの少女にも心配されるぐらい、どうやら私は危なっかしく感じられるらしい。
 好意を向けられるのは構わないが、細かいところまで気にしすぎではないか。
「どうでもいいが、『おじさま』はよしてくれないか。そういう柄じゃない」
「うーん、でも厳密におじさんというと悦也おじさんしかいないし、六道おじさん、って呼ぶのもなんだか変な気がするの。おじさんって呼ぶには、ちょっと格好良すぎるわ」
「褒めすぎだ。気持ち悪いからやめてくれ」
「おじさま、見た目はもう少し活用した方がいいわよ」
「人間嫌いの偏屈に好んで寄ってくる人間はいないさ」
「すぐそうやってネガティブな方に考える」
「これがチャームポイントだからな」
「…………あんまり笑えない」
「そうか」
「また誰かを雇ってどうにかして貰う気はないの?」
「さて、募集をかけても来るかどうか。金は惜しくないが、私が納得できないと意味がない。そんな人間が、こんな所まで来るかな」
「私が来ても良いわよ」
「学校はどうする気だ。ここから通うのは大変だぞ」
「だから、土、日だけ。どうせ部活はいる気はないし、あっちの方も面倒見てくれる人が来たから私結構ひまなのよ。おじさまには恩があるんだから、お得なサービス料金で良いわよ」
「結局、金は取るんだな」
「だって、今自分で『金は惜しくない』って言ったじゃない」
「確かにそうだ」
「それでね、高校卒業したら、看護学校行こうと思うんだけど」
「お前がそうしたいのなら、そうすればいい」
「うん。そうする。家には戻らない方がいいって、悦也おじさんもいってた」
「身内の意見は聞いておいた方がいい」
 しかし、あいつがそんな事を言うのは少し意外でもある。
 何か考えがあるのだろうが、あいつもそれなりに恭也の残した一粒種を気にかけていると言うことなのか。
「私に言わせると、二人ともちょっと過保護ね」
「男親というのはみんなそういうものなんだそうだ。恭也が昔そういってた」
「だとしたら、私の結婚する男は相当苦労しそうね。ちょっとやそっとでは認めて貰えなさそう」
「結婚なんて、まだ考える歳でもないだろう」
「そんなことを言っている間に日は過ぎて、おばさんになって、一人で寂しく老後を過ごすんだわ」
「大丈夫だ、お前なら貰い手は絶対いる」
「そうね。もし、どうにもならなかったら、おじさまのところに収まるっていうのも悪くないわね」
「源氏物語ではあるまいし」
「ハンサムなお金持ちだもん。歳のことは忘れるわ」
 なるほど、こういうところは確かに恭也の娘だな、と思う。
「じゃ、来週から通い妻としてここに通うから、よろしくね」
「誰が通い妻だ」
「いいじゃない、別に。ところで、何か食べたいものはある?」
「無い」
「好きなものとかは?」
「これといってはないな。ああ、ご飯に味噌汁をかけたのは好きだが」
「それ、料理じゃない」
「そうか?まぁ毒以外だったら大抵何でも食べる。メニューは気にするな」
「ん、わかった」
 明香は居ない。
 それでも季節は巡るし、時は経つ。
 少女は大人になっていくだろうし、私は老いていくだろう。
 時折、彼女の姿を幻視することがあるが、それは紛れもない幻であり、あれが今生の別れだと思えば惜しくもあり、幸福でもある。
 過ぎ去った日を、鮮やかな色に染め上げていった彼女の姿。
 いつかは灰色の過去となっていくのだろう。
 けれども、今だけは。今少しの間だけは、私の心に色彩となって留まるだろう。
 日射しはどこまでも優しい。
 駆け下りていく友梨香の後ろ姿を見送った後、私は再び時の止まった屋敷へと踵を返した。


終幕