瑪瑙の月

 いつもと同じ夜明け。
 いつもと同じ朝。
 いつもと同じ午後。
 少しだけ違うことがあるとすれば、昨日よりも暖かな陽射しと朝食のメニューだけ。
 そんな時間でも、ささやかな変化というものはある。
 明香は朝食とも昼食とも判らぬ食事の片づけをしながら訊ねる。
「今日が何の日か知っていますか?」
「知っている」
 食後の緑茶を飲みながら、つまらなそうに六道が答える。
「仏滅だ」
「いや、そういうことではなくてですね…………」
 日めくりのカレンダーを指し、今日が2月14日であることを示そうとするのだが、ふと気付く。
「あら、本当」
 何でこの男はこんな事に詳しいのだろうか、と心底思う。
 それにしても、勘の鈍い男だ。
 バレンタインデーを知らないのだろうか。
 いや、そんなはずはあるまい。
 健全な男なら、誰もが夢見る日だ。
 しかし、この男を健全の範疇に含めて良いかどうか考えると疑問符が二つは必要だ。
「男の人って、今日という日は胸ときめかせるのかと思っていましたが」
「何の話だ」
「バレンタインデー」
 傍らに新聞を置き、うんざりした表情でため息をつく。
「たかだか一個100円足らずのチョコレートなら、自分の財布で十分すぎるほど買える。そんな行事に浮かれるほど私は暇人ではない」
「もしかして、貰ったことが無いとか」
「無い」
 そんなに誇らしげに受け答えることではないと思うのだが、価値観の違う人間に突っ込んでも仕方がない。
「寂しいですわね」
「何故そう思う」
「自分に好意を持っている人間がいるかも知れない。そう思い、期待することがなかったということですから」
「たかがチョコレート一つで人の気が引けるなどと考えているおめでたい人間など必要ない」
 心を引くために贈るのではないだろうに。
 と思いつつも、全体の半分はそれが理由だということは明香にも判る。
 言っていることは間違っていないが、それは答えではない。
「願いと想いは決しておめでたい感情ではないと思いますよ」
「その質による。安っぽい願いと半端な想いなら、ない方がましだ」
「色恋沙汰に質なんて関係ないと思いますけど」
「普段努力しないくせに、手作りだの心だのぬかして贈り物で気を引くのは質が低いとは言わないのか?」
「いいんです、バレンタインは特別な日なんですから」
「特別なものか」吐き捨てるように一言。「くだらん」
「なるほど。よく判りました」
 明香は頷く。
「何がだ」
「バレンタインにチョコレートを貰えない人間が、どんな風に自分を正当化するかが」
「正当化などしておらん。事実だ」
「はいはい」
「くだらん」
 もう一度言い、六道は立ち上がる。
「帰りは夜になる。二三、回らなければならんところがあるからな」
「判りました」
「それから付け加えておくぞ」
 コートに袖を通しながら、いつもの仏頂面で言葉を続ける。
「私はチョコレートが貰えないのではなく、受け取らなかっただけだ」
「左様ですか」
 六道は揶揄するような明香の言葉に応えず、鼻を鳴らして食堂を出ていく。
 残された明香といえば、腹を抱えて笑いたいのを必死にかみ殺していた。

 さて。
 一通り掃除を終えた明香は時計を見て思案する。
 現在の時刻は3時。
 六道の感覚で夜を指すならば、帰宅は7時。
 移動時間も含め、製作のために使える時間は3時間。6時に焼き上がれば7時にはちょうど生地も冷めている。
 やれるかな。
 頭で計算する。
 必要なものを調達する時間と製作のための時間を考慮すれば、やれないことはない時間だ。
 チョコレートをそのまま作るにしては時間が無さ過ぎる。仕上がりを滑らかにするためのハンドテンパリングは熟練を要する上、明香自身もほとんど経験がない。
 湯煎で溶かしたチョコレートを常温にゆっくり戻しながら固めるのは時間的にも能力的にも無理だ。
 となると、チョコレートそのものではなく、材料として使った方が確実という事になる。
 街へ行くのに車で30分。
 つまり往復で1時間。
 買い物に10分。
 製作時間は1時間強。
 完成前に六道が帰ってきては意味がない。全ては、帰宅前に完了していてこそ意味がある。
 足らないものは。
 冷蔵庫を開けて中身を確認する。
 足らないのはチョコレートと生クリーム。
 ココアと薄力粉、卵、砂糖、バターは十分にある。
 ベーキングパウダーは使わない。
 バターをボウルに入れてテーブルに置く。この気温なら帰ってきた頃には使うのにちょうど良い固さになっているはずだ。
 タクシーが着くまで、もう少し時間がある。
 室温に戻すためのバターを一さじすくい取って、ケーキ用の金型に塗りつける。その上から粉をふるっておけば、焼いたとき生地が金型につかない。
 下準備を終えた金型を冷蔵庫にしまう。
 オーブンペーパーが有ればそれを使うところだが、普段の料理にもほとんど使わない為に用意していなかった。
 どちらの手段でも、仕上がりと味に変わりはないのだからたいした問題ではない。
 後はココアと薄力粉、砂糖を計量しておけば帰ってからの作業がスムーズだ。
 そうこうしているうちに、タクシーがやってきた。
 バタバタと走り回ってコートをひっつかみ、鍵も掛けずに外へ出る。
 自動で開いたドアに飛び込み、明香は息を切らせながら早口で告げる。
「市内まで、急いで」
 事情も対して飲み込めぬまま、運転手は車を走らせた。

 実際問題として、此処まで急ぐ必要など無い。
 そんなことは最初から判っていた。
 思いついた時点でも判っていた。
 ささやかな悪戯心で、六道を驚かせてみたいという、ただ単純な考えのためだけに、自分はこんなにも急いでいる。
 冷静に考えなくても愚かなことで。
 それでいて、ケーキやチョコレートなど買えば済むということも判っているのだが。
 しかしそれでは六道は驚かない。
 意味がない。
 準備さえしていなかったはずなのに、帰ってくるといつの間にか出来上がっている。
 そこが大事だ。
 ………………。
 大事なのだろうか。
 不意に自分がやろうとしていることのあまりの無駄さに気付いてしまうが、すぐに振り払う。
 こんな忙しさもたまにはいい。
 ちょっとした葛藤があったが、やはりやってみたいのだから実行するのが一番だ。「やってみたい」と思う心こそが、一歩踏み出すための最も強い動機となり得る。
 狭い車内でコートを着込みながら、レシピと手順を反芻する。
 1時間有ればケーキは焼ける。
 一手も間違えなければ、所要時間は1時間20分強。
 ふと顔を上げると、辺りを見回す。
 当然、街には着いていない。
 メーターを見れば60キロは出ているのだがやけに遅く感じる。
 焦らなくても大丈夫とは思っているのだが、気持ちだけは先走る。
 イライラしながら景色とメーターを見比べているうちに、ようやく街の外れが見えてきた。
 にしても、遅い。
 決して遅くはないのだが、遅い。
 自分がハンドルを奪って飛ばせばもっと速い。
 そんな無茶苦茶なことを考えながら近づいてくる街並みを思う。
「デパートで買い物をしてくるから、それまで待っていてくださる?」
「その間のメーターは加算されるけど良いのかい」
 がめつい男だ。
「いいわ」
 明香はハンドバッグを掴み、開いたドアから身を乗り出す。
「そのかわり、帰りはもっと早く飛ばして頂戴」
 目標は、デパート地下一階製菓用品売り場。
 幾度となく足を運んでいるので地図はすぐに思い浮かぶ。
 流石に当日だけあって、女の姿がいつもの5倍だ。
 器用に人混みをさけて目的地にたどり着く。
 必要なものは製菓用のクーベルチュール・チョコレート。
 ………………が、無い。
 誤算だった。こういうものは大抵余分なぐらいの数が有るものだからまだ売っているとは思っていたのだが。
 まさか売りきれとは。
 今年は予想以上に入荷数が少なかったか、手作りチョコを作ろうと意気込む人間が多かったのか、そのどちらかだ。
 しかし、手詰まりではない。クーベルチュール・チョコレートが無くても、市販品で代用は利く。
 変に生クリーム入りよりは、100円のものの方が扱いやすい。
 それを3つほど買い物かごに放り込む。
 ついでに生クリームと製菓用のブランデーを一瓶。
 それで全部だ。
 レジで金を支払い、階段を駆け上がる。
 タクシーは駐車上で待っていた。
「お待たせ。じゃまた屋敷まで」
 やれやれ、といった顔つきでスポーツ新聞から目を離し運転手はエンジンを掛ける。
 メーターはきっかり加算されていたが、たいした問題ではない。
 約束通り運転手は行きよりも速く、車を出してくれた。

 一万円札を二枚手渡して、釣りも受け取らずに明香は屋敷に駆け込んだ。
 コートを椅子に脱ぎ捨てて代わりにエプロンを纏う。
 目論見通り、バターは室温で柔らかくなっている。
 ここからが忙しい。
 まず初めに、明香はオーブンのスイッチを入れ、予熱を始める。タイマーのスイッチは20分。このあいだに全ての行程を終えて、焼きに入らなければならない。
 ありったけのボウルと攪拌機を用意。うち二つにポットのお湯を満たす。そのうちの一つには、別のボウルへ割り入れたチョコレートを湯煎にかけるのにつかう。
 冷蔵庫を開けて卵を出し、卵黄と卵白を分ける。
 卵白はそのまま冷蔵庫にしまい、卵黄と砂糖を湯煎にかけながら、電動の攪拌機で一気に混ぜる。レシピ通りなら白くなるまで。手でやれば5分はかかるが、電動なら1分強だ。
 製菓用のブランデーを大さじで二杯。ベーキングパウダーを使わないので焼き上がりの時に結構香りが飛んでしまうが、入れるのと入れないのでは味の深みが違う。
 湯煎で溶かしたチョコレートをバターと混ぜ合わせ、砂糖と混ぜた卵黄に加える。更に生クリームを加え、ゴムべらで混ぜながら薄力粉とココアを振るい入れれば、とりあえず第一段階は終わりだ。
 このレシピの一番良いところは、変に生地を馴染ませるための時間がいらないことだ。
 一番大きなボウルに冷やした卵白を移し、こちらは手でかき混ぜる。メレンゲは水気油気があると泡立たない。だから先ほど使った電動の攪拌機を使うわけにはいかないのだ。
 泡立てながら砂糖をひとつまみずつ加えていく。
 加えては力一杯勢いよく攪拌機で混ぜる。そしてまた少しずつ砂糖を加えて撹拌。
 力のいる仕事だ。
 こればかりは、女の力じゃ不利だわ。
 ぼやきながらも、透明だった卵白は生クリームのように白くなってくる。このあたりは熟練の技術がものをいう。
 若干手間取ったが、10分もしないうちに角が立つぐらいのメレンゲを作り終える。
 後はこれをチョコレートペーストと混ぜ合わせて型に入れれば万事終わりだ。
 予想以上に早く終わる。
 さしずめ、ケーキ作成タイムアタックって感じかしら。
 冷やした型に混ぜ合わせた生地を入れ、ケーキ作りの自己最短記録をうち立てつつある自分を褒めたくなる。
 時計の時刻は5時を少し過ぎたあたりだ。
 焼くのに1時間。
 オーブンに天板をセットして温度を160度の目盛に合わせる。
 うまく焼き上がるかどうかはケーキの神様にでも祈るしかない。それか、バレンタインであるから聖バレンタインか。
 ともあれ、目を離さない限りは失敗はない。
 後かたづけをしながら時折オーブンを覗く。
 竹串で生地の具合を見れば、焼き上がりの加減は掴みやすい。
 30分ほど焼き、後は10分おきに具合を見ながら仕上がりを調整する。
 焼き上がりの時間は1時間かからなかった。正確には53分。
 生地の焼ける匂いの中に、微かなブランデーの芳香。
 仕上がりは完璧だ。
「うん、上出来」
 ケーキの神様はいるらしい。
 極上の焼き上がりで規定時間内に作り上げた自分を賞賛しながら、明香はささやかに料理用ブランデーで乾杯した。

 生地も完全に冷め、型から外して皿に盛りつけが終わると、ちょうど六道が帰ってくる。
「おかえりなさいませ」
「ああ」
 人差し指を首にかけ、ネクタイを緩めながら、テーブルの上のケーキを見つめる。
 明らかに手作りとわかるものがあることに、少し驚いたようだ。
「朝はこんな物はなかったはずだが」
「ちょっと魔法を使いまして」
「なるほど」
 外したネクタイを椅子の背もたれに掛け、キッチンを見回す。
「で、夕食は何だ?」
「あ………!」
 明香は言葉に詰まる。
 そう言えば、ケーキ作りに躍起になって、夕食のことがすっぱりと抜け落ちていた。
 まさか、忘れていたとは言いにくい。
「これが夕食を兼ねているんですが」
 我ながらとんでもない嘘だ。
 もはや嘘ですらない。
 言い逃れにしてももっと言い様があるだろうに。
「斬新だな」
 皮肉が耳に痛い。
「朝のお味噌汁と漬け物なら残っていますけど」
「主食がケーキでおかずが漬け物と味噌汁か」六道は苦笑いする。「マリー・アントワネットでも味わったことのなさそうな晩餐だ」
 ため息をつきながら食器棚からフォークを出す。
 諦めたようだ。
 ちょっと罪悪感を感じる。
「コーヒーを一杯貰おうか」
「はい」
 沸かしたお湯でインスタントのコーヒーを入れる。
 だんだん気分が滅入ってきた。
 仕事を放っておいて何をしていたのだろう。
 少し調子に乗りすぎた。
「ケーキが夕食というのも面白いとは思うがな」
 その一言でだいぶ救われたような気がする。
 六道はそう言うことで腹を立てたりしない男だ。
 それが時に有り難く、時に罪悪感を掻き立てる。
 それでも、慰めの言葉は柔らかな雨のように心に染みてくる。
 切り分けられ、積み上げられたケーキを無造作にフォークで突きながら、六道が訊ねる。
「ところで、明日の朝食はちゃんとしたものが出ると期待して良いんだろうな?」
「帝国ホテル並みのを期待して頂いて結構ですわ」
 それぐらいしないと失点の挽回は出来ないだろう。
「なるほど」
 時折コーヒーでのどを湿らせつつ、黙々とケーキを口に運ぶ六道を見て、明香はささやかな達成感を感じる。
 相変わらずの無表情なため、それを喜んでいるかどうかは判らないが。
「如何です?バレンタインに女性からものを贈られる気分は」
「さぁな。胸焼けでよく判らん」
 見れば、あっという間に皿の半分を平らげてある。
 凄い速さだ。
 それは胸焼けもするだろう。
「半分はお前のぶんだ」
 六道は席を立つ。
「どちらへ」
「寝る」
 心なしか青ざめた顔で、そのまま食堂を出てしまう。
 そんなに無理をしなくても良いのに。
 それでもきっちり半分以上食べていくあたりが面白い。
 優しさか、見栄か、意地か。
 それとも、恥ずかしかったのだろうか。
 六道のフォークを使って明香もケーキを口に運ぶ。
 舌で感じるケーキの味はほろ苦い。
 だが明香には、それが砂糖の何倍にも甘く感じられた。
 幸せの甘さ?
 いやいや、これは詰めの甘さだ。
 仕事というものはプロがやるもの。
 生半可な感情で走れば、今日のようなつまらないミスをする。
 プロとしてあるまじき失点。
 それでも。
 それでも今日の失敗は。
 最後のひとかけらを飲み込みながら思う。
 それでも今日の失敗は、限りなく成功に近い失敗だった。


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