瑠璃の天秤


  私は庭園にあつらえたテーブルでくつろいでいた。
 折り重なるように拡がった木々の間から差し込む木漏れ日が心地よい。
 木陰と目まぐるしく変化する光のコントラスト。
 宝石にも勝る自然の美しさだ。
 私の屋敷も手入れすればこんな風に休む場所が出来るのだろうが、無精なせいで庭は荒れ放題だ。
 他人の家に来ると、そんな自分の一面を嫌でも思い知る。
 造園業者に頼めば電話一本で事足りるという事は判っているのだが。
「俺たちはもっと先へ行くべきだ。そうは思わないか?六道」
 呟くように恭也は言った。
「先とはなんだ」
「先は先、だよ」
 そういわれても、それが何を意味するのか私には判らない。
 恭也はこういう問いかけが好きだ。
 会話を楽しむと言うよりは、言葉のやりとりを楽しむ。
「何が言いたいのか判らん」
「ふふ、そうだな・・・・今、俺たち自身が信じている現実と未来の、さらに先だ」
「つまりもっと高い理想を追うということか?」
「そうともいう。判ってるじゃないか」
「理想か」私は恭也から視線を逸らした。最も私とは縁遠い言葉だ。「私には無いな。未来のことなど考えたこともない」
 私の人生に目的と呼べるものがあるなら、今よりももう少しましな生活をしているはずだ。
「未来に希望を持たないことがお前の望みなのかも知れないな」
「そうだな」
 私が答えると、恭也は苦笑した。
「納得しないでくれ。皮肉なんだから」
「そうか」
「本当にないのか?」
「何がだ」
「望みだ。腹一杯食べたい、金を持ちたい、いい女を抱きたい、もっと高い地位につきたい、名声が欲しい、何者にも脅かされたくない、そういう望みだ」
「無い…………と思う」そんな事を考えたことなど無かった。「あるとすれば、何者とも関わらず生きていたい、そんなところだ」
 私に望みがあるとすればそれだけだ。
 誰とも関わらず、誰とも出会わず、誰も望まず、誰にも望まれず、ただ一人静かに朽ちていく。
 勿論、それは叶わぬ事だ。誰とも関わらず生きるなどと言うことは不可能だ。私の着る服、私の食べるもの、住む場所、他人の手の入らなかった場所は一つもない。
 それに恭也という友人もいる。
 腐れ縁、とでもいうべきか。何時が出会いなのか思い出せないほどこの男との関係は長い。
 恭也は私の答えが気に入らなかったようだ。
「俺ともか」
 つまらなそうな表情で言う。
「お前だけは特別だ、と言いたいところだが、本当のところは私にも判らない」
 恭也とは共に育ち、共に歩んだこともある。親密、という単語だけで片づけるような関係ではない。
 だが、恭也と共にいることは出来ない。私と恭也はあまりにも違う。
 私は恭也に聞き返した。
「お前の望みこそ何だ」
「そうだな……………友梨香が大きな病気もなく育ってくれれば、それが一番だな」
「男手一つで育てるのは心配か」
「当たり前だ」
 恭也の妻、紗耶香が死んでからもう5年になる。
 一人娘の友梨香は母親の顔をうっすらとしか憶えていない。
 娘のことが心配なら再婚するか乳母でも雇ったらどうだ、と話した事もあったが、恭也は自分の手で育てることにこだわった。
 友梨香の母親は一人だけだ、というのがいつもの答えだった。
 そこまで相手を想う恭也の感情は、私には判らない。
「信用の出来る人間に預けたいところだが、お前しかいないときている。しかも、どう逆立ちしてもお前に子育ては無理そうだ」
 西遠寺家の一族としては、金目当てで近寄ってくる可能性も考慮しなければならない。恭也が自分の手で育てることに固執するのは、そういう面があることも否定できないだろう。
 愛など無くても紙切れ一枚で一族に加われるのだ。感情など取り繕えばどうにでもなる。
「試してみようと言う気はないのか」
「人の子ならいざ知らず、自分の子供でそんな実験はやるまいよ」
「実験か。なるほど実験だな」
 私にとって子供というのは別世界の生き物だ。小さく、脆く、異質。
 扱いなど判るはずもない。
 そもそも、愛情というものが私には欠落している。
「お前も子供が出来れば、変わると思うんだが」
「興味ないな。自分の分身など煩わしいだけだ」
 自分の身ですら持て余している。もう一人、いや産む人間も含めて二人か。そんなにたくさんの人間を受け入れるだけの余裕は私にはない。
「知り合いにいい女がいる。今度見合いさせてやろう」私に顔を近づけてにやりと笑う。「俺が言うのも何だが、美人だぞ」
「いらん」
「いつまでも独り身、というわけにはいかないだろう」
「私はそれでいい」
 他人と暮らすなどまっぴらだ。
「やれやれ」
 恭也が笑う。
 私もそれにつられて苦笑する。
 それは夢だ。
 この光に満ちた世界も、懐かしい恭也の顔も、屋敷も、全てまやかしだ。
 偽物だ。
 恭也はもはやこの世のものではなく、私と語り合う日々などもう来ない。
 それを夢と認識して、在りし日々を追想する。
 これは過去の闇から私を引きずり込む呪いだ。
 腐敗した記憶を掘り起こす悪意に満ちた幻影だ。
 これを夢と認識している私と、記憶の中を現在のように感じ、幻と談笑する私。
 死してなお私を苦しめるか、西遠寺 恭也。
 やめろ。
 失せろ。
 消えろ!
 
 それは叫びであったに違いない。
 何を、どのように叫んだのかは憶えていないが、かすれた喉がその余韻を引きずっている。
 体が重かった。まるでつい今し方、深い水の底から浮かび上がってきたような疲労を胸の辺りに感じる。四肢に力がまるで入らない。死後硬直、というのはこんな感じなのではないか。
 夢を、悪夢を鮮明に思い出す。
 胸の内から、煮えたぎるような怒りが込み上がってくる。私にそれを抑えることは出来なかった。感情を爆発させるが如く、拳を壁に叩きつける。幾度も、幾度も。
 怒りの前に痛みなど感じない。怒りを暴力として表現することは快感を伴う行為だ。指の付け根が擦れ、血が滲む。だが、それでも収まらない。止められない。
 十数回それを繰り返していると、ようやく怒りが痛みに変わっていく。
 見れば壁板が僅かにへこみ、滲んだ血が点々と模様を作っている。
 私は自分を非力な人間だと思っていたが、怒りにまかせると意外な力が出るものだ。
 怒りにまかせて暴れたせいか、私は平静を取り戻していた。
 拳が痛むが、折れてはいないだろう。寝室の壁は歪んだが、別に眠れなくなる訳ではない。
 一息つき、再び眠ろうと思うと荒々しい足音が寝室に近づいてきた。
 ドアが勢いよく開き、明香が駆け込んでくる。
「ご無事ですかっ」
「見ての通りだ」
 明香が力尽きたように、床へ座り込む。
「何事かと思いました」
「驚かすつもりは全くなかったのだが」
「強盗にでも襲われたのかと思いました。あまりに大きな声でしたので」
「もしそうなら、お前はここに来るべきではなかった。真っ先に逃げ出せばお前だけは助かっただろう」
「心配して来てみれば……………まったく。一言足りないのではありませんか?」
「そうだな。すまなかった」
 新月というほどではないが、窓の外からは殆ど光が入ってこない。
 明香が電灯のスイッチを入れると、部屋に澱んでいた闇は追い払われていった。
 その残滓を追いかけるように、私は窓の外へ目を移す。
 窓の外から見える闇は深い。
 光のない世界。
 それが当たり前なのだ。
 生命や光というのは本来、稀有なものだ。奇跡と言ってもいい。
 瞬く間に通り過ぎる、エネルギー。
 過去は二度と戻らない、流れていったエネルギーだ。記憶はその残り滓のようなものだ。だから、それを振り返ることに意味など無い。
 思い出すことに、何の意義もない。
 いつもの悪夢よりも、今日のものはひときわ強烈で、悪趣味な代物だった。
 私の脳がそれを願っているのだとすれば、どうにも救いがたい。魂の器にしては、願うものが悪すぎる。
 いや。それでこそ、か。
「どうかいたしましたか?」
「なんでもない」
 のぞき込むような明香の視線に気づき、視線を逸らす。
「…………私は何を叫んでいた?」
 明香は小さく首を振った。
「悲鳴のようにしか聞こえませんでしたが」
「そうか」
 たぶん、そうだろう。
 未来と同じく過去もまた、私には恐れるべきものなのだ。
 過去は作られ、未来は望まずともやってくる。誰の身にも平等に、そして理不尽に。
 私は子供でも持っているような目映い明日が恐ろしい。だが、失われたもの、去り行く者からの呼び声もまた私を恐れさせる。
 過去は取り戻すことが出来ず、未来は未知であるがゆえに。
 私の部屋を見回していた明香がふと気づく。
「手を怪我されたのですか?」
「気にするな。壁を殴っただけだ」
「何で壁なんかを……………ああ、なるほど」明香はぽんと手を打つ。「ゴキブリか何かが出たのですか?」
「何故そう思う」
「叫んで、壁を殴るなんていうとそれぐらいしか思いつかなかったものですから。…………違いました?」
 明香は私がゴキブリが嫌いで悲鳴を上げたと思ったらしい。
 夢見が悪くて悲鳴を上げたのだと思われるよりは幾分ましか。
「そんなところだ」
「気持ちはわかりますけど、今度から手でやるのは控えた方がいいですわよ」
「考えておく」
 自分が癇癪持ちだとは思わないが、腹が立ったといって暴れるのは控えよう。そんなのは子供のやることだ。
「今、薬箱をお持ちしますから」
 明香が部屋から出ていく。
 微かな残り香が部屋に漂う。
 ラベンダーの香り。気分を落ち着ける作用があると聞いたことがあるが、拳の痛みには効果がない。
 皮が擦り切れたところからは白い組織が覗いている。別に骨が見えているわけではないだろう。だが、自分の体の中にこんな白い部分があるというのは何処か意外な気がした。
 そこを滲んだ血が赤く塗り潰していく。
 鮮やかな紅。生命の色。
 それは幻想だ。本当は錆の色にすぎない。
 ぱたぱたとスリッパの音を響かせて明香が階段を駆け上ってくる。
 素早い。
「お待たせしました」
 急いできたからだろう。明香の口からは白い息がこぼれている。
 科学的に見れば水蒸気だが、昔はこれを口から出る二酸化炭素の塊、廃棄物と思っていたものだ。
 今は何も思い浮かばない。ただ、息が白いと言うだけだ。
 明香が私の手を取って、溢れた血を脱脂綿で拭っていく。
 白い綿が赤くなり、次第にその鮮やかさを失っていく光景を私は惚けたように見つめていた。
「こんなに血が滲むほど力を入れなくても」
「気にするな。砕けても私の手だ」
 明香の呟きに、私は答えた。
 明香は瞬く間に傷口の消毒を終わらせていた。救急箱からガーゼを取り出して薬を塗りつけ、傷口に当てながら包帯を巻いていく。手際は素晴らしく速く丁寧で、看護婦のようだ。
「それはそうですけれども…………利き手が使えなくなったらご飯を食べるの苦労しますわよ」
「私は両利きだから問題ない」
「減らず口ばかり言って」
「性格だ。今更直せん」
 拳に包帯を巻き終わると、明香は救急箱を閉めて立ち上がった。
「腫れるようでしたら、あとで湿布を持ってきますから」
「いや、大丈夫だ」
 包帯を巻いただけなのに、痛みが引いている。
 いや、気のせいだな。
「起こしてすまなかった。休んでくれ」
 一礼し、明香は足音もなく部屋から出ていく。
「おやすみなさいませ」
 囁くような一言と共に電灯のスイッチが切られ、光は失われた。
 再び私は独りとなり、窓辺から差し込む闇と沈黙が静かに漂う。
 風が時折窓を鳴らすが、響くのは微かだ。
 闇夜は、心が落ち着く。
 此処には誰も来ない。
 誰にも侵されることなく、私は私で居られる。
 この世界のあるべき姿。理想郷。
 このままずっと私は独りで居たいというのに、皮肉にもそのために選んだ生活の方法が結局私を追い立てる。
 だが後悔するには私の足枷はあまりに重く、逃げる場所もない。
 死以外の方法で自由になれるとは思えないが、さりとて私はまだ死ぬ訳にはいかない。
 私はまだ役割を果たしていない。
 ベッドに仰向けになり、再び目を閉じる。
 明日、私は確かめねばならない。
 これは私が望んだこと。私がやらなければならないことだ。
 思いを巡らせたところで何も変わりはしない。
 何も考えず、ただ目を閉じていると、それはいつの間にか本当の無になって私の心を包んでいった。


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