3章 穿つ水滴


 力というものは面白い。
 それは物理法則とは全く正反対の流れ方をする。低い方から高い方へ。吸い上げるかのように、高みへと昇っていく。より高いところへ、高いところへ。
 そして、誰もその頂点を見ることがない。天に空いた虚無の穴に吸い込まれるようにして失せていく。人も、金も、力も。
 今立っている場所は頂点ではない。誰もが自分の立つ場所よりも高い場所が在ることを知っている。そして手を伸ばし続ける。あたかも、夜空の星を掴むが如く。
 そして届かない。
 虚しい夢だ。
 私自身は手を伸ばすことをやめた人間だと思っている。
 いずれ相応しい場所に落ちていくだろう。
 それでいい。
 いつだって、人の未来には闇しかない。昏い、ただ昏い闇だ。一握りの人間だけが、その暗闇を照らし、暗黒を切り裂くことが出来る。「希望」と「勇気」という名の灯火を持った、一握りの人間だけが。
 私はどうなのだろう。
 希望はない。勇気も持ち合わせていない。
 だから、暗闇に怯えながら、手探りで進むしかない。
 あるいは、闇を見通すが如く胸を張り、歩を進み出さねばならない。
 その先にあるのが、虚無の断崖だとしても。
 判っているのに、変えられない。愚かなことだ。
 私は手近な紙に手を伸ばし、その文字の羅列に目を通した。
 スキャンダル。あるいは物流。何処が違法で合法か。そんなことがただ書き並べられている。世の中にはこんな事を知りたがる人間がたくさんいる。知ってどうするというのだろう。知って、何を得るというのだろう。何故知ろうとするのだろう。私には判らない。だがそれは、私がこれらのことを容易に手に入れることが出来る立場にあるせいなのかもしれない。
 私は自ら知ろうとはしなかった。祖父の代から続くこの無数の網は、私の要求とは関係なく、無作為に多量の情報を私の元へ届けてくる。義務から、あるいは仕事として、あるいは恐怖に駆られて。
 皮肉なことに、私には才能があった。誰が、何を求めているかを瞬時に把握する才能が。その文字の羅列から、その流れを読みとり、何処へ流れていくかを正確につかみ取る能力が。そして、この仕事は私にとって天職となった。
 だから何だというのだろう。
 何の意味があるというのだ。
 苛立ち、もがいても、何も変わらない。私には何の力もないのだ。
 だが、何か出来るはずだ。
 私は、初めてそう思った。自分の力を初めて自分のために使う気になった。滅多に使うことのない、端末用コンピュータに電源を入れる。
 破滅が先にあるというのなら、早送りしたところで大した違いはない。全てを知ることが出来るなら、破滅するのも悪くはないだろう。だが、それには道連れが必要だ。
 私はキーを叩き、知りうる限りの全ての端末と人間を動員することに決めた。亡霊を道連れにしよう。死んだ人間の魂は、この世に甦ってはならない。この世は生きる人間のためのものだ。死んだ人間のためにあるのではない。
 思えば、私の名も死に対して深い意味がある。
 六道の姓。仏教で言うところの、地獄を意味する六つの道。深い名だ。
 確かに、手を伸ばせば地獄にも届くだろう。悪くない。
 あらかたの指令を打ち終えて、私はふと手を止めた。
 これは自殺になるのだろうか。
 能動的な、あるいは歪曲的な自殺。緩やかな自殺。
 だから何だというのだ。
 私はその考えを一笑に付した。
 早いか遅いかの違い。ただそれだけではないか。

 私は下へ降りて、自分のためにコーヒーを作った。
 明香はいない。所用とやらで外に出ている。
 そのせいか屋敷はいつもにも増して静かだった。
 一口すすり、窓を見る。庭の木々がかすかに芽吹いているのに気が付いた。春が近い。
 私はそのことに少し、苛立ちを感じた。時は巡る。だが、私は春を望んだりはしない。凍てつく寒さと、全てが死に絶えたかのような木々、あらゆるものが静寂に閉ざされる時間が失われるからだ。
 人の心は、人の世界はこんなにも暗く閉ざされているというのに、世界は無視するかのように光に満ち、命に溢れる。
 取り残されるような感覚が、私を焦らせる。
 無意味な想いだ。こんなものは無意味だ。
 そんな想いは、思い通りにならない子供がだだをこねるようなものだ。
 春がきたなら、また冬を待てばいい。
 待つには馴れている。
 時は巡るのだ。
 私はコーヒーを飲み終えるとキーを持って外に出た。
 力が何処かへ流れている。それを見極めなければならない。
 運転手を呼ぼうかと思ったが、やめた。たまには自分で運転するのも悪くない。
 ハンドルを握る。
 感覚は忘れていない。
 アクセルを踏み込む。加速。背景が、流れていく。
 ブレーキングを最小限に、カーブを曲がる。車体がスピードに流され、車体後部が引きずられる形になる。ブレーキ。間をおいて、アクセル。ガードレールにぶつかる寸前でのコーナリング。一瞬スリップした後、力強いグリップが戻る。
 速度は80を超えている。
 ドリフトなどやるものではないな。スリルを味わえるほど若くはない。
 急ぐ必要など何処にもないが、スピードは時に人の心を紛らわせる。
 アクセルを踏み込む脚を緩める。市内に近づいてきたら、速度を上げているわけにもいかないだろう。警察にも顔は利くが、ルールを権力でもみ消すなどリスクこそ有れ利益になどならない。
 サイドミラーを見る。
 後ろの車がかなり接近している。車間距離を詰めすぎだ。
 アクセルを踏む。
 だが、距離は離れない。
 速度を落としても車間距離は変わらない。
 なるほど。
 ゲームがしたいらしいな。
 誰の差し金か………考えるまでもないな。
 西遠寺め。警告のつもりか。
 アクセルを踏み込む。加速と、G。シートに身体が押しつけられる。
 スピードメーターが跳ね上がっていく。100、110、120。
 信号は赤だ。無視する。対向車とすれ違う。交通量は多くない。ゲームの舞台は整っている。なら、気にかける必要はない。
 車は金を出せば買える。命は、買えない。
 このゲームに命を賭ける必要はない。相手も同じだろう。ただの脅しだ。
 だが、屈する気はない。ベットをつり上げてやる。
 屈するのはお前だ。私ではない。
 高揚感。驚きと共にそれを受け入れる。死が身近にある。そしてそこに生がある。その事に熱くなっている。
 私がスピードを上げれば上げるほど、ゲームの内容は変質していく。
 加速するに従って、私の負ける要因は減る。スピードを緩めぬ限り、私の負けは死以外にない。相手の負ける要素は二つ。私に振りきられるか、自分が死ぬかだ。私に合わせればリスクが大きくなる。だがスピードを落とせば私に振りきられるだろう。
 メーターが140を超えた。
 差は徐々に開いている。
 だが、振り切るだけでは意味がないだろう。目には目を、歯には歯を、だ。
 交差点を曲がる。ドリフトは使わず、ハンドルとブレーキを使った、普通の曲がり方だ。車体がスピードに流されるが、交通量の少ないのは私に味方した。反対車線に車体半分飛び出しながら曲がりきる。速度が極端に落ちた。オートマにしたのは少し失敗だったが、やろうとしていることはこれでも出来るだろう。
 加速すると見せかけて、ギアをバックに入れる。
 急な方向転換で車体が軋んだ。
 ちらり、とバックミラーを見る。相手のドライバーと目があった気がした。
 身を縮ませる。
 衝突。
 エアバックが起動した。視界が真っ白になる。
 ぶつかると判っていれば身を守ることなど簡単だ。
 エアバッグが縮むのを待ち、それから衝突の際にひずんだドアを開けて外へ出る。
 後部が盛大にへこんでいる。直すよりは廃車にした方がいいだろう。
 相手の車は前面が砕け散り、フロントガラスが歪んでいる。
 おそらく、シートから飛び出してガラスに頭を打ちつけたのだろう。
 ふむ。車は多少高く付いても安全性の高い物を買った方がいいということだな。
 私はドアを開けてドライバーを引きずり出した。
 意識がはっきりしていないようだ。
 男を裏返しにし、拳を握らせる。
 力を込めて、踏む。
 何かがずれる音。
 靴の下で男の指があらぬ方向を向いている。
 殴り合いが出来るほど、私は場慣れしていない。拳を潰しておけば、襲いかかられることもないだろう。
 もう一度踏む。
 悲鳴が漏れた。
 少しは目が覚めたようだ。
 頬を平手で叩き、意識を回復させる。
「病院に連れて行ってやろう」半ば朦朧としているドライバーに私は囁く。「心配しなくても殺しはしない。だが、頭を打っているのは良くないな」
 男が顔を歪ませる。
 直接交渉など久しぶりだ。一流の人間は場を把握するために現場に出向することを望むが、それのメリットは対象を直接揺さぶれるからだ。
 相手に恐怖を植え付ける。正常な思考の出来ない時に刷り込まれたそれは、相手の精神に大きなダメージを与えると共に、対象を従順にさせる効用を持つ。一種の誘導催眠だ。
 私は続けた。
「脳というのはとてもデリケートだ。些細なことで廃人になることも少なくない。頭に与えられたダメージというのは、時に一秒を争うこともある。手術しても直らないことも多い。神経というのはとても繊細だ…………手術中に手元が狂えばそれで終わり、ということもある。だが、それは運命だ」
 私は男の身体を横たえ、見下ろした。
「君は運がいい。この近くに私が出資している病院がある。院長とも知り合いだ。信用できる腕の持ち主でもある」
 区切って、一言。
「無論、私にとってはということだが」
 怯え。
 男が露骨にそれを表した。
「お、俺はただ少し警告を与えろって言われただけなんだ…………殺そうなんて気はなかった」
「そうだろうとも。君は被害者で、事故の原因は私の運転ミスだ。君は何も悪くない」
「頼まれただけなんだ………ほんとにそうなんだ」
「わかっているよ。さぁ私の車に乗りたまえ。病院まで行こう」
「殺さないでくれ、頼む、頼むからっ」
 その後も男はわめいていたが、私は無視して車に押し込み、病院へ向かった。
 ハンドリングに微かな違和感があるが、差し支えはないだろう。
「西遠寺君は元気かな」
「知らない。知らないんだ」
 まぁ予想できた答えだ。黒幕が下っ端に命令をするはずも無かろう。
 かなり回りくどい方法で命令を下したのは間違いない。だが調べるのに苦労はいらないだろう。
「まぁ命があるのはよかった。お陰で君とはいろいろ話が出来る」
「俺が言われたのは六道という男が外出したら、殺さない程度に脅しをかけろってだけなんだ…………それだけなんだ」
「命令したのは誰だ」
「組長…………佐川組の組長だ」
「なるほど」
 佐川組は、このあたりでは唯一私と繋がりのない組織だ。新進気鋭の組長が仕切っているチンピラの集まり…………手を組む必要性のない組織と思っていたが、うまく手を回してきたな。
 面白いことになってきた。
 

 怯える男を看護婦に引き渡し、私は院長室へと向かった。
 ノックも無しに扉を開けると、院長が書類と格闘している。
 人の気配に気が付いて、院長は顔を上げた。
「これはこれは、六道さん。今日はどのようなご用件で?」
「さっき、私が運んできた患者だが」
「ああ、連絡がありましたね。それが?」
「しばらく預かって欲しい。一応事故だ。こちらの誠意という形で」
「軟禁するわけですな」
 ひどく愉快そうに、院長が笑う。
 私はそれを気にも止めない、という風に話を続けた。
「そうだ。一月でいい。だが監視をつけて欲しい」
「看護婦を一人、専属で付けましょう。それで十分ですかな?」
「十分だ。それと面会は自由にさせてやってくれ。盗聴の必要はない」
「判りました」
「たびたび済まんな」
「いえいえ。六道さんの寄付有ってこその病院ですからなぁ。お役に立てるなら何なりと」
 寄付といっても現金ではなく脱税の書類を定期的に操作抹消しているだけの話だが、病院側にとってはそれでも大きな「利益」だろう。
 その分、病院側からもたらされる情報も私にとっては限りなく有益だ。新薬の臨床試験情報や誰がいつ、どんな病状で入院しているかというたわいないことも時には有効になる。
 そういう意味で、私とこの病院は持ちつ持たれつの関係だ。
 カルテを操作して患者を軟禁するなどわけはない。
 手段を選んでいる段階は終わった。
 西遠寺にもペナルティを払って貰わねばならないだろう。
 交渉というものは、お互いが対等のテーブルについて初めて意味を成すものだ。対等でない交渉などただの脅しあいでしかない。
 そのためのペナルティだ。
「電話を借りる」
「では、少し席を外した方がよろしいですな」
 院長が出ていったのを確認してから、ダイヤルを押す。
「はい、こちら編集部」
 若い男の声。
「編集長を呼べ。六道だと言えば通じる」
「はぁ」
 気の抜けた返事と共に男が編集長を呼んだ。
 受話器の向こうで物音。
「失礼しました、六道さん」
「構わん。私の名前で感づくような人間は、記者をするには敏感すぎるからな」
「それで、今回のご用は?」
「西遠寺財閥関係で止めていたネタがあったはずだ」
「は、ゼネコンと総会屋関係ですな」
「暴力団に関する物もあったはずだ。それを全部出せ」
「よろしいのですか?」
「たぶん、出す前に向こうからストップがかかるはずだが、止められたら応じていい」
「脅し、ということですね」
「止めに入らなかったらそのまま出せ。どちらにしろ、埋め合わせはする」
「判りました」
 それで終わる。
 お互い、こうした手駒は企業内に何人も潜ませている。
 もっとも私はそれを自分で動かすことは滅多にないが、それでも六道の名を出せば大抵の人間はそれに応じる。
 ドアを開けると、廊下で院長が煙草を吸っていた。
「邪魔したな」
「いえいえ。何かありましたらいつでもいらしてください」
 そうは言っても、この院長とて別の人間と繋がっているのは判っている。
 あまり顔を出すのも都合が良くない。
 病院の前で、警官が立っていた。
 事故の件でいろいろ聞きたいのだろう。
 話すことなど何もないが、ここでつまらぬ言い合いになっても仕方がない。
 私は警官の方へ歩いていった。

 警察で簡単な事情聴取を受けると、軽い警告の言葉だけで全てが済んだ。
 ブレーキ痕を調べれば私が何をしたのか、容易に突き止められるだろう。だが、事故という観点のみから言えば、それは運転ミスによる事故でしかない。私の思惑など書類には残らない。
 私を拘束することは出来るが、私の持つ情報網は警察にとっても無くてはならないものの一つだ。事故について深く取り調べなかったのは貸しの一つにしておく、ということだろう。
 とりあえず、西遠寺をテーブルに招待するのに必要なものがいくつか或る。
 ついでに、佐川組の組長にも圧力をかけておいた方がいいだろう。
 スマートな話し合いに、暴力など持ち込まれるのはごめんだ。
 署を出ると、陽が傾いていた。
 歩いて帰るには少々遠すぎる。
 タクシー、か。
 手近なところで拾うしかないだろう。
 街を歩く。
 何もかもが、薄暗く彩られている。
 濃い影。そこに、自分が居るということを地に刻み込むような、暗い色。
 陽が落ちてしまえば、それはネオンの光で微かに映し出されるだけだというのに、なぜ影は光よりも雄弁なのだろうか。
 影が偽らないと言うのは皮肉なものだ。
 そんなことを思う。
 人混みの中で誰でもない人間として、ただの流れの一つになって歩くというのはある種の心地よさがある。自分が何者でもないという事への安堵感。特別なのではなく、ごくありふれた男。安堵と言うよりは憧れに近い感覚だ。
 だが、雑踏の中でも目立つ姿というものはある。
 奇抜な服。
 奇怪な髪の色。
 何者でもなく、ただ自分であり続けようとするがゆえの誇張。
 だが、誇張は本質ではない。
 いくら飾ろうとも、姿形を変えようとも、そこに真実などはない。飾り立てることで、自分の存在を誇示し続ける限り。華美に飾るということは、誤魔化すということに近い。立ち振る舞いは服の値段に関わらず滲んでくるものだ。
 だが、昔は良かったなどと懐古に走るのも私の主義ではない。
 昔が良かったなどと思っているのは過去を忘れた老人達だけだ。
 かつては、服の代わりに反社会的な思想で個を主張していただけなのだから。
 そんな中でひときわ目立つ姿がある。
 掠れたようなブラウンのコートに身を包んではいるが、その亜麻色は人目に付く。
 染めたものとは明らかに違う、光沢と柔らかさ。
 明香。
 声をかけようと思ったが、やめた。
 休暇は明日の朝までだ。
 他人のプライベートに足を踏み入れる趣味はない。
 一人静かに休暇を過ごしている人間を邪魔するほど私は無粋ではない。
 ちょうど通りかかったタクシーを、手を挙げて止める。
 行き先を告げ、私はシートに座った。
 ドライバーは何も聞いてこない。
 私のことを知っているのか、単に無口なのか。
 どちらにせよ、沈黙は私にとって好ましい。
 薄暗い道を登っていく間、お互いの交わした言葉はなかった。
 流石にもう追ってくる人間も見当たらない。
 何事もなく屋敷に着くと私は札を一枚握らせ、釣りを受け取ることもなく扉を閉めた。
 他人の運転というのはやはり、気分の良いものではない。
 屋敷の中に光はなかった。
 当然といえば当然だ。誰もいないのだから。
 沈黙を怖れと取る人間は少なからずいる。だが、無為な言語の海に翻弄され続けていることが孤独を克服していることにはならない。
 人は生まれてから死ぬ瞬間まで、常に独り。神の子でさえ、天に召されるときは独りだった。
 なら、それを覆した人間はいないだろう。
 孤独を怖れる必要など何処にもない。
 電灯のスイッチを入れると、とたんに闇は晴れた。
 絨毯の上に、微かな足跡が見て取れる。それも複数の。
 だが、奥へ行って確かめてみるとセキュリティは有効だった。
 反応した様子もない。
 誰かが侵入してセキュリティを解除し、家捜しした上で出ていったのか。
 何のために。
 誰が。
 心当たりは西遠寺の手のものだが、そこまでするかどうかという疑問は残る。
 取られて困るようなものは何もない。
 加えて、屋敷内のものに手を触れたような様子はなかった。
 階段を昇る。
 まず最初に書斎。
 この屋敷で最も価値があるものと言えば、ここに積まれた書類の類だ。私の屋敷に来るということは、この書斎の価値も知っているはずだった。
 手を触れた様子はない。
 ここまでは上がってきていないということか。
 ファイルの位置も変わっていない。
 しおりや付箋も元のままだ。
 妙だな。
 不審に思いながらも階段を下りる。
 食堂。居間。貴賓室。
 何処にも人が来たような形跡はない。
 出ていったときと同じようにドアは閉められ、人が足を踏み入れたあとがない。
 相手はわざわざセキュリティを解除した後、何もせずに立ち去ったというのか。
 酔狂な客だ。
 もう一度玄関先に行く。
 何か、メモ書きのようなものでも残していったのではないかと思ったからだ。
 見渡しても、そのような物が置かれた形跡はなかった。
 いや、一つだけ変化があった。
 素焼きの花瓶に花が生けられている。
 憶えのある香り。苦みを伴う、微かな刺激。
 ラベンダー、か。
 確か、庭には植えていなかったはずだ。それに出かけていくときも無かった。
 明香が添えたのか、それとも、この不可解な来訪者が残していったのか。
 時間的に明香が残していったとは考えられんが。
 強い香りが、胸を圧迫するようにさえ感じる。
 何故、ラベンダーなのだろうか。
 記憶を探る。
 花言葉。
 芳香。
 期待。
 沈黙。
 それと…………………疑惑。
 考えすぎだな。
 つまらぬ考えを振り払い、私は階段を昇った。

 もう一度書斎へ入ると、待ち受けていたかのように電話が鳴った。
 受話器を握る。
「帰ってきたようだな。ちょうどよかった」
 聞き覚えのある声が、私の気分を底まで落とす。
 西遠寺。
 昼間の件を思い出し、余計に不愉快になる。
「何のようだ」
「そう尖るな。ちょっと聞きたいことがあってな」
 言葉自体は穏やかだが、口調には苛立ちが含まれている。
「週刊誌に、うちの情報を流したのはお前だな」
 佐川組との繋がりが記事になろうとしているのを掴んだのだろう。
 私の予想通りに。
「察しがいいな」
「そんなスキャンダルをコントロールしているのはお前ぐらいだ」
「依頼があったんでな」
「誰の依頼だ」
「私のだ」
「そんなことをされる憶えはないが」
 さも心外、というような口調だ。
「六道の名に触れるものは、何者であろうと等しく火傷をするということだ」
「どういうことだ」
「佐川組、そこのチンピラとの繋がりは判っている」
「なるほど。引き留めろ、というのを脅せと勘違いしたのか」
 人を引き留めるのにわざわざ暴力団を呼ぶ人間は普通いない。
 使い捨ての出来る人間を警告のつもりで使う。
 つまりはそういうことだろう。
「理由は何とでも付く。車を一台潰す羽目になった、私なりのささやかなお返しだ」
「ずいぶんとスケールの大きなささやかさだ。お陰で三人も重役を入れ替えなければならん」
「用件が済んだなら切るぞ」
「まぁまて。今日、そちらへ行くつもりだった。そのための足止めだったんだがな」
「留守中に人の屋敷に入り込むとは更に趣味が悪いな」
「大事な用件だからな。そういうときは自分で出向くことにしている」
 忍び入ったことに関して悪びれた様子はない。
 まるで友人の家に出入りした、そんなことのように話している。
 私としては心外極まりないが、西遠寺はそのつもりなのかも知れない。
「ああ、そうだ」西遠寺は思いだしたように付け加えた。「セキュリティのナンバーは変えておいた方が良いぞ。匿名で私のところに届けられていたが、本物だった」
 引っかかる言葉。
「お前の手のものではない、といいたいのか」
「無論だ。私が盗癖のある男に見えるかね?」
「人には秘密の一つや二つ、あってもおかしく無い」
「まぁ私の秘密は、盗癖ではないということだ。冗談半分で解除コードを入れたのだがな。まさか本物だとは思わなかった」
「今度からトラバサミでも仕掛けることにしよう」
「はは、それは名案だ」
 西遠寺は声のトーンを落とす。
「どうも、我々以外にこの件に介入している人間が居るようだな」
「そのようだ」
「私は交渉をフェアに進めたいと思っている。正規の方法でな。誰であろうと、介入はゆるさん。それはお前も同じはずだ」
「それで?」
「この件に介入している人間を突き止めたい。それをお前に依頼する」
「おかしな事を。交渉相手に、交渉の邪魔をする人間を探せと依頼するのか?」
「お前も私も、遺産を公にしたいとは考えていないはずだ。誰であろうと嗅ぎつけられるのは好ましくない。引き受けてくれるな?」
「断る。自分で探すんだな。私は人が頭を下げているときは、出来るだけ意地悪くすることにしている」
「なるほど。覚えておこう」
 受話器にも聞こえるほどの大きなため息。
「近々、もう一度顔を出すことにしよう。続きはそのときにでも」
「いつ来ても、私の返事はノーだ」
 切る。
 受話器を置いて、私はしばし考えに耽った。
 この件に介入している人間。
 敵か味方か。
 そんな二元的な概念で物事を見るのは間違いだ。この世界に、絶対的な敵や味方など存在しない。属する組織、属する思想。一見して組織全体が動いているように見えても、全ての物事は所詮個人の集合体に過ぎない。組織の意志と個人の意志は全く別のものだ。
 組織全体が利益を得ていると言って、そこにいる人間全てが恩恵を受けるわけではない。
 かといえば、何ら利益のない場所にいても、その個人だけには有益と言うこともある。
 大事なのは、介入者がどちらの立場を支持するかによって利益を得るタイプの人間かと言うことだ。
 西遠寺を支持するのであれば、彼の恩恵を受けられるという算段だろう。
 しかし、私を支持するとなれば、遺産は手に入らない。
 遺産を手にしないことで利益を得る立場。
 それが一体どんな人間だというのか。
 普通の神経なら、まずそんなことを求めていないだろう。
 となると、もう一つの線………………私と西遠寺以外にも遺産を受け取れる人間が居る、ということだ。
 しかし、誰が。
 そして、何故今になって。
 この質問は、ここ数日私の日課にすらなっている。
 これも恭也が望んでいた事態なのか。
 だとすれば、手の込んだ喜劇だ。
 
 あたりが完全に闇に閉ざされると、周りの音はより深く響く。
 坂を、車のライトが照らしている。
 珍しく食堂にいた私はそれに気が付いた。
 玄関前で少し停車すると、車は引き上げていく。
 エンジン音が遠のいていった。
 玄関の扉が開いて、バタバタと走る音。
「遅くなって申し訳ありません。すぐにお食事の用意を」
 足音で明香と判っていた。
 食事の時間に合わせて帰ってくるとは律儀なことだ。
「構わん。適当に済ませる」
 特に空腹というわけでもなく、わざわざ明香の手を煩わせるまでもない。
「そういえばお車がないようですが………」
 明香が訊ねる。
「ああ。壊した」
「それでお体の方は」
「見ての通り問題ない。壊すのは、趣味だ」
「…………左様ですか」それで少し安堵したのだろうか。あきれたように一言。「御自分を少しは大事にされた方がよろしいかと」
「私が死んでも困る人間は居ない」
「そんなことありませんわ。私が困りますもの」
「金の心配なら無用だ。何なら、次の勤め先を探しておいてやってもいい」
「『やってもいい』ということは、まだ探してくれているわけではないのでしょう?」
「無論だ」
「となると、私にはまだ死んで貰っては困る、という結論になります」
「なるほど。筋は通っているな」
 立ち上がろうとする私を、明香は手で制した。
「お茶漬けでよろしいですか?」
「ああ」
 頷き、再び腰掛ける。
 結局のところ、この屋敷にいる限り彼女が手を休めることなど無いのだ。
 塩昆布に、ごく少量の白飯。そして濃く入れた茶をたっぷりと注ぐ。
 茶漬けというものをよく理解している。
 私は決して美食家ではないが、それなりのこだわりというものは持っている。
 小さなこだわりが、生活を豊かにする。
 それに気付いたのはごく最近のことではあるが。
 こんな話をしたらきっと明香は笑うだろう。
 当たり前のことだ、と。
「どうぞ」
 出された茶漬けに箸を付ける。
 よく考えてみれば、明香が来る前は食事を作るのが面倒なのでよく茶漬けにして食べていた。
 物自体、作り方自体に変わりはない。
 が、自分の作ったものよりもずっと美味に感じるのは、何故なのだろうか。
 料理という物は秒単位で味が変わるものだ、という話を明香自身から聞いたことがある。
 とすれば、明香と私の味の差というのは、その間の取り方にあるに違いない。
 注意してみれば、判るのだろう。
 だが、そういうところに気付かないのが、私と明香の絶対的な差となっている。技量の差、というのは実際些細なことの積み重ねにあるのだから、当然といえば当然だ。
「ところで玄関のラベンダーだが」
「帰ってきたときに気付きました。良い香りですね」
「お前が生けたのではないのか?」
「いいえ?」
「ふむ」
 となると、持ってきたのはやはり西遠寺か。
 似合わん事を。
「なにか?」
「いや。大したことではない」
 明香が洗い物をしている。
 私から見えるのは、背中だけだ。
 正面から見ても、明香の顔は前髪で隠されているために全てを読みとることは出来ない。
 しかし私とて、明香の背中に負うものが彼女自身の大きな負担になっていることは判る。
 それがなんなのかを知るすべは、私にはない。
 そして知ろうとすることはもはや思い上がりだろう。
 誰とて触れられたくない過去は存在する。
 それは弱さと同時に強さだ。
 振り切れないからこそ、人はそれを足がかりにして前へと進むことが出来る。
 だが、過去の痛みが鈍麻しているとは限らない。見えない傷は時に深く疼く。塞がったはずの傷がいつまでも血を流しているのはよくあることだ。
 他人の過去に触れるなら、それが攻撃的な理由などでない限りは細心の注意を払うべきだ、というのが私の考えだった。そしてそれはごく当たり前のことでもある。
 明香の入れた茶を飲みながら、しばし感慨に耽る。
 当たり前。
 この世に当たり前などという物は一つしかない。
 生き物は必ず死ぬ。
 それ以外に、絶対などという物はない。
 沈んだ太陽がまた明日昇る保証など無い。
 眠り、朝がきても目が覚めるという保証もない。
 1時間後に突然心臓が停止するかも知れない。
 今日を生き、明日もまた生きていられる保証など無いのだ。
 生きることは決して当たり前のことなどではない。命は危ういバランスの上に成り立っている。
 が、それをいつも頭に置いているような生き方は疲れるだろう。
 そのときが来たら、それは当たり前のことだったのだと感じる程度で十分だ。
「また、難しい顔をしてらっしゃいますね」
 明香が私に顔を寄せて言った。
「何故そんなことをいう」
 冷たい指先が私の額を這う。
「だって、眉間に皺が寄ってますもの。癖になりますわよ」
「眉間の皺がか?」
「いいえ、考え方も」大仰に首を振って答える。
「性分だ。これをやめると私は自分のアイデンティティを失う」
「考え方を改めたぐらいで存在理由が無くなるなんてずいぶんとナイーヴですね」
「悪いか」
「可愛いな、と思いますが」
「男にとってそれは褒め言葉ではないな」
「それは失礼しました」
 しかし、言葉に悪びれた様子はない。
 ただのキャッチボールだ。
 言葉のキャッチボール。
 ゲームでも駆け引きでもない、ただのやりとり。
「男にとってといいましたけど」明香は椅子を引いて私の前の席に腰掛ける。「可愛い、という言葉が女にとっても褒め言葉になるとは限りませんよ」
「覚えておこう」
 無論、大人の女に可愛いなどという言葉を使うような感覚は、私にはない。
 つまるところ、明香は可愛いという言葉を褒め言葉とは取っていないと言うことなのだろう。
 先ほどの、私への言葉も含めて。
「玄関のラベンダー、戴いてもよろしいですか?」
「別にかまわんが、どうする気だ」
「ドライフラワーにしてから、エッセンシャルオイルと合わせてポプリにしてみたら面白いかなと思いまして」
「ポプリなど買ってくれば済む問題だろう」
「あら『作る楽しみ』というものもありましてよ?」
「別に口出しする気はない。好きにしろ」
「貴方も何か作ってみればいいと思いますけど。よろしければ何かお教えしましょうか?リリアンとかパッチワークキルトとか」
「無理なことを言うな」
 そんなものが作れるような器用さは私にはない。指に怪我をするのがおちだ。
「やってみると案外面白いですよ」
「面倒だ」
「洒落た趣味のある人は女受けがいいっていいますけど」
「リリアンやパッチワークキルトの何処が洒落た趣味なんだ」
「洒落てませんか?」
 自然とため息がでた。
「お前の感覚にはついていけん。編み物は女の趣味だろう」
「『男のやることだから』『女のやることだから』というのは古い考えだと思います」
 口調に、僅かながら怒りがこもっている。
 どうやら、私の発言がボーダーラインに触れたらしい。
 流れが悪くなってきた。
 このまま留まっていると、明香の説教を食らいそうな気がする。
「すまんな。私は旧世代の人間なんだ」
 立ち上がり、ドアへと突き進む。
 振り向かない。
「では、おやすみ」
「話はまだ……………」
 ドアを閉めて早足で階段を昇る。
 さすがに追いかけてくるようなことはないが、何となく居心地は悪い。
 忙しい一日。
 終わりまであわただしい。
 明日が穏やかであればいいのだが。
 そんなことを考える。
 階段を昇る最後の一歩。
 歩調は緩やかになっていた。
 何となくため息をつき、寝室のドアを開ける。
 着替えずにそのままベッドに倒れ、目を閉じる。
 眠かったわけではないが、すぐに睡魔がやってきた。
 また夢を見るだろう。
 悪夢を。
 眠りは安息ではなく、或る意味拷問に近い時間でもある。
 現実と秤にかけた場合、どちらが幸せなのか。
 寝ても覚めても闇の中。
 絶望感はなかった。
 あるのは諦めだけだ。
 夢のなかで息絶えても、現実に死んだわけではない。
 如何なる夢であろうとも、醒めればそこには現実がある。
 そして、陽はまた昇るだろう。
 絶対ではないにしろ、絶対に近い確率で。
 もし太陽が昇らないのだとしたら、最後の晩餐は塩昆布の茶漬け、ということになる。
 それも面白い。
 要は考え方、捉え方なのだ。
 いつになく楽観的な考えで眠りに落ちる。
 深い闇に沈んでいった心には、何も写らなかった。


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