ハードボイルドというのは一般的なイメージとして

「かっこいい」

「渋い」

「クール」

「男のロマン」

 などと形容される。

 しかし、ハードボイルドというのはこれらのイメージとは根本的に異なる概念である。
 ハードボイルドとは「固ゆで卵」を意味する言葉だ。
 固ゆでの卵は丈夫な殻に包まれていて、中身は黄身まで固い。外側の白身の部分は弾力があるが、在る程度の力を加えると簡単に傷が付き、割れてしまい、黄身まで開いてしまう。
 ハードボイルドとはそのような精神を持った人間達のことである。
 見た目よりずっと傷つきやすく、繊細なのだ。
 かっこいい台詞を吐くだけのハードボイルドものは、本来ハードボイルドですらない。
 なぜなら彼らはその優れた能力に苦悩したりしないからだ。(それを判らずにハードボイルドなどと言ってる人間がいるのは非常に愚かで嘆かわしいことだ)

 もしこれを読んでいる貴方が、外向的で、人と話すのが上手く、あるいは普通に話すことが出来、パーティに出かけたり、ガールフレンドと一緒にいたり、そういうことが全く苦にならないタイプの人間なら、残念ながら貴方はハードボイルドに生きることは出来ない。

 ハードボイルドとは繊細で傷つきやすい、ナイーヴとも言える人間が、この世界で生きていく為のスタイル、格闘技である。

 この世界は、非常に鈍感で、攻撃的で、狂っている。
 「愛と平和」を謳うくせして、メディアはひたすらに勝つことのみを追求し、拡張を唱え、闘うこと、他者を攻撃し屈服させることを要求する。

 大抵の人間は、それを当然のこと、当たり前のことと考える。

 繊細な人間は戦いを好んだりはしない。
 調和を愛したり、メンタルな部分での充足を求める。物事の些細な面に目を向けることが出来、それを解決したり、そのための方法を模索し、提案することが得意だ。
 だが、その繊細さ故に自分から表に立ったりすることが出来ない。あるいは苦手だ。
 大勢の人間は、そういう繊細な人間を「弱者」と見なす。
 臆病であると考えたり、やる気がないと見なしたり、酷い時にはその人間を抑圧、弾圧しようとしたりさえする。
 繊細な人間はマイノリティだ。そしてそれを守ってくれたり、認めたり出来る人間は少ない。攻撃的な人間ばかりの場所に生きている人間にとって、この世界は地獄といっても過言ではないだろう。
 絶望しても無理はない。

 では繊細な人間は死ぬしかないのか?
 耐え、歯を食いしばり、誰かの下敷きになりながら生きるしかないのか?
 その気高い精神、誇り高い魂、この世の大半を占める「鈍感な」人間よりも圧倒的に優れた観察力、洞察力を活かすことが出来ずに?

 そうではない。
 また、その本質を変容させる必要もない。
 我々は繊細なままでいいのだ。たとえ、それがこの世界に於いて少数であったとしても。
 それは持って生まれた才能なのだ。
 だが、素のままで生きていくことが大変な苦痛を伴い、また困難であることも確かだ。

 ハードボイルド小説に探偵物が多い理由を考えたことがあるだろうか。
 彼らは深い洞察力で事件の違和感を見抜き、トリックを暴き、物事を解決に導く。人生に対する教訓を十分に心得ており、悩める者を導き、あるいは助ける。
 だが自ら拳を振り上げて闘ったりはしないし、普段からパーティに出たりバカ騒ぎしたりするような人物ではない。
 未婚であったり、離婚していたり、あるいは恋人すら居ない。結婚していても、子供が居ることは極めて稀である。
 そして人気の少ないところで事務所を構えていたりする。

 これらステレオタイプのハードボイルドものには、共通の特徴がある。
 彼らの内面は繊細で、傷つきやすく、だからこそ第6感にも優れ、小さな違和感に気がつくのだ。
 人を避けるのは、その能力故に他人の違和感までも嗅ぎ取ってしまうことを本能で知っているからに過ぎない。
 大人になればなるほど、そういう敏感な能力というのは疎ましく、また疲れるものだ。

 ハードボイルドは、そんな人間が生きていく為のペルソナである。

 それを被るのは、油断ならない「その他大勢」の前だけでいい。
 繊細な人間に必要なのは安息だ。孤独といってもいい。自己の内面へポジティブに目を向ける時、その人の精神的なポテンシャルは限りなく高まっていく。
 だが生きる為には働き、いやでも人と関わらなければならない。
 繊細な人間がそのままの状態で出ていけば傷つくことは目に見えている。しかも、傷つけた相手はそれに気づかないのだ(なぜなら、彼らは鈍感だからだ)。かくして貴方の心には痛みだけが残り、一人だけ辛い思いをする。相手の意図とは関係なく、彼らの僅かな心の動きを察知してしまうが故に痛みを感じたりすることもあるだろう。
 この辺りは、SFでテレパシストが相手の心を読めてしまう為に苦悩するのと似ている。
 
 だが、そう感じてしまうのは、この能力がネガティブな物である、という誤った認識が広く浸透しているからだ。
 鈍感な彼らの流儀に合わせる必要はない。
 我々には、危険を察知する力がある。
 用心深いウサギを臆病と見なす馬鹿者は居ない。少なくとも、人間以外には。

 今こそ、我々はこのかたゆで卵で出来た仮面を被ろう。
 我々の内面を守る為に。
 あるいは、我々の内面をよりよく活かす為に。

 この講座が、悩める貴方の内面を守る一助になれば幸いである。

 もちろん、単なる愉快な読み物と取っていただいても何の問題もない。


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