[大名行列]
 亡くなった三遊亭円生は、江戸の町人の大名に対する気分を伝える時、こんな風に語っていた。
 「昔は大名行列といえば大層なもので、百姓町人なんぞは脇で土下座して、お行列の過ぎるのを待ったものでございます。ただ江戸の町中では人通りも多うございまして、そんな事もしていられなかったようでございます。町人が二人で、はばかりに入っておりまして、小窓越しにどこかの大名行列が通るのを見て、『おう、どこの大名でい』『加賀らしいや』『へえ、加賀かい』 ひどい言い草もあったもので…」
 江戸の人にとって大名といえば、まず加賀前田家が思い浮かんだのだろう。
 百万石祭の大名行列の先頭で奴さんが毛槍を振っているのを見て、本当にあんなことをしていたのだろうかと不思議に思っていたが、西田敏男氏の「参勤交代道中記・加賀藩資料を読む」の中に、春になり、江戸への参勤が近づくと、金沢の町の辻では足軽達が毛槍の稽古を始めていた、とあるのを読んで、ああ、やっていたんだなと可笑しくなった。
 加賀藩の道中は、中仙道から信濃追分を経て、北国街道に出る経路を多く採ったので、その様子は北国街道沿いの信濃柏原にいた小林一茶の句にも詠まれている。
  梅ばちの 大提灯や かすみから
 もっとも一茶には
  ずぶぬれの 大名を見る 炬燵かな
という、意地の悪い句もあるが。
 加賀藩邸といえば本郷の今の東大が上屋敷だが、中仙道最初の宿である板橋に下屋敷があったので、今でもその一帯は小学校や町の名に「加賀」や「金沢」と付いたものが多い。上屋敷跡からは、ふぐ、ぶり、たらなど、金沢で好まれた魚の骨が出土しているが、江戸人の好きなかつおは無いという。勤番侍の食生活が偲ばれる。
 日本橋を出た中仙道は今の本郷通りを東大、旧上屋敷に沿って北に進み、農学部前、旧水戸家屋敷前で西に分かれる。
 そこを本郷追分といい、角には江戸時代から続いた酒屋の店が今もある。
 今はビルの並んだだけの何の変哲も無い分かれ道でしかないが、そこに立つと、笠を被り、足を草鞋で固め、行列を組んでこの追分から中仙道を北国金沢を指して歩いていった侍達の後ろ姿が見える。







「大名行列図屏風」 
石川県立歴史博物館所蔵
実物はもっと長いのですが、
これはその一部です。


金沢市の公式ページ「いいねっと金沢」からお借りしました。
http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/index.html

さすが金沢だけあって趣味の良いホームページです。







現在の本郷通り。
右が水戸屋敷のあった東大農学部。
左に入る道が旧中仙道。
角にあるのが江戸時代からの高崎屋。


写真は安島喜一さんのホームページ「おたまじゃくし」からお借りしました。
http://www.asahi-net.or.jp/~hm9k-ajm/index.htm


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