[樋口一葉]
 本郷台は細長く狭い台地で、江戸時代は背骨部分を中仙道が通り、上野台地側とは反対側は小石川の谷に落ち込んでいる。崖下への道は本妙寺坂、梨木坂、菊坂などの名がある。
 この菊坂下に樋口一葉の一家が貧しく住んでいた。今もその辺りは、狭い階段道や共同井戸が残り、当時の雰囲気が伝わってくるので、しばしばテレビや雑誌で紹介されている。
 一葉はその後、下谷龍泉寺町に移り、翌年再び、やはり本郷台地の崖下の丸山福山町に越してきた。丸山福山町の家には崖から染み出す水の作る小さな池があったという。
 父を喪い、男のいない家の戸主として、一葉は生計を立てるため針仕事をしていたが、目が悪いため苦労していた。その頃、自分の属する歌塾の同門で、後に三宅雪嶺の妻となった田辺花圃が小説を書き、それが三十三円余りで売れたことを知り、それなら自分も、と思い立った。
 そして、「たけくらべ」が森鴎外らに絶賛されて評判となり、一葉の名は知られようになるが、一葉自身はその直後の明治二十九年に、この崖下の家で結核のため二十四歳で急逝してしまう。
 思春期の少年少女の瑞々しい感情を書き留めた一葉の作品は、尾崎紅葉の門弟時代の泉鏡花に強い衝撃を与え、鏡花が「一の巻」や「照葉狂言」を書くきっかけになったといわれている。
 鏡花自身も門弟時代に一葉を訪れている。鏡花は晩年の作品である「薄紅梅」に一葉を登場させているが、その姿は伝えられている一葉像とは異なり、ほつれた銀杏返しに、じれった結びで、今冷や酒を湯呑みで引っ掛けていたと鏡花に向かって話すような姐娘(あねご)、としている。
 広辞苑では、じれった結びとは髪を簡単に束ねた、あまり品の無い髪型のこととなっているが、「薄紅梅」では帯の結び方として使っているように思える。
 一葉は、自分の会った鏡花について日記に何も書いていないので、まだ新進作家の鏡花の印象は薄かったのか、或いは好意を持たなかったのかもしれないと言われている。
 そんな一葉が鏡花にこのような気を許した態度をとったとは思えない。鏡花の一葉への想いが創り出した一葉像なのだろう。
 暗い崖下の生活から這上がろうとして小説を書き始めた一葉は、魔に追われながら一気に才能を開花させたが、遂に追い着かれて帯を掴まれ、崩れ伏してしまった。
 一葉は、まだ家が豊かだった幼い頃、台地の上、加賀藩邸の赤門前に住んでいたことがある。隣が法真寺で、その法真寺では、今も毎年十一月に一葉忌が営まれ、その頃になると、文京区の掲示板には髪を結った細面の一葉の顔を載せたポスターが貼り出される。







(左)樋口一葉
写真は分銅惇作編
『近代の文章』筑摩書房より

(右)本郷菊坂下
一葉といえば必ずここが紹介されます。


写真は風太郎さんのHP「かたつむり行進曲」の中の「東京散歩」よりお借りしました。

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http://homepage1.nifty.com/whotarou/index.htm

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