[折口信夫]
 折口信夫は国文学者、民俗学者で泉鏡花にも深い関心を寄せていた人だが、三十一才の時の大正六年に郁文館中学校の教員を数か月間だけ勤めている。
 私は、生徒がうるさいので折口もすぐ辞めたのかと思っていたが、そうではなかったらしい。
折口が夏休みに沖縄に調査旅行に行ったきり九月になっても帰ってこないので、学校は困って辞めてもらったという。
 漱石が郁文館裏の「猫の家」から引越していったのは明治四十年なので、残念ながら二人の幸福な出会いは果たされなかった。
 折口と金沢との関係は幸福とは言えない。彼の愛弟子で同居していた能登出身の藤井春洋は太平洋戦争の末期に応召して金沢で入隊したが、この時覚悟のあった折口は急いで春洋の養子縁組の届けを出した。
 保証人には折口の師の柳田國男もなっている。
 室生犀星の「我が愛する詩人の伝記」に、春洋の入営時には折口が金沢に来て、石川門で春洋を見送った時の様子がいたわり深く、そしてやや生々しく描かれている。
 その時の折口は「心の肉をげっそりと落として」と形容されている。
 ただ、折口が春洋の実家に出した手紙によれば、折口は春洋と千葉県の吾孫子で最後の別れをした、となっている。
 春洋の部隊は硫黄島に送られ、洞窟の中で全滅し、春洋は還ってこなかった。
 昭和二十七年に硫黄島の洞窟で発見された守備隊の遺品の中に、藤井春洋、と書かれた考科表があった。
 泉鏡花は昭和十四年に亡くなる一か月前に折口との座談で、お化けや幽霊についての思いを語っている。遺品を見た時の折口は鏡花との対談を思い出しただろうか。
 折口は春洋の故郷の能登一ノ宮に父子の墓を建て、碑文を刻んだ。

  もっとも苦しき  たたかひに  最もくるしみ  死にたる
  むかしの陸軍中尉  折口春洋  ならびにその  父信夫の墓

 大和言葉で編まれた中で、陸軍中尉、の部分だけが漢語となる。
 折口がこの一語に込めた思いは何だっただろうか。
 折口は大阪生まれで、写真を見ても小柄でいかにも繊細な感じの人だが、今はその魂は冬には雪と風に吹き晒される能登海岸の松林の中にある。



  折口信夫        折口と藤井春洋

写真は石川県羽咋(はくい)市商工会のHPよりお借りしました。
http://www.ishikawashokokai.or.jp/hakui/index2.htm

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