[犀星の東京]
 私の今住んでいる所は東京の西日暮里駅と田端駅の近く、動坂という広くなだらかな坂を下ったところにあるので、動坂下と言われている。明治四十三年に室生犀星が初めて上京して住んだ千駄木林町や谷中三崎町のすぐ隣になる。
 犀星は下宿代が払えなくなると、自分で僅かばかりの荷物を運べる近さの所を探して、転々と引越しを繰り返していた。
 川端康成も若い頃、この辺りに下宿していて、貧乏のため下宿代に窮していたという。
 家で犀星の「或る少女の死まで」を読んでいると、若い犀星が野心を空回りさせながら彷徨している下駄の音が四方から聞こえてくるような気がする。
 犀星は二十八才の時、隣の田端に移り、近くに住んで親しくしていた芥川龍之介が昭和二年に自殺したのに衝撃を受け、翌年四十才で去るまで住んでいた。
 動坂には一時北原白秋が居て、犀星は田端からよく通ってきていた。
 佐藤春夫も動坂に住んでいて、谷崎潤一郎を連れて犀星の下宿に遊びに来ている。
 動坂を上がると本郷台に出るが、上がった所から今は保健所通りといわれる少し広い道が台地の縁に沿って南に延び、団子坂に行き当たる。
 団子坂上は森鴎外(*)の自宅、観潮楼のあった所で、その頃は遠く東京湾が見えたので、この名が付いた。
 今は観潮楼の跡は文京区立鴎外記念本郷図書館となっていて、金沢出身の谷口吉郎が設計している。
 犀星はこの辺りで馬に乗って陸軍省に出勤する鴎外を見ている。
 近所の人の記憶では鴎外は乗馬が下手で、馬にしがみつくようにして乗っていたという。
 この保健所通りは台地の上の高級住宅街で、高村光太郎と千恵子が住んでいた。
 田端時代の犀星がここを訪ねたときの様子が「我が愛する詩人の伝記」の高村光太郎の章に書かれている。 犀星は、既に詩人として名の高い光太郎の知遇を得ようと光太郎の趣味で建てた洋風のアトリエの前におずおずと立ったが、小窓から顔を見せただけの千恵子にドアも開けてもらえず、三度も手ひどく追い返されている。
 自尊心のとりわけ強い犀星なので、受けた仕打ちには余程こたえたらしく、その時の千恵子の様子を詳しく書いている。結局四度目に九谷焼の大皿を持参した時に、ようやく光太郎に会えた。
 千恵子は昭和十一年に心の病のまま亡くなり、近所でも有名だった洋館も戦災で焼けてしまった。今は家のあった所は駐車場になっていて、白々とペンキの線が敷かれ、文京区の説明板がぽつんと立っている。







観潮楼跡の文京区立鴎外記念本郷図書館。
本郷台の崖際に立っています。



写真は安島喜一さんのホームページ「おたまじゃくし」から
お借りしました。
http://www.asahi-net.or.jp/~hm9k-ajm/index.htm
田端文士村や本郷台その他の文学散歩も入った内容豊富なページです。










保健所通りにある高村光太郎の家の跡。

左に行くと鴎外の観潮楼跡に出ます。



(*)鴎外の「鴎」の字の偏の中は「メ」ではなく、正しくは「品」です。
   私のワープロでは表示できず申し訳ありません。

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