[女学校と鏡花]
 昭和三年生まれの母は石川県立第二高等女学校を卒業している。もっとも、その頃は戦争末期で連日勤労動員に駆り出され、殆ど勉強どころではなかったらしい。
 動員された先は飛行機工場だったという。母は一度だけ完成した飛行機を見たが、それが抱きかかえられる程小さかったので驚いたという。
 動員も最初の内は先生も張り切って、一生懸命生産に励むよう生徒達を督励していたが、やがて敗色が濃くなり、戦争の将来が見えてくるにつれ、無理をして体を壊さないよう気遣うようになったという。
 昭和六年生まれの曽野綾子さんの一家は戦争末期に金沢に疎開して、彼女もしばらく第二女学校に在籍している。母より少し年次が新しい。
 昭和三十年の作品の「黎明」は敗戦前後の混乱した時代の中での、彼女の家庭の暗い状況を描いたものだが、勤労動員で本多町の工場で特攻機の部品を作っていたことや、手入れもされず荒れた兼六園の様子も書かれている。その中で、工場の二階の畳部屋での引率の先生の訓示に驚いたことが書いてある。異性と不謹慎な態度で口をきいたり、一緒に出歩いたり、人前で馴れ馴れしい様子をするが如きは断じてやめなければならない、登下校の途中で道をきかれても男性には答える必要がない、という。
 私はこの文章を書いている時に、母に泉鏡花を読んだことがあるか訊いたことがある。女学校時代に「高野聖」を読んだきりだという。理由は、あれはエロだからという。
 「高野聖」をエロの一言で片付けられては鏡花も立場が無い。
 昭和十年代の読者はそのような読み方もしていたのかと思うと面白い。
 第二女学校の教育方針は母に生きていて、哀れ泉鏡花は母からお出入り禁止を言い渡されていた。

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