[空襲]
 高校時代の夏休みも近い日だった。その日はフェーン現象のためか、耐えられない暑さで、午後のK谷先生の数学の時間には、酸欠状態の金魚のように、誰もぐったりと机の上で喘いでいた。そこで、K谷先生は授業の方は早々に諦めて思い出話を一つされた。
 先生は東京女子高等師範学校、今のお茶の水大学出身だが、学生の時は戦争末期で、連日の空襲のため中々授業どころではなかった。そして、ある日校舎にも焼夷弾が降ってきて、学生達は防空壕に逃げた。その退避の途中、K谷先生は燃えている焼夷弾の一発を必死になって消し止めたという。
 「私は少なくとも焼夷弾一発を消すという戦果を挙げました」と言う言葉が先生の武勇伝の結びだった。数学嫌いの私は、恥ずかしながらK谷先生の授業はまったく記憶にないが、この話はあの日の暑さと一緒に、今でもよく覚えている。
 日本本土が初めて米軍の空襲を受けたのは開戦の翌年の昭和十七年四月十八日で、B25爆撃機十六機が空母から飛び立って、東京など五都市を爆撃した。
 指揮官はドゥリットル中佐で、この名が私の子供時代の愛読書であるドリトル先生シリ−ズのドリトルと同じだと後で知って微かに驚いた。
 私の父は大学生時代に東京の目黒の下宿の窓からこの空襲を目撃している。
 襖を叩くようなバンバンという音がするので外を見ると、低空飛行の一機の後ろで高射砲弾が次々炸裂するのが見え、あまりに飛行機の近くで炸裂しているので、上手い訓練をしているものだと思ったという。屋根に上がって見物している者もいた。
 その機が去った後で、やたらに戦闘機が飛び回っていたという。父の見た機は芝浦方面を爆撃している。
 別の一機は私の住んでいる所の近くの谷中墓地の上を低空で飛び、飛行士のマフラーの赤い色まで見えたという。この機は荒川区尾久を爆撃し、一家六人が即死している。
 東京が本格的な空襲を受けたのは昭和二十年になってからで、十二万人以上の死傷者を出した東京大空襲は有名だが、四月十三日の夜から十四日にかけての空襲の被害も大きかった。この時の空襲で、千駄木の高村光太郎と千恵子の家、根岸の子規庵、田端の文士村一帯も焼けてしまった。大塚の東京女子高等師範学校はこの時と五月二十五日の空襲で大量の焼夷弾を浴びている。昭和十四年に亡くなった泉鏡花の麹町下六番町の家が焼けたのは五月二十五日で、本郷団子坂の鴎外の観潮楼は一月に焼けている。
 関東大震災にも無事だった本郷森川町の徳田秋声の家は戦災も免れ、現在は東京都の史跡になっている。
 桐生悠々は金沢出身で、四高同窓の秋声と共に文学を志して上京し、後にジャーナリストになったが、昭和八年に「関東大防空演習を嗤う」を書いて、信濃毎日新聞を逐われている。上空に敵機を迎えてしまったら既に勝負はついている、そうなる前の段階で防がねばならないという論旨だが、悠々の予言は当たってしまった。
 私の住まいの前の不忍通を、団子坂に向かって少し行った所に、小さな地蔵の祠がある。平和地蔵といい、昭和二十年三月四日の空襲で、銭湯の石炭庫に避難していた二十三人が直撃弾を受けて亡くなったのを祀ってある。中を覗くと亡くなった人達の名前を並べた紙が貼ってあり、同じ苗字が多い。いつも花や菓子が供えてあり、その前で手を合わせている人を時々見かける。
 最近、祠の横に大きなマンションが建ったが、古くなった祠はそれを機会に建てかえられ、今は新しい銅葺きの屋根が光っている。







日本初空襲のため空母ホーネットを
飛び立つB25

"Grunts net" Home of American Military History
http://www.grunts.net/













千駄木の平和地蔵

写真は地域雑誌「谷中・根津・千駄木」さんのHPからお借りしました。
http://www.yanesen.net/




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