[田端文士村]
 大龍寺には陶芸家の板谷波山の墓もある。波山は茨城県出身だが、若い時に、今の石川県立工業高校の前身である金沢工業学校の彫刻科の教師として赴任し、金沢で陶磁器の技術を習得した。
 その後、明治三十六に上京し、出身校である上野の美術学校に近い田端の高台に苦労して窯を築き、昭和三十八年に九十二歳で亡くなるまでここに住んだ。
 この台地から北を臨めば故郷の筑波山が見えたので、波山の号をつけたという。
 波山の作品は優美で、端正な気品に満ちている。私は日比谷の出光美術館で初めて波山の作品を見た時、これはガラス工芸ではないかと驚いた。
 波山の金沢での教え子だった吉田三郎は彼を慕って上京し、同じ田端に住んだ。
 吉田三郎は後に彫刻家として芸術院会員となり、広坂の四高の碑も製作している。
 吉田の幼馴染みだった室生犀星は明治四十三年に上京して、大正五年には田端の吉田の下宿の近くに住んだ。
 この田端の高台にいたのが芥川龍之介で、彼の一家は大正三年にここに越してきていた。
 麦藁帽子を被り、煙草をくわえて、まだ幼い息子の比呂志や多加志と写っている芥川のフィルムが残っているが、彼の死の年にこの田端の家で撮ったものだ。
 そして、芥川と犀星の交遊が始まり、やがて田端には二人の周りに多くの作家、詩人が集まり、板谷波山を始めとする美術家達と共に、彼らの住む一帯は田端文士村と呼ばれるようになった。
 今の両国高校の府立三中で学級主任として五年間芥川に英語を教え、その後輩の堀辰雄も教え、芥川が慕っていた広瀬雄も金沢出身だが、芥川に誘われて田端に移ってきた。
 広瀬雄は加賀藩士の子で、明治七年に生まれ、後に府立三中の校長を勤め、昭和三十九年まで長命している。
 芥川の家に近く、芥川が結婚式を挙げた料亭の白梅園では、大正二年に泉鏡花の「紅玉」が野外劇として上演されたこともある。
 金沢との縁の深い中井英夫は文士村時代より後の人だが、同じ田端に生まれ育っている。
 この、芥川を中心に賑やかだった文士村は、昭和二年の芥川の自殺で実質的には終わっている。
 芥川の自殺を報じた新聞には、報せを聞いて泣き崩れる泉鏡花の様子が載っている。
 年若だが才能に溢れ、自分の作品の良い理解者であった芥川の死に、鏡花は強い衝撃を受けている。記事の中で鏡花は、自分は犬嫌いなので、芥川の家の飼い犬が怖くて最近は訪れていなかったが、と言っている。 よよとばかり泣き崩れたり、犬嫌いの事を話したりと、記事もいかにも鏡花のイメージに合うように書かれている。芥川自身も大変な犬嫌いだった筈なのだが、長男の比呂志か次男の多加志のために飼っていたのだろうか。
 犀星は翌三年に、長年の友であり一時は田端にも住んでいた萩原朔太郎の住まいの近くの大森に越していった。
 田端は昭和二十年四月の空襲で焼けており,文士村一帯も今は普通の住宅街でしかない。
 昭和八年に出来た、田端駅に通じる切通し道路が台地の真中を削り取ったため、芥川の住居跡はほとんど崖上といっていい所になっている。
 今は三軒の家に分かれていて表示板もない。芥川が住んでいた頃の山茶花の生垣が一部残っていて、よく手入れされているので、記念として大切に扱われているのだろう。
 広瀬雄の家は、今も同じ場所に子孫の方が住んでおられる。前庭の芝が綺麗に刈り整えられ、バラが数輪咲いている。
 現在の田端駅の横には、周囲を圧する高さの高層ビルが一つ建っているが、その一角に田端文士村記念館がある。小さな展示室だが、芥川を中心として、作家、詩人、美術家達の自筆原稿や手紙、作品類が展示されている。吉田三郎が製作した、文化勲章を着けた板谷波山の胸像もある。丁寧に作られたパンフレットや、キャラクターに可愛い河童をあしらったイラストガイドが備えられている。河童は、芥川の感じたぼんやりした不安とは無縁な、元気な表情で描かれている。
 大龍寺の周りの林も今は住宅地に変わり、寺は大きなコンクリートの建物になっている。















(左)窯の前の板谷波山
写真は茨城県下館市の板谷波山記念館よりお借りしました。
http://www.intio.or.jp/simodate/hazan.html#hazan

(右)板谷波山作の花瓶
写真は東京の出光美術館よりお借りしました。
同館は皇居を眼前にした眺めの素晴らしい美術館です。
http://www.idemitsu.co.jp/museum/







田端駅通り商店街のカッパ君







田端の台地にある芥川龍之介の
家の跡

生垣が残っています。
すぐ横は深い切通しになっています。

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