[バス]
 金沢の道は狭い。拡幅される前は更に狭かった。その狭い賢坂辻などをバスが通る時は、運転手は大きなハンドルを右に左に回し、張り出した軒をかすめるようにして曲芸運転をしていた。その模様をNHKテレビが「新日本紀行」で放映したことがあって、見ていた私も、やはり金沢の道の狭さは全国に通用するのだと、変に感心した。
 先日そのフィルムが「二十世紀の映像―石川県編」で三十数年ぶりに再放送されたのを見て懐かしくなった。

 私の父は小立野の県立二中、今の紫錦台中学を出ている。
 その父がこんな話をしてくれた。
 父の在学中は各中学校には、配属将校といって陸軍の現役将校が配属され、正課に組み入れられた軍事教練を指導していた。配属将校といえば一般には精神論ばかりを強調し、苛酷な教練を強いるので、生意気盛りの中学生には嫌われたものらしい。
 二中の配属将校の中には、後に聯隊長となり、第七聯隊を率いて大陸に出陣した者もいたという。
 その中に、綽名をタワケンという将校がいた。タワケンは他の配属将校とは違い、極く穏やかな人物で、生徒達が言う事を聞かなくても怒ることもせず、にこにことしていたという。
 そんなタワケンに生徒たちもそれなりに好感を持っていたらしい。
 やがて太平洋戦争、そして敗戦となり、当然、配属将校制度は無くなった。
 敗戦直後の冬にバスの中で、父は偶然タワケンを見かけたことがある。
 がたごと走っていた古いボンネットバスの奥の方から「降ろしてくれ。降ろしてくれ」と叫ぶ声がするので、その方を見たら、軍用外套を着たタワケンが慌てて出口に駆け寄って、車掌の開けたドアから出ていった。
 父が次にタワケンを見たのはその数年後だった。
 その時はもうボロボロになった同じ軍用外套を着て、垢まみれの顔でよろよろと歩いていた。
 父はそのあまりの変わりように声が掛けられなかったという。
 父は今でもタワケンの「降ろしてくれ。降ろしてくれ」という声をよく覚えているという。
 しかしタワケンは降りられないで、行ったことも無い終点まで連れて行かれ、そこで抛り出されてしまったのだろう。



旧二中の校舎だった三尖塔。
現在は金沢市民俗文化財展示館になっています。

金沢市立紫錦台中学校のサイトより拝借しました。
http://www.ishikawa-c.ed.jp/~shikij/

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