[野田山]
 金沢は二つある。一つは、人々の暮らす金沢、もう一つは、それを見下ろすようにして野田山に拡がる金沢、つまり野田山墓地。数万の墓が城下町金沢と同じく前田家の墓を頂点に並んでいる。
 利家は死に臨んで、妻まつ、後の芳春院の薦める経帷子を着けるのを「あの世には数々の戦さで死んでいった家来供が待っている。何の後生の恐いことがあろうか。」と言って断っている。そこには、戦国を生き抜いてきた武将の潔さがある。
 今は、利家も地下で大勢に囲まれ、賑やかにしている。
 小学校の遠足で行った時に変わった墓を見つけた。
 何本かの細長い石の墓標に片仮名の名が刻まれていた。日露戦争で捕虜になり金沢の収容所で死んだ十名のロシア兵の墓だった。その頃は、日露戦争のことも捕虜のことも知らなかったから、一体何だろうと思っていた。
 五木寛之氏の「朱鷺の墓」が書かれたのは、もっと後のことだった。
 地上の町の栄枯は地下の町にも影を写す。大きな墓、手入れの行届いた墓、新しい墓のある一方で、参る人も絶えたのか、割れたり傾いたりして、草や苔に半分埋もれた墓もある。
 どこかの寺で無縁となった墓石を集めて積んである中に「石川縣士族、島田某、妻某」というのがあった。明治維新で没落していった家で、子孫も絶えたのだろう。
 野田山墓地の入り口右側に、壇を築いた上に堂々と立つ墓が六つ並んでいる。
 司馬遼太郎の「翔ぶが如く」を読んだ時、西南戦争直後の東京の紀尾井町で石川県の士族達六人が大久保利通の乗った馬車を襲って暗殺する件りを読んで思い出した。
 あの墓は処刑された島田一良、長連豪ら六人の墓だった。
 加賀藩は維新に乗り遅れた。その焦りと没落士族の怨みが大久保暗殺となった。
 事件の五十年後に金沢の有志が建てた墓とのことだが、後にも彼らを支持したい気持が金沢には強く残っていたのだろう。
 明治維新は大久保の暗殺で終わったと言える。その最後の舞台に、損な役回りの端役としてしか登場出来なかった彼らのことを思うと、墓が不釣り合いなほど立派なだけに、何だか可笑しくて哀しい。



前田家の墓           ロシア兵の墓

写真は金沢市観光協会のHPの中の「寄るまっし」よりお借りしました。
http://www.nsknet.or.jp/kanazawa-kankou/yori/yori.html




野田山から見た金沢市街

写真は金沢大学ワンダーフォーゲル部のHPの中の「石川の百低山」よりお借りしました。
http://www02.u-page.so-net.ne.jp/pa2/ma-okuna/kuwv/
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